【雇用主の朝】
山裾に抱かれた、カドゥルの街。
ルシアンはこの日、朝早くに目が覚めた。
隣のベッドでは、ガルドがこちらに背を向けて眠っている。窓へと視線を流せば、じき日の出という頃合いか。……天気はよさそうである。朝の散歩に、ちょうどいい時間。
ルシアンは、活気づく前の早朝の街を散策するのが好きだった。
のだが、少々タイミングが合わず、この街ではまだそれが実行できていない。
こうして折角早く起きたのだから、これは是非とも行くべきだね、と布団から出ようとして――肌に触れる空気がひやりと寒くて引っ込んだ。うん、無理はいけない。
ベッド脇のサイドテーブルに置いていた本を手に取る。
"砂原の星"。あの仏頂面の護衛が、ギルド書庫でちょっと顔をしかめながら借りてくれたのかもしれないことに、少し頬が緩む。
昨日はずっとこの本を読んでいて、挟んでおいたしおりはもうだいぶ後ろのほう。
もそり、ベッドにうつ伏せて、本を開……こうと思ったが、やはりそわりと寒い……。
これは恐らく宿の寝具が、というよりは、ここ最近の冷え込みに自前の寝間着が追い付いていないだけ。
温かい寝間着を支度しなければ。街の仕立て屋に売ってるだろうから、後で見に行こう――、そう思いながら、視線を窓辺に。
……先日と同じように、窓際の食事卓の椅子に、恐らく着替えとして護衛の上衣がかかっている。
「…………」
あれ、勝手に着たけど、怒られなかったなぁ、とルシアンは瞬きをひとつ。
数日前、夜中寒くて、ちょっと起きて、あそこにあったから拝借して。
生地はしっかりしているし、丈も長いし、ゆとりがあって保温性に優れていた。
「…………」
怒られなかったなぁ……。とくれば、それはもう許されたものとして再犯をするのがこの雇用主である。
何より、ガルドは外套にも入れてくれるし、多分気にしないはず。うん、と一人、頷く淡紫。
するり、ベッドを抜ける。ためらいもなくその黒いシャツを手に取り、頭から被る。――当然、暖かい。
袖が爪の先しか出ないのは、服の肩幅が広すぎるせいだ。まぁ、いいか。ちょっと借りるだけだもの。
容疑者に、罪の意識は見られない。
ベッドに戻り、うつ伏せになる。もう全然違う。まるで暖かい。
本を開けば、呼吸も落ちる。"砂原の星"は――、遠く、砂原地帯のある集落にたどり着いた著者が、この集落独自の文化やしきたり、古くから守られてきたものを、集落の人との係わりを経て少しずつその身に落としていく様を、理解と尊敬を以て記録されたものだった。
学術書のようであり、ただの旅の記録のようであり。これをどこぞに報告する気もなかったのだろう、ただ"残したい"という背中だけが見えた。
――朝の部屋に、ぱらり、頁をめくる音が静かに響く。
めくるたび、こくりと頷くように、銀の瞳が活字を追っていく。
これを読み終わったら、隣の護衛が起きるのを待って、朝食を食べて、散歩がてらギルドに本を返しに行こう。
なにか依頼を探してもいい。そのまま街を散策してもいい。
今日は何をして過ごそうかと、それを考えるだけで、ルシアンは楽しかった。
ガルドの寝息は深く、一定のリズムを保っている。
背を向けているその広い背中が、ゆっくりと上下しているのがわかる。
ぱらり、もうひとつ、ルシアンの手元で静かにページがめくられる。
うつ伏せた肩に、やわらかく朝の光が落ちている。
まだ完全には昇りきっていない陽の気配が、カーテンの隙間から部屋の中にそっと差し込んでいる。
この静かな時間の中、ふたりきりの部屋には、紙の音と寝息だけがある。
緩やかな時の中で、部屋は少しずつ、朝を迎えつつあった。
「……、……朝から本かよ……」
ぼつり、低く掠れた声がして、――顔を上げたルシアンは、隣のベッドに目をやった。
肩越し、わずかに振り返ったガルドが、差し込む朝陽に少々眩しそうにしている。
野営の時は眠りの浅い護衛も、街の宿に泊まる時は存外深く眠れるようで……ぐり、と目を擦るような仕草。
おはよう、とルシアンが声をかける前に、赤い瞳はもう一度こちらを見て、……二拍ほど間をあけて、ため息とともにまた目を閉じた。
二度寝とは珍しい、と思ったのもつかの間、目を閉じたまま上体を起こす。ゴキリ、と首を鳴らし、両足をベッドから下ろし、ややうなだれるような姿勢。
「おはよう、ガルド」
「……んん……」
首だけをそちらへ向けてルシアンが声をかければ、低く短い返事が返ってきた。
のろりと両目が開いて、ルシアンの手元の本を見やる。
――ついで、視線が合う。すぐ逸らされた。
「もう読み終わるじゃねぇか……」
「うん。あとで散歩がてら返しに行こう?」
「……ああ」
朝食にはまだ早い。部屋の空気もまだ冷たい。
本に視線を戻した雇用主、ベッドの中でうつぶせのままに、読書の続きである。
ガルドはしばらく無言で、その姿を眺めていた。肩まで毛布をかぶったまま、肘をついて頁をめくる仕草。
枕元の光に照らされる髪が、朝の淡光を含んでふわりと揺れる。窓際の椅子にかけておいた服は、やはりない。
(…………)
――置いといたら、着るのだろうかと。
ちょっと試してみたかっただけ、だったのだが、……ああも当然のように自分の衣服を拝借されて、もう何とも言えない。
着て構わないものと思われている。なんでこんな光景が"同室"に付随してくるのかと思ったがしかし、なるほど宿の部屋は"安全"で、恐らくそこに入れて構わないと思われた自分も"安全"で、その自分の衣服も"安全"なのだろう。
(……つって……俺の所有物に収まってんぞお前……)
そう思いながらも、それを口にするほど寝ぼけていない。
緩慢と立ち上がり、背筋を伸ばしてもう一度首を鳴らす。
「……っつ」
背中のあたりで骨が鈍く鳴り、ガルドが眉をひそめる。
野営よりははるかに寝心地のいい寝台でも、身体の大きさと相まって、朝はやはり固まっている。
ルシアンはその音に反応するでもなく、ただ静かに頁をめくり続けていた。毛布の中からは、時折、指先が紙の縁をすべる音だけが聞こえる。
しょうもない考えを頭の隅で振り払って、棚の上の水差しへ手を伸ばす。
水音がして、コップに注いだそれを一口。
「……今日、どうすんだ」
「ん?うん、ギルドに行って、…………」
――黙読。
……こりゃ、しばらく放っておくか、と、……ガルドはぐるりと肩を回し、ため息をついた。
――【雇用主の朝】




