【お前は帰れる】
ガルドは、部屋が温まり始めたころに戻ってきた。寒空の下にいたものだから、鼻先がやや赤くなっている。
わずかに煙草の匂いがして、……一服だけしてきたようだった。
それぞれ宿の風呂に入り、部屋で荷物の整理をする。
元より、影流れの谷で蝶を見たら、この街は出立する予定だった。
物資は昨日のうちに買ってある。
明日からはひとまず、この街から北の方角を目指す。
各自装備の点検を終え、……ルシアンが手帳を手に、椅子に腰かけた。
いつものように、旅の記録をとる。街の宿。見かけた景色。人々や、美味しい食べ物。
ガルドからは何を書いているのかまでは見えないが、その静かな横顔はもう落ち着いていて、先ほどのような揺らぎはない。
ほ、と小さく息をつき、ガルドは先にベッドに身を横たえた。肘をついた手に頭を置いて、ペンを走らせる横顔を眺める。
淡紫の髪が頬にかかって揺れている。旅を始めた当初より、わずかに髪が伸びたか、などと思う。
「……あれ、ガルドもう寝るのかい」
ふと顔を上げて、穏やかなその眼差しが、ガルドのほうを振り返った。
護衛は無表情のままに、けれど銀の瞳から視線は外さずにゆらりと頷く。
「ああ。……今毛布暖めてる」
ぴた、と目を丸めて止まったルシアンが、は、と気づいた顔をして、ふわりと柔らかく笑った。
手帳を閉じ、ストールを椅子に掛け、薪ストーブの火を細くし、いそいそとベッドの脇へ。
その様子を見ていたガルドも、思わず頬を緩めながら、掛け布団を持ち上げた。
開かれた腕の中、背中から潜り込んでいけば、そのまま抱え込まれる。
湯上りの大きな身体は、――疑う余地もなく暖かかった。
ルシアンの髪が、するりとガルドの喉元にかかる。
湯気の名残を帯びた香りと、淡く静かな体温がすぐそこにある。その感触に、ガルドの呼吸がほんの少しだけ乱れた。
「ふふ」
「んだよ……あったけぇだろ」
ぶつりと小さく漏らされた声は、照れ隠しにも似ている。
だがルシアンは何も返さず、ただ黙って身を預けていた。
胸元にすっぽり収まる身体は、きつく抱き寄せるには少々軽く、けれど確かな重みを持っている。
緩く包むようにその身体を引き寄せれば、抵抗もなくぴたりと密着して……そこでようやく、ガルドはかすかに息をついた。
「……山越え、覚悟しろよ」
それだけをぽつりと告げて、腕の力を緩めないまま目を閉じる。
返事はなかったが、小さく頷くような気配がひとつ返ってきた。
ただ眠るだけの、ただ抱き寄せるだけの、静かな時間。
けれど、その何気ない寄り添いが――今日という一日の重みを、優しく、確かに癒していく。
ルシアンの呼吸が、柔らかく落ちかけた、その背中で。
「……なぁ、……」
ぼそ、と頭の後ろに声が落ちて、ルシアンがぱちりと目を瞬かせた。
振り返れば、……どこか眠たげな眼差しはまっすぐに、こちらを向いている。
「うん?」
「……お前は好きなだけ、あちこち行けよ」
「……うん」
一度だけ、大きな手で髪を梳かれた。
そのまま、硬い親指が頬を滑る。
「お前は、ああはならねぇ」
「…………」
「……お前は、帰れる」
それは過剰な自信でもなければ、見当はずれな発言でもなかった。
ただ、"そばにいる"、と。――"俺が呼び戻す"と宣誓するかのような、無骨な言葉。
低い声は身体の芯の方に重く落ちて、ルシアンは返事をする代わりに、小さく笑った。喉の奥が、きゅ、と締め付けられそうだった。
すり、と頬の手のひらにすり寄る。ガルドの腕が、再び自然に、しかし強く回される。
ゆっくりとぬくもりに沈んでいく気配に、そっと布団を引き寄せるように抱えなおせば、……夜の風は、もう聞こえない。
ガルドの腕の中、その存在が、ひとつの形として定まっていく。
大きくて硬いはずの手は、まるで繊細なものに触れるように柔らかい。けれどその力加減には迷いがない。
ただ守ることを選び、ただ包むことを選んだだけの手だ。
「……ついてってやる」
決意のようにぼそりと落としても、返答は、もうない。眠りに落ちたのかもしれなかった。
けれど、応えがなくとも構わなかった。この腕の中で眠るという、それがすでに答えだから。
指先がまた頬を掠め、吐息があたたかく肌に触れる。ガルドの瞼が静かに下りる。
重ねられたぬくもりのすべてを、まるでそれがともしびであるかのように胸に抱いたまま。
部屋をじわじわと、冬の冷気が包んでいく。
瞼の裏に、いつまでもあの蝶が舞っているような気がしていた。
――【お前は帰れる】




