【すずのおと】
木漏れ日が差し込み、小鳥の鳴き声が枝葉の間を渡っていく。
ウサギやリスのような小動物は、時折草むらに隠れては、何かを知りたがるように鼻先を空へ向けている。
カドゥル北東にある、旅人が消える"惑わしの森"。――けれどこの森は、平和そのものだった。
苔に覆われた木も、そうでない木もある。
視界の端にツタが張っているかと思ったが、目を向ければそんなものはなかった。
「……待て」
ルシアンが数歩進むたびに、ガルドが引き留める。
その手には、街で買った森の地図が広げられている。
どうやら進むたびに森の風景が変わっているようで、地図が当てにならない。これには、やっぱりか、とガルドも顎を押さえていた。
となれば、当てになるのは結局、現地の景色しかないか。腰から解体用の短剣を引き抜き、道しるべとして木に切り傷を付けようとする。
――が、その手すら、ルシアンが柔らかく止めた。
「やめたほうがいいかも」
「…………」
ぐ、と眉間をしかめて、……ガルドは手を引っ込める。
ルシアンが、この森に敬意を払うような笑みをしていたからだ。
短剣を、ゆっくりと腰に戻し……代わりに、近くの草の束に、ひとつ結び目を作った。
風に揺れるそれを眺めながら、ルシアンが小さく頷く。
ざわり、空気が変わる。
木々の太さ、繁茂する苔、たった今結んだ草。目に映る景色は同じなのに、確かにどこかが違って見えた。
ウサギはどこへ行ったのだろうか。枝葉の間を渡っていくのは、今は小鳥ではなく木漏れ日だった。
一歩、また一歩。
まるで森が、ふたりを奥へ誘っているようだった。
一歩、また一歩。
どこからか小動物が現れて、枝の上を走って森の奥へ消えていった。
進む、笑顔のままのルシアンは、まだどこか、少し迷いを帯びていた。
――引き返そうか。
そう思うが、この先に待つ"美しいもの"を、この目で見られないのはひどく心残りだ。
――立ち止まる。
すう、と深く息を吸って、ルシアンがガルドに向き直った。
「地図が――狂うのも」
「……ん」
「声が、聞こえないのも。……方角が狂うのも、もし幻覚が見えても、目の前で急に人が消えても――この森ではね、何にも不思議じゃないんだよ、ガルド」
そう言うとルシアンは、静かな動きで、ガルドが持つこの森の地図を折りたたんだ。
伏せられたまつ毛に木漏れ日が当たり、きらきらと輝いて見える。
「――君が生まれる前のこの森の景色と、今の森の景色は、同じかい?」
「……ああ?」
ガルドが、ぴくりと視線を上げる。
そうしてその言葉を咀嚼するよりも前に、……足元に咲く花に、目が落ちた。
「……その花も、本当に今、ここに咲いているのだろうか。もしかしたら――この森を愛する誰かが、何十年も前に見た、花の記憶かもしれない」
ルシアンはよく、ガルドに伝わりやすいように、噛み砕いて物事を説明をする癖があった。
だが今はガルドは、あまり理解したくないことを、聞いている気がしていた。
「今もこうして隣にいると思い込んでいるけど、もしかしたら私たちはもう、別々の時代に立っていて……今、君の目の前にいる私は、森の記憶かもしれない。――そうして、旅人は消えるんだ」
「――っ」
ガルドは、咄嗟に、その肩を掴んでいた。急に、目の前の笑みが、輪郭が消えてしまいそうな気がして。
けれど掴んだ肩は確かにそこにあって、温もりも、重さも感じられる。それなのに、目の前の魔術師はまるで、少し遠くへ行ってしまったような顔をしていた。
銀の瞳が、森の奥へ流れる。存在ごと、森に吸い込まれていきそうな笑み。
掴んでいるのに、引き寄せているのに、確かなものが得られた気がしない。――ガルドの眉が寄る。
「……なぁ、」
「……大丈夫。私は干渉されない。その事象を理解しているから。そして、君ももう干渉されない。この事象を、理解しただろう?」
だから安心して、と見上げれば、赤い瞳はまだ疑惑とともにあった。まぁ、仕方ないよね、という顔で、ルシアンは困ったように目を伏せ、――やがて笑った。
「さて、この森の"美しさ"を、見てもいいかい?」
――瞬間、空気が変わった。
風が一切、動かなくなった。
音が、すべて静止した。
薄暗かった森の色彩が、まるで一滴のインクを垂らしたように滲み、揺らぎ始める。
緑はより深く、空気は透明を通り越して、どこか"澄みすぎた何か"に変わっていく。
ふたりの足元に、いつの間にか小さな光の粒が湧いていた。
それは花の粒のようでもあり、星の残滓のようでもあり――いつの間にかそこに存在していた、うねるように巨大な木に吸われるように流れていた。
その大樹へ、ルシアンが一歩、踏み出す。
柔らかな一歩に応じるよう、森の世界が音もなく開く。
そこに広がっていたのは、森の中に"重ねられた別の森"、別の空。
鳥の鳴き声は反響し、木々の枝は空から逆さまに伸び、空には見えないはずの星々が瞬いていた。
あまりに非現実的で、あまりに静謐で――あまりに、美しい。
ガルドも一歩だけ、ルシアンの横に踏み出す。
まるで夢の中に立っているかのような光景。けれど、夢にはないはずの気配や匂い、温度までもが、ここには確かにある。
逆さに伸びる枝々が無風に揺れ、星の瞬きが水面のように揺蕩う。
空も、地も、すべてが二つに重なり、なにひとつ接点がない。
――これはこの世のものか。
そう思ったが、ガルドはそれを口にはしなかった。ルシアンが、ただ静かにそこにいたからだ。
微笑みとともに、目を伏せるその仕草さえも、どこか"邪魔をしてはいけない"と思わせる。
自分の一言が、一歩が、何かを……たとえばこの空間の均衡を壊してしまいそうで――、目を逸らさないようにするのが、今の自分の精いっぱいで。
そのひと時が、数秒か、数分だったかわからないかったが、つと、ガルドの腕にルシアンの手のひらが触れた。
びくり、護衛の身体が揺れる。"ここにいる"と、その存在を確かめさせるかのような仕草。
「…………」
「ふふ、綺麗でしょう?でもこの森の本当の姿はね――」
『あらぁ?お客さまねぇ?』
――それは、澄んだ鈴の音色のように聞こえた。
ガルドは一瞬理解が追い付かず、弾かれるようにルシアンの腕を掴む。
今のは、りんとした音だった。けれど確かに"言葉"だと理解できた。
じわり、見上げれば、その偉大な大樹の上。
――髪に、服に、表情に、その存在全てに"美しさ"を湛えた存在が、にこやかにルシアンたちを見下ろしていた。
その気配に敵意はなく、かわいい子ね、お外からの子ね、とあちらこちらから声が、――まるで祝福のように降ってくる。
「ええ、不躾にお邪魔してしまい、申し訳ございません」
ルシアンが、ガルドに腕を掴まれたまま、深々と一礼をした。
その"美しいもの"――エルフが、くすくすと笑うたび、森に鈴の音のようなささやかな笑い声が鳴り響く。
護衛は、ルシアンをかばうように一歩前へ出かけ――しかし、踏みとどまった。
肌を撫でる風すら香り立つような、穏やかで柔らかな"気配"。……忘れていた呼吸を、思い出す。
敵意は、……ない。だが、それ以前に――これは"異なる理"の空間だ。
剣も怒声も、無粋にしかならない。
そう判断した彼は、――静かに、ルシアンの横に立つことを選んだ。
枝の上、星のように散らばる気配のひとつが、くるりと宙を舞いながら降りてくる。
人のような、けれど人ではない。
その姿には、明らかに"精霊の血"を感じさせる気高さと、儚さがある。
どこか幻想のようなその存在が、ルシアンの前に足を下ろせば……ふわり、と風が舞った。
花弁や葉も編みこまれた、光そのもののような衣をまとっていた。
『まあ見て、この子……ずいぶん優しい匂いがするわ』
音とも声ともつかぬ響きが、淡紫の前で弾ける。気高く、どこか艶めいてさえいるその声に、ルシアンはほんのわずかに瞬きをして――笑った。
『そっちの子は、魔力がないわね』
一人、また一人と、樹上から軽やかに彼女らが舞い降りてくる。
『ほんとねぇ。混じってるのかしら』
『でも遠いわねぇ』
――きゅ、とガルドの眉が片方吊り上がって、身体がわずかに引いた。警戒、というよりは、単純に距離の近さに顎を引いたような形。
ルシアンも、頬や髪に伸ばされる細い手に、やや下がり眉で笑んでいる。
森の奥。重ねられた"もうひとつの現実"。
その只中に息づく存在たち――森を統べる、優美なる種族。
長い耳、透き通るような肌。
衣は花や草木で織られたかのように繊細で、歩むたびに衣擦れすら音を立てない。
それぞれに色をまとい、香りをまとい、光や空気ですら味方につけて。
「……、おい……」
まったく対処法がわからず渋面をする護衛に、ルシアンとエルフたちが、おかしそうに笑みを浮かべた。
――【すずのおと】




