【微笑みの壁】
カドゥルは、緩やかな扇状に広がった街が、山の裾野に寄り添うようにあった。
大通りは、ベルミード方面の南門から次の街へ向かう西門にかけて、ゆるりと上弦の弧を描くように通っており、街の城壁外、北側と東側は切り立った山岳。北東に、山間や原野へ抜けていくもうひとつの小さな街門がある。
街外の南西は広い森におおわれていたがしかし、薬草が豊富に採取できる森として親しまれ、カドゥルの資源のひとつとなっていた。
ルシアンとガルドが宿泊することになった宿は街の西区に位置しており、商店街を通って南区の冒険者ギルドへと行ける立地。
その商店街を歩きながら、ルシアンが隣の大男を、見上げる。
「――そうだ、アドリ……、ガルド。明日でもいいんだけれど、ギルドの書庫にも行きたいな。この街の蔵書を見てみたい」
……は……と、停止する、護衛。
――少々お待ちください、の、のちに――。
「……おう……書庫、な」
と……ガルドがいつもの声音でそう返せたのは、もはや奇跡だった。
なん……待っ、"アドリ"……?誰だ……?とガルドの視線が道の先へ向く。もちろんその先に、その人物はいない。はず。
むつむつと歩を進めながらガルドは、――アドリ…………と記憶を探る。
数日前に立ち寄った山間の集落に、そんな名前の奴でもいたか。集落のガキどもに字を教えたりしてはいたが……さすがに巨躯の護衛を呼ぼうとして、うっかり幼い子どもらの名前を呼ぶとは考えにくい。ガルドがかすかに顎を引く。
……アドリ……。やはり記憶を探っても、誰もヒットしない。……ともすれば、自分の知らない、けれど下手したら親しく呼びかけるような……。
(……男の名前っぽいんだよな)
……しかも、恐らく愛称か。
(たとえば…………背格好が、……俺と似てるとか……)
…………。
(…………)
……え、わりぃ、もう、誰……?とガルドが振り返れば、爆弾を放り投げた張本人は、遠くのほうで交易品の露天を物珍しそうに見ていた。
刺繍がされた華やかな何かのカバーを手に、柔和な笑みで以て、店主と何やら話に花を咲かせている。
「あ、んにゃろ……」
ついぼやきが口をついて出たが、一人で物思いにふけって歩を進めたのは自分だ。緩く肩を落とすほかない。
まぁ何より、見通しのいい商店の立ち並ぶ通り。ああして距離があれど、ある程度視界に入っていてくれればそれでもいい。
じわりと湧き出る余裕はきっと、頭のどこかで"帰れば同じ部屋"という事実が効いていたからで……けれども、いや、解決してねぇなアドリ……というしこりも、まだ同じ棚にある。
「おい、そこの大男、名は」
「……あ?」
ふいに背後からそう声をかけられ、ガルドが肩越しに振り返った。
見れば、若く身なりのいい男が護衛の兵を数人引き連れ、不遜な顔で腕を組んで立っている。
道行く商人や住民など、周囲の人々が一瞬だけ視線を寄せ、一瞬で逸らしていった。
ガルドも片眉を引き上げてそれを見下ろしていると、若者はまるで自分が上だとでも言わんばかりに、ぐっと顎をしゃくる。
「俺はこの街を治める子爵家の者だ。腕利きの傭兵を探していてな。貴様を雇ってやる」
――何を言ってんだこの男は、と、ガルドの目線が語った。
近くを通りかかっただけであろう冒険者も、思わずぎょっとしてその様を見ている。その眼差しには、そいつは"無哭"だぞ、わからんのか――といった焦燥が見える。
武器を携えていなくとも、重たい外套に身を包んでいなくとも、それがわかるほどに溢れる、"無哭の威圧"。
「エ、エモン様……!」
往来での突然の勧誘に、護衛兵の一人が何か耳打ちしようと一歩前に出かけたが――エモンと呼ばれた男はそれを手で制した。
まるで、"俺の判断に口を出すな"とでも言うように。
……上がそんなだと下は大変だな、と……ガルドは肩を落とし、深くため息をついた。
肩越しにわずかに振り返れば、ルシアンは騒ぎに気付くことなく、露店の散策を楽しんでいる。遠くの店先で、小さな瓶を手に取りながら、なにやら興味深げにそれを見ている、といったところ。
ガルドの赤い眼差しが、緩く下に落ちた。
「……"雇ってやる"、か」
子爵家の男が、ふん、と鼻を鳴らして一方の肩だけを上げる。……だが、その直後。
「無理な話だな。もう護衛の仕事は入ってる」
視線よりも低く落とされたその音は、温度のない声だった。
そして、赤い瞳がようやく正面の男に戻る。
「雇う側の目ぇ、節穴だと仕事にならねぇ」
その言葉に、護衛兵たちの空気が一瞬で張り詰めた。中には手を剣の柄にかける者もいた。
だが、ガルドは一歩も動かない。
その立ち姿、力の抜き方、眼光、頭の傾きまで、全てが場数の違いを物語る。
「……なっ!貴様!」
「丸腰だぞ、俺」
「だからなんだ!驕ったか!」
「後ろの奴ら、獲物抜いたら、悪ぃのはどっちだ。俺か。お前か」
びくり、と背を震わせたのは、……エモンではなく、後ろの護衛兵たちだった。
常日頃から、目の前の主には、『従わない奴はわからせなければならない』と言われている。
現に従わない者など、これまでいなかった。――から、考えたこともない。抵抗の気配もない、丸腰の相手。分の悪さが、こちらへ向く可能性を。
ガルドはそれきり――睨みつけるでもなく、静かにその男を見ていた。遠巻きに見ていた冒険者が、思わず口元を押さえる。瞬きひとつすら、永遠に感じる息の詰まり。
ひやりとした空気が、商店の通りに流れた。
「どうかしたのかい?」
不意に――、巨躯の後ろからひょっこりと現れたその優雅な佇まいに、エモンがわずかに面食らった。
訝しげなその視線を受けたルシアンが、おや、と疑問符を浮かべたような表情で、ガルドと男を交互に見る。――一体何事か、という顔をしていたが、柔和な笑みも浮かべていた。
「な……なんだ貴様は。この男の仲間か!」
男が思わず、声を尖らせた。
ぱちり、とひとつ瞬きをして、ルシアンが首を傾げる。
「……はい、彼は私の護衛をしてくれています。彼が何か?」
「貴様には関係あるまい、どこぞの貴族風情が!」
……いつの間にか、周囲の人波は遠ざかり、商店の通りには緊張が張りつめていた。ガルドが半身でルシアンの横に並び、けれども黙したままに、まだ男を見ている。
万が一対峙する事態になったとき、この若者の後ろに控える護衛兵たちから、守るには。
通りの構造物、置かれた木箱や荷車の位置、路地へ入る小路。
屋台の天幕、淡紫の男の呼吸、貴族の男の視線。ああ、どうにでもできるな、と、頭は冷静だったが――。
「ふん!見たところ家紋もないようだな!無紋で名も名乗れぬ雑魚が、俺に物申すな!」
――ぴくり、とガルドのこめかみに血管が浮く。すっと血液の温度が下がった感覚があった。
その空気の変化は、周囲の冒険者たちに、ぞく、と急な寒気を感じさせるほどだったが……。
「おや……、私が名乗れば、あなたが私と話すことは許されなくなってしまいますが……それではお互いつまらないでしょう?」
変わらず穏やかなその声に、事態は静かに収束することとなる。
エモンの背後で、護衛兵たちが一斉に息をのんだ。
小難しい話など分からなくとも……彼らはその一言が意味するところを、肌と、銀の眼差しで理解していた。
「――っなにを、わけのわからぬことを……、……っ……ッ!」
護衛兵が声をかけるより先に、男はルシアンの笑みから目を逸らし、弾けるように鋭く踵を返す。
違う、あれは、"自分たち"の言い回しだ。我々特有の、明言をしない、薄膜に包んだ言い回し。
あの銀目の奥は、笑っていたか?間違いなく、逃げ道を与えられた。……呼吸が荒い。深く息が吸えない。
足音も荒く去っていく子爵家の男を、護衛兵たちがカシャカシャと鎧を鳴らしながら追う。ルシアンは、その背中を首を傾げながら見ていた。
――お話は?とでも言いだしそうな、きょとんとした顔。
それがやがてガルドを見上げて、にこり、といつもの笑みを浮かべる。
「行ってしまったね」
「…………」
渋面のガルドはその顔を見るなり、静かに視線を逸らした。……こめかみの血管が戻る感覚が、やけに鮮明だった。
「……入ってくることなかったんじゃねぇか」
「ふふ、君を取られちゃうかと思って」
「…………バカか」
ぼそりと漏れたその声は、自嘲めいていた。
遠ざかる馬鹿な若者の背中。時折振り返る、護衛兵たちの険しい視線。
――けれど、結局すべてを平然と収めてしまったのは、この魔術師だ。
すれ違う商人たちが、ちらちらとこちらを見る。冒険者たちは、一人、また一人とその場を去る。
先ほどまでの緊張を引きずっている者もいたが、それは緩やかに薄れていった。
ルシアンが、何事もなかったように足を進めたからだ。
「向こうの露店にね、見たことのない果物があったよ。買っていって、宿に帰ったら食べてみないかい?」
「……、またおかしなもんを……」
その背中を追うガルドは、小さく目を細めた。秋の陽光が、通りの賑わいとその淡紫の髪を柔らかく照らしている。
まるで、最初から何もなかったかのように。
(…………。……取られ……?)
取られると思った……?とは……?――ガルドは無言のまま、そうっと眉間に皺を寄せた。
幻聴だったかもしれない。だってもう、目の前の雇用主は、見慣れぬ果物に夢中だ。
静かな足音が二つ、商店街のざわめきの中に溶けていった。
続けて通りを散策しつつ、ルシアンは露天商や街の住民に、「不思議な場所、美しい場所はないか」と情報を聞いて回っていた。
ちらほらとあそこが、ここが、と真偽の分からない話が交わされる中、料理屋を眺めるガルドのほうに、一人の老人が寄ってくる。
「旦那、あんたあの人の護衛さんかい」
ちらり、目の端でルシアンの姿を捉えながら、老人がガルドにそう声をかける。先ほどの騒動を見ていたのだろう。……だが、冷やかすような気配はなかった。
「……ああ」
「なら、行先を決めるのは旦那なんだろう。あんたに話すよ。――旅人が消える、惑わしの森がある」
その話を聞いたガルドは、眉根をひそめた。
惑わしの森。――美しくはなさそうだ、が……、"不思議"のほうの琴線にかかってしまう可能性がある。
ガルドがううん、と唸りかけて……次の瞬間には、思わず額を押さえた。
……老人のすぐ後ろで、ルシアンが、微笑んで立っている……。
「面白そうなお話ですね、お聞かせ願えますか?」
老人が言うにはこうだった。
森に入った旅人が消える。持っていた地図は狂う。
仲間の声も聞こえなくなる。方角も狂う。消えた旅人はしばらくして、ふいに戻ってくる。
だが森で何をしていたのか、どうやって戻ってきたのかは、本人も覚えていない。
「それはとても不思議ですね」
静かに声を落とすルシアンのその眼差しは、老人に微笑んだ後、間違いなくガルドに向いた。
「……お前な」
唸るような低い声が、護衛の喉奥から漏れる。呆れた口元からは、もう否定も肯定も、出てこない。
ため息がひとつ。そりゃあ、気になるに決まってる。
不思議な場所。説明のつかない現象。迷う旅人。
そんな単語が並べば、この男の足はもう半分突っ込んでるようなものだ。
そして何より、そうした話を「面白い」と言ってのける、その柔らかな微笑み。
「……地図が狂う、声も届かねぇ、戻ってきても覚えちゃいねぇ……」
ガルドは、もう一度老人の言葉を反芻しながら、わずかに顎を引いた。――観光名所ではないことだけは、確かだ。
「場所は……ここからどれくらいだ」
問いかければ、老人はゆっくりと指を伸ばして、北東の方角を指した。
「北門から出て一刻半ほど歩いた先だ。街の奴らは近づかん」
「……あれか、川の向こうの」
「ああ、そうだ」
……ふむ、とガルドは、記憶にある周囲の地形を思い浮かべた。
北東、山間に抜ける原野の途中、確かに深い森がある。討伐でも、採取でも、冒険者ギルドの依頼掲示板に上がることのない、名もない森だと思っていた。よって、立ち入ったことこそない、が。
「……呑まれなさんなよ」
――一言、城壁の向こうを見つめるような声でそう言い残し、老人は背を丸めて去っていく。
その背中を見送ったのち、ルシアンが小さく、まるで花の香りでも嗅いだように目を細めた。
「……呑まれるとよ」
「ふふ、楽しみだね」
端然としたその立ち姿に、ガルドはわざとらしく、大きなため息を落とした。
――【微笑みの壁】




