【惑わしの森】
人が立ち寄らない"惑わしの森"の奥深く、ひとつの境界を越えた先。
森を統べる種族、エルフたちに囲まれて、ルシアンとガルドは背を寄せ合っていた。
鈴が鳴るような彼女たちの言葉は、ひっきりなしに森に響いている。
長い年月を生きる中で、こうしてきちんと自我を保ったままにこの森に訪れる客人は、稀だった。
『ほんとうにかわいい子ね。お外の世界はどう?』
『ついこの間、とても大きな争いがあったわね。あれは終わった?』
ころころと、涼やかな音が転がる。
ついこの間――とはいえ、彼女たちの時間から考えれば、それが昨日なのか、十年前なのか、百年前なのかも定かではない。
ルシアンがほんのわずかに首を傾げながらも、やんわりと背後のガルドを見上げる。
その眼差しを受け取ったガルドも、顔をしかめながら彼女らに向き直った。
「……知らん。三十年前の魔獣大戦のことか」
『うふふ、わからないわぁ』
ずり、とガルドの肩が、少し下がる。なんというか、……なんというか、すごく、ルシアンの奔放さと自由さを、何倍にも嵩増ししたような奴らだ。
「でしたら、今は争いもなく、平和に治世がなされていますよ」
『あらぁ、じゃあゆっくりしていけるわねぇ』
柔らかな声に紛れて、くん、と彼女らのうちの一人が、不意にルシアンの腕を引いた。
あまりに自然に"連れて行かれそう"なその背を、反射的にガルドが掴む。これにはルシアンも少々驚いた風で、はく、と開いた口からは、咄嗟の声も出なかった。
「――っおい、」
『あらあら、だめよ、驚かせては』
思わずガルドが声を荒げかけたところで、ひときわ甘美な声が、上から降ってくる。
ふたりそろって見上げれば、大樹の枝先にひとり、エルフが座っている。他の"彼女たち"のように戯れてくるでもなく、穏やかに、まるで春風のような微笑を湛えていた。
そしてその声に、ふたりの周りにいたエルフたちが、名残惜しそうにしながらも、一人、また一人と樹上の枝葉へ戻っていった。
その彼女の豊かな金の髪が、月の光を編んだように揺れて――きらきらと宝石のような瞳が、ルシアンを見つめている。
『……、かわいい子、あなた、こんなところまで来るなんて、迷わないのね』
「……ええ、彼が導いてくれますから」
――すぅ、と、森から音が消えたのは、彼女たちが囁きをやめたからだった。
月の髪を湛えたエルフが、面白そうにガルドを見やる。その腕はまだ、がっちりとルシアンを掴んでいた。
『そうね、つよそうな子ね。きっと、折れることもないのね』
……まるで、優しく子どもをからかうような声音。けれどその音色の裏には、静かな"選別"のような気配がある。
空からは、『かわいい子たち』、『ずっといればいいのに』と……優しげな音が、絶え間なく降り注ぐ。
ほんの数ミリ、ルシアンが肩を引いたが――、銀糸の外套を揺らして、一歩だけ、踏み出す。
「美しいものをたくさん見て回りたく、旅をしております」
『まあ……あたしたちのことかしらぁ?』
「ええ、まさに」
『まあ。まあ。聞いた?』
月の髪の彼女の笑みに、周囲から一斉に鈴の音が鳴った。それはまるで華やかな笑い声で、――たとえば"祝福"と呼ぶには、あまりに浮世離れしたその声たちは、心地よさを超えて、どこか意識の輪郭を曖昧にしてくる。
『聞いたわ』
『あたしたちが美しいのですって』
『やだぁ、うふふ。愛らしい子ね』
「……、一応……これでも大人なんですがね」
困ったように笑うルシアンに、またも涼やかなくすぐり声が降り注いでいた、が。
そのやりとりに、唯一ガルドの眉間の皺だけが、深まる。もう、耳元に触れるのが、風か、音か、声かも判断が難しい。
思考が緩く包み込みこまれていく感覚。――なるほど、森を出た旅人が"何も覚えていない"というのは、恐らくこの……いや、ダメだ、まとまらない。
確かなのは――これが、ただ美しいだけの空間ではないということ。
(……試、されてる、のか……?)
外の人間が、この森に存在するのに、ふさわしいのか。
(……認め、られたら、どうなる……)
少なくとも、もはや執念だけで立っているような自分よりも、隣でにこやかに言葉を交わす男のほうが、よっぽどこの森に"ふさわしく"見える。
それでも、ガルドは掴んだ手を離しはしなかったし、ルシアンももう足を踏み出したりもしなかった。
笑みを浮かべたまま、過剰な敬いも、媚びもない。ただただ、彼自身の信念と敬意だけをもって、この場所に向き合っている。
ガルドの耳に、心地いい鈴の音が鳴り響く。甘いのか清いのかもわからない香り。
大樹の枝葉は空から地面に向かって伸びており、星空に見えるあれは水面のようにたゆたっている。
だが今は、手のひらに掴まえた、隣の男のぬくもりだけが、ガルドの現実だ。
やがて鈴のような笑い声が収まり、月の髪の彼女がひとつ、悩ましげに息をついた。その身にまとう衣ごと、すっと枝から舞い降りる。
『うふふ……気に入ったわぁ』
撫でつけるような声で、彼女は光のようにふたりの前に立ち、髪がゆったりと地面に落ちた。
『この森に踏み入り、わたしたちに触れ、なお――心を失わなかった子たち』
りん、と響く音とともに……細く柔らかい、その手が伸びる。
『あなたたちを歓迎しましょう』
そうして指先が、ルシアンの頬に触れんとしたその瞬間――、
――ガルドが一歩、前に出た。
それは、剣を抜くでもなく、声を荒げるでもなく……ただ、無言の"拒絶"として。
月の髪の彼女が、目を見開く。その戦士から視線を滑らせるように隣を見れば、ルシアンはただ穏やかに、微笑んでいる。
呆気に取られていた美しい顔が、けれどすぐに、口元から花開いたように綻んだ。
『そう……あなたの、たいせつなものなのね?』
――それは、どちらに言ったのか。
定かでこそなかったが、その言葉にルシアンは肩をすくめるように笑い、ガルドはただ黙って彼女を見据えていた。
静寂が、また一度、森を包む。
いつの頃からか鈴の音は鳴りやみ、樹上の彼女たちは姿を消していた。
月の髪のエルフがひとつ、くすりと笑い……あらためてふたりに手を伸ばす。
その指先が、空をなぞるだけで、周囲に光の輪が広がっていく。
『あなたの旅の、景色をいつか、聞かせてね』
「……ええ、喜んで」
『いとしい子たち、いつでも来るといいわ』
ひときわ響いた声とともに、大樹から、淡く光る花びらが舞い落ちてきた。
その一枚が、ルシアンの髪にふわりと触れた、次の瞬間――、……幻想のようなその空間は、色彩ごときらきらとほどけていった。
まるで、夢が終わるように。
現実の地面が、そっと足元に戻ってくるように。
気づけばふたりは、森の静寂の中に、確かに立っていた。
――地図が狂い、声が消え、方角が失われる、不思議な森の只中に。
けれどもう、そこに迷いはなかった。
見たのだ。"美しいもの"を。
そして、その"選別"に、ふたりは確かに――受け入れられていた。
「……どうやら君に、私の"余計なもの"を、見せずに済んだ」
「…………」
静かにそう言うルシアンは、――どこか、静謐だった。
夢のように消えていった彼女たちの姿を、その鈴のような笑い声を、忘れぬように、ひそやかに、言葉を紡ぐ。
「歓迎されてよかった」
ガルドが、隣を見下ろす。
……それは、そうではない未来もあり得たという、言葉。
ただでさえ、"歓迎"されていた。連れて行かれるかと思った。それなのに、――その寵愛を得られなければ、一体どうなっていたというのか。
――不思議だの、魔力だのがわからないガルドでさえ、わかる。
あれは、自分たちとは理の違う世界だった。この力で、剣で、どうにかなるものではない。
苦しまず、悲しまず、揺蕩うように消えて終わり。――という、想像をしてしまって、……ガルドは、何も言えない。
(……お前は、"余計なもの"で、俺のとこに戻ってくるつもりだったのか)
……それすら、聞けない。
「あっ……旅人さんたちを惑わさないでって、言い忘れたね」
「…………」
ガルドの、眉の片方が、くい、と吊り上がる。ぴちち、と頭上を小鳥が渡る声がして、ざあ、と森の枝葉が風に擦れる音がした。
いつまでも掴んでいた腕を、……やっと、離しながら。
「ああ、……だな」
ぶっきらぼうに答えるガルドに、ルシアンはいつものように笑った。
慣れた風が吹く。湿気を含み、草木の香りを乗せ、耳を撫でて過ぎていく。
――もう、"あちら側"の風ではない。
「……帰るか」
「うん、お腹空いたね」
呟くようにガルドが森の奥に背を向ければ、その大きな背中に、ルシアンが一歩ついてきた。
道は、もう地図の通りには存在しない。
木から垂れる蔦も、下草に紛れて綻ぶ花も、草むらに消えたウサギですら、彼女たちの"いつかの記憶"で、現実ではないのかもしれない。
けれど不思議と、どの方向へ進めばいいのか、分かるような気がした。
――そうして、もしかして、と。
(……俺が、あそこで前に出たから)
ガルドの拳が、無意識にわずかに握られる。
(こいつは、……"余計なこと"にならずに済んだのか)
背後を追従する軽やかな足音に、意識が行くが、視線が向くには至らない。
そうならばそれでよかったし、そうでなくとも、今はもう終わったことだ。
今、同じ時間の上に、立っているのならば、もう……終わったことだ。
……森は、静かにある。
けれどその静けさは、もうふたりを閉じ込めるものではない。
ただの"深い森"の空気をまといながら、ふたりは帰路を進んでいった。
――【惑わしの森】
《旅の記録》
・場所名(通称):とある森(惑わしの森)
・最寄り街:カドゥル
・景観種別:美/儚/静
・特徴メモ: カドゥル近郊のとある森。エルフ族の集落へと繋がっており、訪問が叶った。現実にあるのにどこか現実ではなく、数多の時間が重なって存在しているような景色だった。
・時期・時間帯:秋
・再訪:条件付きで可
・個人的メモ:
「あの手がなければ、私はいつまであの森にいたのだろうか。森は何にも侵されず、ただすべてを抱くようにあそこにあった。」
――ルシアンの手帳より




