【噂は誰かの口元で】
しばし歩いて森を出ると、どうやら昼過ぎのようだった。この森に入ったのも、確か昼過ぎ。
「……時間、経っていないようだね。これも、あの場所の"軸"がずれていたからかな」
太陽の位置を見上げながら笑うルシアンに、ガルドも唸りながら頷く。
そこそこの時間を、あの森で過ごしたように感じていた。外に出る頃には、日が暮れているだろうと。
だが、――まぁ、あんな場所だ。こうあってもおかしくない。
「……腹減った。さっさと行くぞ」
「うん、そうだね」
互いに頷き合って、カドゥルへ向けた野道を歩く。街までは、一刻半ほどだった。
やがてふたりが街の北門をくぐる頃には、もう通りは夕陽と賑やかなざわめきに包まれていた。
腹も減ってはいたのだが、妙に身体が疲れていた。これもあの場所にいた影響か、と、街中での夕食を諦め宿へと戻る。
食事は宿の食堂で簡単に済ませて、今日は寝てしまおうか、などと話をしつつ宿の扉を開けば、帳簿をつけていた女将がルシアンらを見て、ぱっ、と表情を晴れさせた。
「ああ、おかえり兄さん方!心配したよ、街に来て早々、ちょいと長い依頼だったんだねぇ?」
……ルシアンとガルドが、目を見合わせる。せいぜい一日、出かけただけ、のつもりだった。
柔和な笑みが、女将に向けられる。
「ええ、黙って出てしまってすみません。私たちがお借りしていた部屋はまだ?」
「もちろんそのままさ!冒険者は依頼によっては留守にすることも多いからねぇ」
「……私たちは何日ほど、留守にしてしまいました?」
「ええ?五日くらいじゃないかねぇ……」
不思議がる女将を前に、ああ……と、ふたりは再び顔を見合わせた。――少し、可笑しくなる。
「お部屋ありがとうございます。留守の間の宿代は、明日でも?」
「ああ構やしないさ!ゆっくりおやすみ!」
快活な声を背に浴びながら、女将に見送られ、二階への階段を上る。
後ろから感じる赤い視線に振り返れば、何を言うでもなく見上げてくる、その眼差し。……肩越しに、また小さく笑みを交わした。
階段を上りきった先、廊下の空気は、いつもと変わらぬ温かさで迎えてくれた。扉の前で足を止め、ルシアンが鍵を差し込み、ひと回し。ゆっくりと扉を開く。
室内は、出て行ったときのまま。
整えられたベッド、棚の上の水差し、窓際のカーテン。――五日。
自分たちにとってはほんのわずかな時間だったはずが、現実では、それだけの"空白"が過ぎていた。
経過していた時間を思えば、次第に"身体も五日分眠っていないのでは"……という妙な気分になってくる。
もちろんそんなわけもないし、この部屋のどれも変わっていないはずなのに、どこか懐かしさすら覚える。錯覚だ。
旅装を解きながら、しばらく、互いに無言だった。
それは、あの"異なる理"の空間にいたことを、今ふたたび噛みしめるような時間。
「……宿代五日分、無駄になったな」
「ん、ふふっ」
ルシアンの笑い声を最後に、ふたりはそれぞれ、静かにベッドに横になる。食事は、もう明日でいい。打ち合わせるでもなく、互いにそう思って。
――束の間の夢のような出来事も、今はただ、深い眠りの中へと溶けていった。
人の口には、戸が立てられないもので。
カドゥル冒険者ギルドの掲示板前、もしくは併設の飲み場。
演習場、はてはカウンター内、職員たちの間でも――それは、じわじわと噂されていった。
ギルド職員らは言う。
「子爵家のバカ息子、無哭のガルドを手駒にしようとしたって」
「えっ、無哭、この街に来てたのか?」
「バッカでぇ、よりによって……ありゃ貴族の指名依頼でも断る男だぞ」
「まぁ、騒ぎになってねぇなら、魔術師さんがなんとかしたんだろうよ」
冒険者連中が言う。
「聞いた話だとさ、あの魔術師のこと"無紋"ってバカにしたらしいわよ」
「無哭がいただろうに、よくそんなこと言えるな……」
「貴族ってのは、頭がおかしいやつしかいないのかね」
そうして、誰かがはたと呟く。
「……"無紋"、か」
「素性も知れねぇあの魔術師に……ぴったりだな」
それは、本人たちの預かり知らぬところで、静かに、けれど確かに広がってしまっていた。
――誰が言い出したのかは、もはやわからない。
けれどその語感の妙と、街の空気に漂う緊張と静謐の余韻が、確かに"名"として形を与えていた。
「"無哭と、無紋"」
「片や悲鳴を上げさせることもなく、片や身元も出自も知れん男……」
「どっちも目立つのに、背景がまったくわからねぇってのがまた……」
「いや、だからこそ、妙に残るんだな……」
ギルドの若い書記官が、ついぽつりと口にした言葉を、
酒場の木製カウンター越しに、別の冒険者が拾い、
演習場の帰り道、剣を手入れしながら中堅組が噛みしめる。
無紋。
それが、彼らの背にいつか影を落とすのか。あるいは光になるのか。
噂を口にする誰一人として、今はまだ、わからなかった。
――【噂は誰かの口元で】




