【お出口はあちらです】
屋台で買った羊肉の煮込みと、焼き立てのパン。露店の軒先で目に入った冷えた葡萄を片手に、ガルドは宿へと戻っていた。
「おや、おかえり旦那。出てたのかい」
帳場の女将にそう顔を向けられ、手に持った荷物を軽く掲げる。本。簡単な食い物。少しの果物。小さく眉尻を下げる、女将。
「紅茶でも持ってってやろうかい」
「……ああ、頼む」
ひら、と手のひらでの合図が返るのを見て、ガルドも宿二階への階段に足をかけた。
部屋に帰れば、戻ってくる様が窓から見えていたのか、ルシアンが驚きもせずに顔を上げる。
「おかえり、ガルド」
「……ただいま」
ぼやくように返事をしつつ、後ろ手に扉を閉める。足はそのまま、ルシアンが腰かけている窓際のテーブルへ。
食事の入った紙袋を、無造作に置く。本と、葡萄も。
「わ、なんだい、――ふふ、ありがとう」
その手からどさどさと土産が落ち、ルシアンは小さく笑い声をあげた。
同じく正面に腰かける護衛に笑みを向け、昼食の包みを広げる。
「……女将が今紅茶持ってくるってよ」
「そうなのかい?嬉しいね」
楽しげな声。どこか、呼吸もしやすい。
パンを取り出しながらガルドが肩を緩めれば、向かいの男はすでに本を広げていた。
「"砂原の星"……滞在記録だね……辺境の集落は閉鎖的で文化が外に漏れないこともままある……」
「……暇潰すにゃあ、いいだろ」
「うん、ありがとう、ガルド」
声色は柔らかく、けれど紙面から上がってこない視線は、すでに文章を読み始めていた。ぺら、と頁をめくりながら、片手でパンを一口。
普段のルシアンであれば絶対にしないような、少しお行儀の悪い食べ方。
(……ははぁ、これは……)
――恐らく、よほど暇だったのだろう。椅子の背もたれに身体を預けながら、ガルドも昼食に口をつけた。
パンの香ばしい匂いと、煮込まれた羊肉の滋味深い香りが、室内に満ちていく。
その中で、ルシアンは読みながら、ゆったりとした動きで葡萄の実を一粒、指先に挟んだ。細い指が皮を軽く押し出し、果汁の弾ける音がかすかに響く。
控えめに扉を叩き、紅茶を持って入ってきた女将にすら、気づかない。だが……女将もカチ、と紅茶のカップを置き、小さく笑うだけ。
その様子に、ガルドも鼻を鳴らしたのみで、頷きを以てして礼とする。ぱたり、と部屋の扉が閉じた気配に、一度だけ顔を上げたルシアンが、テーブルに増えた紅茶に視線をやって「あっ」といった顔などをしてみせた。
「言ってよガルド……」
「気づかねぇもんだな」
は、と小さくガルドが笑い、そのまま黙々と羊肉を口に運ぶ。やわく煮込まれ、まだ温かく、ほろほろと崩れる肉。
紅茶とともに口にすれば、胃の腑がほっと落ち着いた。
わずかに開けた窓から入り込む昼の風が、ルシアンの髪をかすかに揺らす。
食器の音、窓の外、通りを行く人々の喧騒、時折、ぺらり、と柔らかく頁をめくる音が続いていた。
「……さすがに当たりか……」
ふとぼそりと呟いたガルドの声に、返事はない。雇用主は、もうまるで聞こえていない。けれどガルドの口角は、緩んでしまっていた。パンをもう一口。
さわり、緩い風を浴びながらそこにある魔術師の姿は、さながら本と静けさを好む猫のようだった。
だからこそ、こうして構われなくとも、居心地は悪くない。
――しばらくは、こんな昼でいい。
そう思える時間が、確かにそこにあった。
――コンコン。
食事も終え、午後の微睡みの中、またも部屋の扉がノックされる。
ルシアンが、読んでいた本を静かに伏せれば……扉の向こう、女将が呼ぶ声がする。
今度は、やや緊張気味だった。
「兄さん、またお客人だよ」
「ええ、今行きます」
わかりきっていたかのように、ルシアンが席を立つ。端然とした立ち姿は、何ひとつ揺らいでいない。
正面で腕を組んで座っていたガルドも、――ぎしと椅子を鳴らし、腰を上げた。
扉へと向かう淡紫の背に、歩を寄せる。肩越しに振り返った銀の瞳に、――来るの?と目で問われ、悪いか、と目で答える。
ルシアンの答えは、ただの笑みだった。
階段を下りて行った先、女将が手で示したのは、宿の応接室。
ガルドが扉を引けば、ルシアンがその横を通り、中へ。ガルドもそれに続いて室内へ入ると――、
――壮年で、身なりのいい男が、立ったまま深々と頭を垂れていた。
ガルドの眉が、ピクリと動く。
壮年のその男は、目の前の淡紫が"どこの誰"なのかを理解しており。
ルシアンもまた、彼が"どこの誰"なのかわかっているかのように、ごく柔和に微笑んだ。
けれど、その男の口から、何か言葉が紡がれることはない。
「……今日は、お客様の多い日ですね」
穏やかなまでに静かなルシアンの声が、応接室を渡る。
ひくり、と肩を揺らしたその男を前に、ルシアンはその場から一歩も動かない。
「――ッ先触れのないご無礼を、お許しください。このたびは、我が家の愚息どもが、重ねて非礼を。まこと……申し訳ございません。まずは父として、家長として、心よりお詫びを申し上げに参上いたしました」
――愚息、ということはこの男、子爵家当主であった。
それがこうして直接赴き、挨拶もそこそこに平伏している。
じわりとガルドの視線が、横合いのルシアンに落ちる。背筋の伸びた雇用主は、応接室のソファに足を向けるともせず、黙ってそれを聞いていた。
……が、しばしののちに、低く口を開く。
「それは……恐縮です。ですが、お気になさらずに。私の中では、もう"何もなかったこと"になっておりますので。――ただ、私の護衛である彼を傭兵に、というお申し出を丁重にお断りしただけです」
その言葉に、当主は緩く頭を上げかけたが、……眼差しは、ルシアンの靴先からあがってくることはない。その額には、まだ脂汗が滲んでいる。
「……ご寛恕、痛み入ります。不行き届きの数々、恥じ入るばかりにございます。当家から、以後いかなるご無礼もございませんよう――肝に銘じて参ります」
それは明確な、「もう関わりません」という宣言だった。
銀の瞳がその姿を優雅に受け流しながら、一言、静かに微笑む。
「本日こうしてお顔を拝見できただけで、十分です。……以後、どうぞお気遣いなく」
一歩、身体をずらし、……すらり、とルシアンの手のひらが、扉の方を指し示した。
――"終了"である。
当主はそれ以上言葉を重ねず、音もたてずに一礼をし、退出していった。
応接室の扉が静かに閉まり、再び部屋に静寂が戻る。
けれど、ガルドの腕はまだ組まれたまま、眉間にはうっすらと皺が残っていた。
「…………親はまともだったか」
「……ふふ」
低く呟いた声に、ルシアンがぽそりと笑みを返す。
その柔らかさが、どうしようもなく"終わったこと"を確定させていた。
護衛の視線は、扉の向こうではなくルシアンへと向いている。じわり、頭を抱えたい気分だ。
さきほどの一連のやりとり――当主が、名前すら出さない相手に"正しく屈した"。
子爵家の当主が、屈したのだ。
(――お前、ほんとに誰なんだ)
だが、それを口に出すことはしない。
笑顔ひとつで貴族を追い払おうが、たかが本一冊に嬉しそうな顔をしようが、目の前の彼が"ルシアン"であることに変わりはない。
「……お前、やっぱ、相当たち悪いわ」
ガルドの声に皮肉は混じっていたが、それ以上に滲んでいたのは感嘆と諦めの色だった。対するルシアンも、「ええ?」と肩をすくめただけで、悪びれる様子もない。その姿に、ガルドもわざとらしく頭を振る。
「……ついでにもうひとつ言っとくが、さっきの"護衛"っての、妙に誇らしげだったぞ」
そう言って、護衛はからかうように目を細めた。
きょとんと見上げてきたルシアンの返しは、まるで知らないふりをするような、やけに無垢な微笑み。
――面の皮まで優雅に出来てやがる。
ガルドはそう思いながら、部屋を出る魔術師の後を黙って追った。
静かに、けれど確実に、"まぁ、ついていくだけだ"という想いが、胸の内で形になっていくのを感じながら。
――その日の夜。
宿屋の食堂で夕食をとりながら、ふたりは女将の小言を聞いていた。
「まったくホント申し訳ないねぇ。こんな立て続けに来るなんて、無礼すぎやしないかと言ったんだが」
その目は、ルシアンとガルドを交互に見ていた。
ルシアンは微笑んでおり、ガルドは気にしてないといった顔。
しかし内心、その"立て続け"も仕方のないことだろうと、ガルドは思う。
次男が往来でやらかした。
"相手は誰だ"。……その調べがついたのかは定かでこそないが、察するに"まずい相手だ、謝らなければ"といったところか。
だがもう五日も街にいなくて謝れない。
やっと面会できると思った矢先、今度は長男がやらかした。
――そりゃあ、当主然としたあの男の慌てようも納得だ。
「いえ、次は取り次いでとお願いしたのは私ですから。女将さんにはご迷惑をおかけしました」
「そうかい?まぁ兄さんたちがそう言うならいいんだが……」
渋々、といった顔で、女将が頬に手をあてがう。こちらは、本当に心配してくれていたようだった。
そのまましばらくふたりの顔を見比べていた女将が、ふと、ふぅと小さくため息をつく。
「でもねぇ……正直言って、ちょっとだけスカッともしたんだ」
――小さくそう言って、頬を丸くして笑う顔は、内緒話のよう。
そばの卓の食器を重ねていく手つきは、すっかりと落ち着きを取り戻していた。
「子爵家のご当主が、うちにまで来てさ、ああやって頭下げて。……いや、恨みも何にもないがね?うちのお客さんに迷惑かけなさんなとは思っちまったよねぇ」
からからと、笑い声がふたりの間を転がる。
食器を両手に持ち、厨房へと引っ込んでいく女将は、それ以上何を言うでもない。何も聞かない。何も探らない。
旅人さんに、謝った人たちがいたようだね。――ただ、それだけの温度。
あたたかな料理の香りと、ほのかな静けさが残されるだけ。
……ルシアンは、目を伏せたまま、湯気の向こうで静かに微笑んでいた。
ガルドもまた、黙ってスプーンを手に取った。
――【お出口はあちらです】




