【木の実と軽口】
そのまま街の散策をし、夕食は宿の食堂で済ませ、――その、夜。
ガルドが入浴を終えて部屋へ戻ると、先に寝る支度をしていたルシアンが、ベッドに腰かけて手帳を広げていた。
秋の気配で夜はもう肌寒く、寝間着の上に薄手のストールを羽織っている。
その妙に整った男が、戻ってきたガルドをちらりと見て、微笑む。
「宿のお風呂、熱かったね。のぼせてしまうかと思ったよ」
「……ああ。湯冷めすんなよ……」
ぶっきらぼうに言い、護衛はそれとなく目を逸らした。
――今日は、"別室"という逃げ場がない。……それを選んだのは間違いなく自分なのだがしかし、……別室であれば、「じゃあな」と部屋を出て、それで"護衛"が終了だ。だからこそ、わからない。
(……なんの顔して……いりゃいいんだ……?)
もうひとつのベッドに腰かけるのも変な気がして、……テーブルの脇にある椅子に身を落ち着ける。
ベッド。ルシアン。窓。カンテラ。どうにも視線が定まらない。
旅装の荷物。たたまれた腰装備。――には、さすがにもう、少ししか動揺しない。
壁際の棚の上、露店で買った、薄緑の小粒の果物。
「……それ、痛むの早ぇぞ」
ぼそり、自然と口に出ていた。目線だけで、その果実を見ている。
手帳に視線を落としていたルシアンも顔を上げて、同じく棚上のそれを見とめ、にわかに目を丸めた。
「おや、そうなのかい?じゃあ食べてしまわないとね」
立ち上がる仕草に、きし、とベッドが鳴る。
静かな足音が部屋の中を渡り、果物を手に取り、ガルドの座るテーブルへ。小さく椅子を引き、正面に腰かける。
「クラヤの実だっけ。君、食べたことあるのかい?」
「ん、……ああ、……熟すと酸っぺぇ」
「ふふ、露店の店主さんもそう言ってたよ」
ころりと、ガルドの前にもその実が置かれる。一粒手に取り、鼻先に持っていく。背の高い木に生る木の実で、やや硬めの殻に覆われていて香りはない。
けれど、指先に力をこめればピシ、とひびが入り、間から覗いた果肉は白く艶やかだ。
「……店主さん、硬いからナイフで切れって言っていたよ……?」
「…………」
呟いたルシアンに、ふん、と小さくガルドが鼻を鳴らす。そう言われても、割れてしまうのだから仕方ない。
殻を割った実をルシアンに渡せば、じゃあこっちもというように、おかわりの実が手渡される。
ぱきり、ぴしり、指先でいくつか割っていくその正面で、果肉を一口含んで、なるほど、というように頷く淡紫。
「うん……かなり酸味が強いけど、美味しいね」
「……っとになんでも食うなおめぇは」
ぼやきながら、ガルドもそれを一口。
西にある大陸のほうに原生する、このクラヤの実。久々に食べたそれは、……やはり酸っぱい。ガルドには、一粒で充分だった。
最後の実を割って、目の前の男に渡す。
「……木の根は、薬に使われるらしい」
「へぇ……」
部屋を、空気がゆっくりと流れていく。風呂の熱も徐々に冷め、外の通りを歩く酔いどれの、機嫌のよさそうな鼻歌が聞こえた。
……てめぇから……逃げて、ここに座ったんだが、と……ガルドが正面の男の、手元を見つめる。
大して力のなさそうな指先で、クラヤの実のひびを、く、と開くような動き。……割り方が甘かったのか、まだ硬そうだ。
「…………」
――ガルドが手を差し出せば、黙って渡される木の実。
手を引っ込めることもなく、そのまま指先に力を入れれば、ぱきり、と軽やかに割れる音。
……当然のように、引き取られていく、実。
(……餌付け……)
思わず浮かんだ構図に眉根が寄ったのは、緩みそうな頬を堪えるためだった。
ありがとうだとか、すまないねだとか、そういった断りがあるわけでもない。求めてもいない。
けれど向けられる笑顔が、それらすべてを内包している気がして、もう負けだ。負け。
「うん、気に入った。また食べたいね」
「……そっかよ」
ぎい、と背もたれに身体を預けて、ガルドは何とかそれだけを返す。
腕を組むことはしない。変に視線を逸らすでもない。だって、こいつがこちらの間合いと視界に入ってきたのだ。だからといって、何をするでもないが。
「……んなら、坊ちゃんには殻割ってやんねぇとな」
「あ、ふふ、非力だってバカにしてるでしょう」
「んなこたねぇ」
柔らかな笑い声に、ガルドがやれやれと言った具合に肩をすくめた。秋の夜気と混ざり、じわじわと実感が染みてくるような感覚。護衛でもないが、「じゃあな」もない、そんな感覚。
心をかき乱される気がするのに、どこよりも胸中が凪ぐ気もする。
逃げ場のない同室の夜――だったはずが、それは意外なほどに、自然とこの身に馴染んでいった。
「そうだ、例の森、明日行ってみないかい」
――は?と、ガルドの赤い瞳が、はっきりとルシアンに向いた。霧散した微睡み。……本気か、という確認と、本気だろうな、という諦観の色が、同時に浮かぶ。
そんな護衛を見て、ルシアンの口元に、また笑みが灯った。
「大丈夫。地図が狂う、声が消える、方角も狂う、そして旅人が消える。それが本当なら心当たりがあるよ。そして、恐らく君の剣は必要ない」
「……、……危険はねぇってか」
「恐らく、ね」
頷きながらふわりと綻んだ笑みは、夜の空気に溶けるようだった。
木の椅子から腰を上げ、肩にかけていたストールを軽くたたみ、椅子の背にかける。穏やかな足音がベッドへと向かい、掛け布団をめくり、そこへ身体を滑らせながら。
「……行けば、"美しいもの"が、見られるかもね」
……最後に、おやすみ、と小さく笑ったルシアンは、そのままベッドに横になった。
しばし――ガルドはそのまま、その掛け布団のふくらみを眺めていた。
剣が必要ない、と、いえど――迷ったらどうする。森が狂ったら。声が聞こえなくなったら。
(……心当たり……)
それがあるというのならば、本当なのだろう。現に、守護獣やら、朝を讃える神殿やら、あいつの見る世界は本当に広い。ガルドが、細く息を吐く。
部屋には、仄かなカンテラの明かりだけが残る。
ルシアンの寝息は浅く、静かで、呼吸のたびに上掛けの布がわずかに上下していた。
――ぎしり、椅子を鳴らして腰を上げる。眠る淡紫の、隣のベッドへ。
同室の起因となった"広いベッド"は、……まぁ、確かに、足を十分に伸ばせるサイズではあるが。
(……明日、森)
ばさりと上掛けをかけ、壁のほうを向く。脳内で呟いた言葉は、呪文だ。
(……寝る。寝ろ。俺……)
なぜなら正体の見通せない森から、この雇用主を無事に連れて帰らなければならない。
――のに、処理しなければいけない現実が、多すぎて。かすかに咳ばらいをひとつ。ぐ、と目を閉じれば。
(…………寝息が聞こえる……)
――同室は、やはり早まったのかもしれなかった……。
――【木の実と軽口】




