【ガルドとロア】
ソリの街を発ち、ふたりは街道を北に向かって歩いていた。
今日の空は薄曇りで、風は強くはないが、冷たい。雪の気配はまだ遠く、けれども街道脇の林はひっそりと静まり返っている。
夏場ならば鳥の声や小動物の息遣いが聞こえたであろう茂みも、今はどこか空いていて、林の奥まで見通せるようになっていた。
ルシアンは、旅の余韻を引きずらない。
影流れの谷で見たものも、その時に揺らいだ足元も、今はもう手帳の中にしか残っていない。
その瞳はただ、北風の中の街道を楽しんでいた。
道行としては、ここから二日ほど道なりに歩き、北の山岳に差し掛かる予定だ。
次の街は、そこから山を越え、そのまたさらに向こう。全ての道程で十日ほどかかる、というのがガルドの見通しだった。
ルシアンが、隣を歩く男を見上げる。
「山を越えた後、二日ほど歩くんだよね?」
「……ああ。六日で山抜けりゃあいい方だ」
ちらと視線で応じたガルドがわずかに顎を引き、ついで空を見やった。
大陸北部の西端の街、スレヴィア――それが、次の目的地だった。
「山越えの街道はできたばっかだ、道は悪くねぇ」
「そうなのかい?……じゃあ、ソリからスレヴィアへの交通路は通ったばかりということ?」
「いや、前は星晶窟……」
言いかけて、ぐっ、と不意に、言い淀む気配。やっちまった、の顔。……その一瞬を逃さず、ルシアンが首を傾げる。
「星晶窟?」
「……いや、」
ぶっきらぼうに切ってから、赤い瞳がじわりと横目でルシアンを見る。案の定、その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「……くそ……」
低く漏らし、ガルドは前を向いたまま顔をしかめた。ふいに出てきたその名前を聞き逃すつもりなど、もちろんこの雇用主には、微塵もなさそうで。
「……ガルド?」
「……チッ」
抗いようのないその声に、ガルドは一段、肩を落とした。
星晶窟とは、山を隔てた二つの地方を繋ぐ、昔の交通路だった。
山を迂回し、安全を重視した街道が整備されるまでの、かつての山越えルート。
上の街道で峠を越えれば六日はかかる道中が、この星晶窟を通れば一日で通過できる。
「上に馬車の通れる道ができて、星晶窟は用済みだ」
口調はぶっきらぼうなまま、苦々しくガルドが隣を見下ろす。
封鎖こそされていないが、現在は放置状態にあり、地元の管理組合や冒険者ギルドが最低限の監視・警戒を行うだけの場所。
一部の冒険者連中が時間短縮ルートとして利用することもあるが、一般通行は推奨されない。それにはある理由もあったが……まぁつまりは、暗くて脆くて危ない場所だ。
「それが何故、"星晶窟"なんだい?」
「……、……星晶っつう、鉱石がある」
答える声は、渋い色を孕んでいた。どんどん、道行が確定していく気がする。
「魔獣はまぁ、いねぇが、星晶は資源価値もねぇし、道は狭い、暗い……迷う……」
ぱち、と視線が絡んだ。純粋なまでに見上げてくるその笑顔の前に、片眉が吊り上がり、やがて護衛から、ため息が一つ出る。
「……くそ……わかった。坑道の入り口には、明日には着く」
「ふふ、やった」
嬉しそうに笑うルシアンの足取りは、冬の風のように軽やかで――ガルドは小さく舌打ちをしながら、外套の襟元を無造作にかき合わせた。
「……上の道のが安全なんだがな」
ひとりごとのように呟き、先を行くルシアンの背を見つめ、軽やかすぎる足取りに、しばし目を細める。
ああ、そりゃあ、構いやしない。あれが見たがるもののために、俺がいる。それはそうであるが。
……安全な道を外れるルートをこちらから提示してしまったのは、護衛としての矜持が文句を言っている……。
「……ったく……」
ガルドが吐き出した言葉の裏には何もない。そっくりそのままただの愚痴、ただの諦め、ただの後悔。
歩幅を合わせて追いつけば、並んだふたりの影が長く伸びていく。
その先に、山の影と――誰も通らない坑道が、静かに口を開けて待っていた。
――それは、その日の野営地を探していた時だった。
ふとガルドが空を見上げ、くん、と鼻を数回鳴らし……雲を見て、風を見る。
「……雨降るな……崖下に入るか」
ほぼ、即断だった。
ルシアンも同じように空を見上げる。日は傾き始めているが、厚い雲は流れていない。薄雲は低いが、合間から見える空は青灰色に澄んでいる。
目線を下ろせば、護衛の眼差しはすでに街道脇の獣道へと向けられていた。
木立の隙間に踏み跡を見つけ、そちらへ舵を切る。旅慣れた脚が迷いなく草をかき分け、がさがさと落ち葉を踏みしめていく。
ルシアンもその背を追えば、やがて薄く開けた林の先に、岩肌が露出した崖が見えてきた。
岩壁の上部が庇のようにせりだす場所を見つけ、その下に荷物を置く。
「幕張る。降る前に薪頼んだ」
「うん」
短い指示にルシアンも崖下に荷を置き、林の中へと足を踏み入れた。
雨の野営自体は、これまでも何度か経験がある。
そんな時、彼はいつでもああやって、天気が崩れる気配を読んできた。やはり、長年の冒険者としての経験がものをいうのだろうか。
空の色も、雲の流れも、ルシアンにはまだいまいちわからない。ふむ、と感心しながら、林の外縁で薪を拾い集める。
カン、カン、と天幕を打ち付けていく音が聞こえる。
木々の間から目をやれば、頭上の崖に幕を打ち付け、軒を拡張しているようだった。武骨な手が、幕の逆側に手頃な棒をくくり、ピンと張らせる。
手際よく、黙々と、いつものことながら頼もしい限りだ。
崖の下は、大人が二人並んで眠れる程度の広さがあった。
冷えた岩肌を背に、地面には薄く敷物が敷かれ、荷が壁沿いに寄せられていく。
崖の傾斜を利用した、風除けと雨除けを兼ねた野営地が、形になろうとしている。
ルシアンが手にした枝を抱えて戻るころには、ガルドは幕の張りを調整しながら、天幕の中を一瞥していた。
「拾えたか」
「うん。足りそうかな?」
訊ねるような声に、張った布の下から顔を覗かせたガルドが、薪の束を抱えた腕を見て小さく頷く。
崖の庇は思ったより深く、大きな幕は風に揺れて、けれど寒さを遮ってくれた。
地面の平らなところに手早く木を組み、ガルドが焚き火の支度に移る。
手に抱えた火口に、キン、キン、と数度火打ち金を打ち付ける音がして、木っ端がじりりと燻りだす。細く息を吹きかければ、小さな火が生まれた。
降るであろう雨と風の影響を避けるように、火は崖と幕の間に収まり、あっという間に枝を炙り始めた。乾燥して乾いた枝からは、ぱち、と軽い音が立つ。
火の揺らぎが、岩肌と幕の内側を照らしていた。
しばらく火勢を見つめていたガルドが、やがて緩く肩を落として、地べたに腰を下ろす。ちらりと淡紫に目をやれば、こちらも壁に緩く背を預けるところ。
「降りだす前に間に合ったな」
「うん、濡れなくてよかった」
交わされる声は、焚き火の音に負けそうなほどに穏やかで。
幕越しに、外の風が柔らかく鳴る。すぐ近くに、雨の気配が漂っていた。
けれどふたりの居場所は、火と幕と崖に守られている。
仄かに灯るその空間に、夜がじわじわと近づいてくる。
……た、た、ぱた、と。
天幕に雨が打ち付けられる音が聞こえ始めたのは、それから間もなくしてだった。
ぱたぱたと小気味いい音と、焚き火がぱちりと弾ける音が日暮れを彩る。
ほんの少し傾斜がかかった地面のおかげで、雨も流れ込んでこない。
降り出す前に野営地の設営が終わったため、装備も一切濡れていない。
「……雲の流れでわかるのかい?」
幕の間から雨空を眺めながら、ルシアンが声だけでガルドにそう尋ねた。
荷物の中から食料を取り出しながら、ガルドも同じように空を見上げる。
「……まぁ……匂いだな……風の」
「ああ、君、鼻がいいものね。すごいと思うよ」
「……。……」
わずかに照れているのか、ガルドのその眉間にきゅ、と皺が寄った。
ついで片手で抱えるように頭をかき、――ルシアンのほうに視線をやる。
「……、……獣人、の血が……混じってるからな……」
「えっ?」
完全に不意を突かれた表情で、ルシアンが隣を見上げた。
……うろ、と一瞬だけ赤い瞳が迷ったが、それを見つめる銀の瞳が、まっすぐだった。
「ひいじいさんが、……獣人だった。……俺は見た目は……人間だけどよ」
「……うん」
「けど……鼻がいいとか、身体がでけぇのとか、力が強ぇのは……それだと思う」
「……そっかぁ」
妙に納得したような声に、ガルドの肩が緩く落ちる。
張った天幕を打つ雨の音は心地よく、細かく弾んで、外の冷たさをそのまま音にしたようだった。
薄闇の中に少しずつ輪郭を失っていく林を、ルシアンの眼差しが見やる。
そうして、はた、と――、
「ロア……」
「……ん」
「"ロア"は、じゃあ、そっちの名前かい?」
緩く笑むような視線を向けられ、焚き火の炎に、ガルドが目を眇めた。
こくりとひとつだけ頷く仕草は、諦めでも観念でもない。枝をひとつ取り、がり、と地面に線を書く。
「……祝名だかってやつだな。……ガルド=ロア・ヴェルグリム」
「へぇ……祝名って?」
「んん……ロアの群れの、ヴェルグリム家の、ガルド、みてぇな……、……よくわかんねぇ」
地面に書かれたフルネームに、ルシアンが口元をふわりと緩めた。
この感じだと、混血だということも、名前のことも、きっと誰かに話したことなどないのだろう。いつだったか見せてもらったギルドカードにも、この「=ロア」の部分などなかった。
それきり、ふたりは静かに焚き火に向き直った。ルシアンがもう一度、雨空を見上げる。
「……君が誰でも、ガルドはガルドだね」
「…………」
その言葉に返される声はなく、ただ、火の中に先ほどの枝を放り込んだ。
火の粉が、ぱち、と跳ねる。
幕の外では、雨音が少しだけ強くなっていた。木々の幹も濡れて色を深め、林の向こうの街道は暗く沈み、空には星など見えやしない。
それでも崖下のこの小さな空間には、しっとりとした温もりが漂っている。岩の匂い、湿った木の匂い、そして、隣からふわりと香る木と花の香り。
空から視線を戻したルシアンは、火の明かりに照らされるガルドの横顔を、ほんの少しの間だけ見つめていた。
だがその視線に気づいたように、ガルドがわずかに喉を鳴らし、咳払いのように息をつく。
「……飯にすんぞ」
「ふふ、うん」
ぶっきらぼうな声は何も変わらずいつも通り。答える穏やかな笑い声も、いつもの通りだ。
雨音と火音の中、静かな野営の夜が、ゆっくりと深まっていった。
翌朝、日が昇り始めるころには、雨はすっかりと上がっていた。
朝陽が差し込む中で野営地を撤収し、濡れた天幕や鉄杭は、ルシアンが"そよぎ"の生活魔法を使って乾燥させていく。
「幕に囲まれてたから、寒くなかったね」
「ああ」
くるくると毛布を丸めながら、ガルドも短く返す。雇用主は相変わらずどこか楽しげで、昨日に引き続き"星晶窟"を心待ちにするかのような笑みを浮かべている。
そこから視線を逸らしたガルドが、まとめた毛布を荷物の中に突っ込んだ。
「…………」
――混血、については、別に何も隠していたわけではなかったが……、それでも今、どこか安堵している自分もいた。
それこそ、家族以外誰も知らない。ギルドも、冒険者連中も、知らないことではある。
だが彼の……ルシアンの名前を知って、その素性を預かって、――ならば自分もと考えてしまったのは……。
(……。おかしくはねぇよな……)
どこか正当化しようとしているのは、自分に対してだ。
見た目に特徴があるわけでもない。ただ普段は名乗らぬ名前と、……気質がややそちらに引っ張られる瞬間があるというだけ。
黙っていても支障のない範囲。
(……ちげぇか……)
(…………)
――知っていてほしかった、のかもしれなかった。
その結果返ってきたのが、『ガルドはガルドだ』という返事だったものだから、なおさらやけに響いてしまっただけで。
重くついたため息は、……ただ満足しただけのようなものだった。
靴底で焚き火の跡を均し、火の始末を済ませたガルドの傍らで、ルシアンも身支度を終える。
このまま岩壁に沿って歩くのか、獣道を引き返して元の街道へ戻るのか。
林のほうへ目を向けていると、屈み込んだガルドの頭が、胸元へ寄ってきた。
――すん、と小さく嗅がれる、いつもの朝の習慣。
……では、ある、が……。
「…………」
件の話を聞いた後だと、何か、すごく、ものすごく、……気恥ずかしい。
自分が思うよりも、さらに強く匂いを感じ取っているのだろうか、とか。
香油をつけていない時にも、香りに言及してきたことも、そういえばあったような、とか……。
黙りこくるルシアンに気づくことなく、すく、と背を伸ばし、ガルドが見下ろしてくる。
瞬きをひとつ落とした赤い瞳が細くなり、……口角がわずかにあがり、なんともにやり、といった風な表情になった。
「……なんで顔赤ぇんだお前」
「えっ」
雇用主、咄嗟に視線を伏せる。
片手で顔を覆えば、確かに熱い。
なんでと言われても、こちらが聞きたい。覗き込まれるような気配を感じ、思わず手のひらで視線を遮る。
「っ……、……」
ダメだよ、ガルド――は、ちょっと……出てこない。
ガルドは一瞬面食らったように目を瞬いたが、すぐににやついた顔をさらに近づけてきた。
「……んだよ、なんかまずかったか?」
息がかかるほどの距離。けれど手のひらが邪魔をして、顔は見えない。
――赤い瞳が、じっとを見ている気配だけが、やけに濃い。
「おい、無視か。逃げんなよ、なあ」
そう言いながら、あろうことか、手のひらを軽くつついてくる始末。
声色は完全に笑みを含んでいる。小さく抗議をするように、とん、とルシアンの空いた手のひらがガルドの肩口を押し込む。
ちょっと待って、と、来ないで、と、いじわる、の文句ような仕草だった。
ふ、と低く笑われるような声がする。肩口の抗議の手のひらに、ぽんと一度だけ手を重ね、屈んでいた身体を起こして踵を返した。
「……星晶窟までは二刻だ」
「……ッ、……うん」
どこかふてくされたような返事が、歩き出した大きな背を追う。銀の目尻に、まだ赤みがほんのりと残っていた。空を見上げれば、雲ひとつない晴天。雨の夜が嘘のような、澄んだ朝だった。
朝の風が、ちょっと火照った頬にひやりと触れる。
――すん、と嗅ぐ音が、耳の奥に残っているような気がした。
――【ガルドとロア】




