【名もない者】
――結
砂原の星
私がソーガを離れた朝、空はまだ白む前であった。
家々の灯は落ち着いて、夜の名残を抱いたまま低く沈んでいた。あの夜、遠くから見た明かりもこのようであったのだろうと思うと、しばし足が止まった。
星織は美しい。
だが本書の題を《砂原の星》としたのは、それを指してのみのことではない。私にとってソーガそのものが、広い砂原の中でようやく見つけた灯であり、失われてほしくない小さな星のように思われたからである。
砂原において、人はしばしば空を仰ぐ。
けれども時に、地の上にもまた星はある。
風に削られ、やがて消えるかもしれぬとしても、確かにそこに灯り、人を迎え、送り出すものとして。
ソーガは、そのような星であった。――
"砂原の星"を閉じ、ルシアンが顔を上げれば、身支度を終えたガルドは窓際の椅子にかけ、腕を組んで外の通りを見下ろしていた。
――もそりと起き上がる。背に毛布を背負ったまま、ベッドの上に座る。
うつ伏せて読んでいたから、背筋が固い。やや伸びをすれば、ペキ、と背の中ほどが鳴った。
その気配にじわりと顔を向けたガルドが、――小さく息をついて視線を逸らす。
「……。……」
……服を、返せというのも、……惜しいし……着やがったなと声をかけるのも、……負けた気がする。
いやもう実質負けっぱなしではあるのだが、……あれは、あの男は、他者との距離を間違わない男だ。
(……のくせ、俺の服は、いいってか)
――低く落ちた思考は、腹の底でくすぶっている。苛立ちではない。だがそうやってまとうその服に、"俺の気配"は感じないのかという、確認のしようがない思いを抱えている。
無防備さに苦々しい顔が出そうになるが、ぎち、と改めて腕を組んで押し込んだ。
ああ、うん、そうだ、この魔術師には危機感というものがないのだ。
いや、まぁ、男二人旅で危機感を抱けというのも変な話だ。それはガルドもよくわかっている。
――そして、変に危機感を抱かれてしまっても、それはそれで軽くショックだ。
が、毎日毎日勘弁してほしいという感情も間違いなくある。
「……お前」
「うん?」
顔も向けずに声をかければ、ベッドのほうから柔らかい声が返った。
怒る……違う。注意、もなんか違う。からかう……でもない。ただ不満を表明したいだけ。
「……、あんま……油断してっと、……くすぐんぞ」
「ええ?」
かろうじて出てきた脅し文句に、軽やかに返ってきたのは"また?"と笑うような声音だった。
ぴく、と目の端だけで視線を向ければ、可笑しそうにする顔……朝陽を浴びた淡紫の髪が透けていた。
……ちょっ――と、思った反応と違った。
片手で額を抱える。真っ向からお断りを受けると思っての脅しだった。
それが、「やめろ」も「だめだ」もなく「ええ?」ときた。
信頼だ。もはや無条件の信頼。そうとしか思えない。害のない存在として見られている。
万が一にも、――好意を、抱かれて、いる、とか。
――考えるだけ、無駄だ。
「……着替えろ。今日、紐のやつどうする」
「うん?ああ、新しい装備の紐ね、もう柔らかくなってきたし、多分大丈夫かも」
俯いたまま聞けば、ベッドから歩きだし、ぱさりと着替え始める気配。
顔は、上げなかった。
着替えの音が、静かな部屋にひそやかに響く。
布が擦れる音、衣服をたぐる指先のかすかな動き、床に落ちる軽い重み。
(――柔らかくなってきた、って……)
……ことは、もう、手伝わなくていいということだ。作り立ての装備。硬くて渋い編み上げ。
いや、必要なときは頼んでくる。あいつはそういう奴だ。
しばしの間ののち、ガルドは肩をすくめ、口の端を引きつらせるようにぼやく。
「……飯、食って、ギルドな」
「うん、そうしようか」
交わされる会話の最中、隣へ歩み寄ってくる足音。
顔を向ければ、軽くたたまれて差し出される黒のシャツ。
「寒くて借りてたよ。"きよら"かけて返そうか?」
「……き……あれか、綺麗にするやつ」
「うん」
言いながらも、無造作にシャツを引っ掴む手。そのまま、ぱさ、とテーブルの上に放られるシャツ。
「……いらん。はよ準備しろ」
「そう?わかった」
踵を返してベッドを整えに行く背中を見て……咳ばらいを喉の奥で呑み込んだ。
――もう、ダメだ。何だ寒くて借りてたよって。受け取った手でシャツに残る体温も受け取った。ダメだ。もうダメ。
「……くそ」
ぼそりと呟いて、ガルドが立ち上がる。もうどこにやったらいいかわからない感情は、間違いなくルシアンには当たれない。なぜなら実験の体を装って、被害に遭ったシャツを容疑者の手の届く範囲に置いたのが自分だから。
ごつごつと歩を進め、部屋の隅のスタンドにかけた外套、は……まぁ食堂に飯を食いに行くだけならいらないか。もう自分が何の行動をしているのかもよくわかってない。鋭意混乱中である。
そんなこともお構いなしに、背後に近づいてくる軽やかな足音。
今日も今日とて、何事もなかったような顔で、やけに無垢な笑顔がそこにいる。
「お待たせ、行こうか」
「……んん」
声を返すものの、足は動かない。
こうして無防備に横に立ち、まるきり何も気にしていないように同室で、腰が急所だというわりに普通に着替え、こちらが何を言っても笑顔が返ってくる。
いつも飄々として、風のようにつかみどころがない。
そのくせ、ここにいる。
抗議交じりの眼差しで見下ろせば、雇用主殿はきょとんとして、何やら優雅に首を傾げていらっしゃる。
(――こいつマジ……)
舌打ちをひとつ。半ばヤケで、両手を差し出し……くすぐりの構えをしてみせる。
脅しじゃねぇぞ、と。頼むから、もう少し距離をとれ、と。
そんなガルドの構えを見たルシアンは、目を丸めて二度ほど瞬きをした。それはほんの一拍ほどの沈黙だったが、ガルドには、すごく、――長く感じた。
「……ふふっ?」
銀の瞳が、ガルドを見上げて、そう笑う。
挑発ではなく、するの?という純粋な顔。どこか楽しげな雰囲気すら。
持ち上がる腕。差し出される胴体。魔力核は普通に機能しているはず。
――据え膳、だ。
ガルドの手が、わずかに揺れた。
いや、……止めた。
寸前で固まった腕。広げた指先のまま、まるで時間が凍ったかのように。
目の前の魔術師は、逃げない。構えない。拒まない。
ただ、淡々と、まっすぐにこちらを見ている。
安心しきった顔で。
「……チッ……」
苦々しい舌打ちと、歯の裏で噛み潰した言葉。構えた両手を、ガルドはゆっくりと下ろした。
そのかわり、ひとつ深く息を吐いて、真横に立つルシアンの額を、指先で軽く――こつ、と小突いた。
「んっ」
「ボケ」
それは、突き放すでも、触れるでもない……ただ、"据え膳"に手をつけなかった、護衛の最後の一線だった。なけなし。
「飯行くぞ」
ぶっきらぼうに言ってみせ、目を逸らすように扉に向かう。
背後の表情は分からなくとも、背中にはいつもの気配があった。
宿での朝食を終え、外套だけを背負い、ギルドへ向かう。
ルシアンは相変わらず優雅に通りを歩いていて、ガルドはその横を仏頂面で歩いていた。
――惨敗だった。今日も朝から。
護衛の眉間に皺が寄る。隣の雇用主に視線を向けるには至らない。小さなため息をぽつり。
いや、こちらで勝手に勝負を仕掛け、勝手に負けたようなもの。だが、それがまた悔しいというか、なんというか。
何が一番しんどいって、ルシアンに勝ち負けという意識すらないこと。ガルドの一人相撲だった。
ガルドが冒険者ギルドの大扉を引けば、ルシアンがするりとその横を通って中へ入った。
朝のギルドホールに現れた二つの影に、遠慮気味に視線が集まる。
ふたりにとってはもう毎度のことだったが、カドゥルのギルド支部では、ふたりそろった姿を初めて見た者がほとんどだった。
小さく肩を揺らす者。カウンター奥で固まる職員。ギルド食堂から覗く顔もいくつか。
「あ、れが無哭の相棒……?」
「……男なんだよな?」
「やっぱ一緒に動いてんだな……」
芸のない噂話に、ため息も出ない。歯牙にもかからない。
けれど書庫へ行こうとしたルシアンが、依頼掲示板の前でガルドと別れる、その直前。
「あれが"無紋"……」
――どこからか、そんな囁きが聞こえた気がした。
……銀の瞳が、群衆へ向く。
その隣、ガルドの足元の石床が、ジリ、と鳴った。
……それは、子爵家の息子に、罵倒のように投げかけられた言葉、なの、だが。
「…………」
「…………」
誰も、喋らない。喋れない。
柔和に微笑む瞳に射抜かれ、群衆が水を打ったように静まり返る。
そんな中、衣擦れの音がして、ルシアンの手がガルドの外套を軽く引いた。
威圧を孕んだ赤い瞳が、静かに淡紫を見下ろす。
「じゃあ、書庫に行ってくるよ。掲示板でも見て待ってて」
その視線で、――"いいから"、と伝えれば……、……ガルドは黙って威圧を解いた。
ギルドホールの空気が、じわりと緩む。
詰まっていた呼吸を取り戻すように、冒険者たちがわずかに身を引き、目を逸らす。
数人が「……すまん」とでも言いたげに目線を伏せ、別の会話に移っていく。
ルシアンもまた何事もなかったように微笑み、軽やかに階段へと向かう。その背を、赤い瞳が一瞬だけ追う。
何も言わず、何も問わず。ただ、そこに"静かに制圧された"事実だけが残る。
「……無紋、か」
誰にも聞こえないように、ガルドが低く呟いた。
あれは、名を与えられずとも、在る者だった。
それが、名を持たぬまま、名で語られた。
…………。
――もう一回りだけ、ホールの中に視線を這わす。
誰から零れたのかもわからない声だった。どこまでいったのかもわからない。
(……いいから、ってか)
ふん、とひとつ鼻を鳴らして、ガルドは依頼掲示板の前に立った。
その揺るぎない背中を見て、誰かがまたひとつ、息を呑んだ。
――【名もない者】




