【連れ帰る人】
ソリに帰る頃には、日もすっかり沈み切っていた。
けれど足取りに疲れや乱れはない。互いに言葉も交わさずに、まっすぐに、ギルドへ向かう。
冒険者ギルドの大扉を開ければ、件の書記官がふたりを見て、やや緊張した面持ちで頭を下げた。
「お、お疲れさまです!どうでしょう、何か――いえ、蝶は見れましたかっ?」
ぎこちなくも笑顔を作る書記官に、ルシアンも柔和な笑みを作った。
いつもと何も変わらない、いつもと同じ笑みだった。
こつ、こつ、ごつ、ごつ、と木床に靴音が響き、受付カウンターの上に、ガルドが持っていた小さな袋が静かに置かれる。
職員の動きも、周囲の冒険者の話も、書記官の笑顔も、全てが止まった。
眼鏡の奥、書記官の瞳だけがかすかに動く。
ゆっくりと袋の口に手を伸ばせば、――少々の、土の匂いがした。
「谷底で見つけました。あとはお願いできますか」
あくまで柔らかなルシアンの言葉。その"谷底"を裏付けるような袋の中身。
ギルドカード。手帳。識別タグ。懐中時計。書きかけの手紙。
ベルトの切れ端。衣服の内布。そのすべてに、名前がある。
「……お預かり、致します」
絞り出した書記官の声は、……思いのほか、芯があった。別の職員が袋を受け取り、急ぎ照合に向かう。
ルシアンが資料をカウンターに返せば、書記官からは静かな動作で、依頼書や報告書が差し出された。
それぞれに、ルシアンとガルドがペンを走らせていく。
その運びは静かで、対照的にギルドの職員は慌ただしく。
書記官もまた、なんとも言えない表情で、ただふたりを見ていた。
「……蝶、綺麗でしたよ」
す、と姿勢を上げたルシアンが、沈痛な面持ちの書記官に、そう微笑みかける。
過不足なく仕上げられた報告書と、通行の可不可が注釈された地図を差し出しながら。
その笑みに、書記官は言葉を返せなかった。
けれど手元の地図をそっと受け取ると、深く、一度だけ頭を下げた。
「……確かに、受け取りました」
喉の奥で詰まったような声だったが、それが彼なりの精一杯。
記録係の職員が、慌てて複写を取り、提出された書類に目を走らせていく。
この報告書を以てして、正式に調査、検分、対応が行えるだろう。すべての危険は回収できないかもしれない。すべての残骸も、回収できないかもしれない。
それでも、誰かの痕跡は、もう零れずに済む。
踵を返し、受付を離れながら、ガルドはちらとカウンターを振り返っていた。
書記官は立ち尽くしていて、袋の中にあった曲がったギルドカードを、両手でそっと包むように抱えていて。
「…………」
「……ガルド?行こう」
「……ああ」
……"それ"を、連れ帰ったのは、お前もだ、なんて――……がらにもなく、そんなことを思った。
ギルドの職員など、いちいち覚えていない。名前すら知らない。けれどああして、忘れないでくれる人間がいるのなら。
(…………)
自由気ままな冒険者稼業、ふらっといなくなっても誰も気にしない自己責任の世界。
その帰りを待つ人間がいるとすれば、それがきっと"冒険者ギルド"で。
……らしくもねぇと、自嘲気味に思いながら、ガルドはギルドを出た。
隣の外套が夜風を孕む。その襟元を整える動きに、ほんのわずか、温もりが戻ってきたように見えて、……わずかに肩が緩む。
ふたりはそのまま一言も交わさずに、まっすぐに宿へ戻っていく。
音もなく並んだ足取りが、夜の石畳をゆっくりと踏みしめていた。
宿で遅めの夕食をとって、やっと、ルシアンはひと心地ついていた。
奥の台所から顔を出した老夫婦の妻のほうが、暖かく湯気の立つコンポートを手に、ふたりの卓へ歩み寄ってくる。
「今日は寒かったから、温かいデザートにしたの」
嬉しそうにそれだけを告げて、また台所のほうへ引っ込んでいく丸い背中。宿の主人が、妻の手にある台拭きを静かに取り上げているのが見えた。
「後片付けはしとくから、お前は先に休みなさい」
「あら、ありがとう」
くすぐるような笑い声に、それを耳の端で聞いていたルシアンが、小さく口元に笑みを作った。
目を伏せ、器から立ち上る香りを楽しむ。甘酸っぱい果実が、シロップでくたりと煮込まれている。スプーンを差し込めば、す、と果肉が割れた。
つい先ほどまで煮込まれていたのか、口に入れるとほどよく熱い。
目の前では、赤い瞳が細められている。
美味しいね、など言わなくても、もう互いの表情でわかる。――そんな、夜の中で。
「……珍しく落ち込んでるじゃねぇか」
からかうでもなく、けれど冷たくもなく、ガルドがそんな言葉をかけてきた。
じ、と視線が絡む。それはそうだ、と小さく笑った。
「ふふ、そうだね。……ああいった形で、人の死を目の当たりにするのは初めてだったから」
「……まぁ、慣れるもんでもねぇ」
言いながら、果物を三口ほどで平らげ、ガルドがスプーンをカラン、と置いた。
そのまま椅子に背を預け、食堂の窓の外を眺める。北風が、カタカタと窓枠を揺らしていた。
「……この仕事やってりゃ、時たまああいうのも見る。……だが耐性つけるこたぁねぇ」
「……うん」
「怖くていい。落ち込んでいい」
最後の一口を食べきり、空になった器に、ルシアンもスプーンを置いた。
暖かい果実が、掠れた低い声が、気持ちをほどいていく。外を眺めていた瞳がふとこちらを向き直って、……肩で息をひとつ。
持ち上げる言葉も、慰めの言葉も、器用なものなどなにも、出て来やしないが。
「お前は……集めて連れ帰った。……それが全部だ」
「…………」
ルシアンは何も答えられず、頷いて、笑みを作った。
彼はいつでもこちらの判断を尊重してくれるが、今回のそれは、少々重さが違った。
静かに、見つめ返す。
あの蝶の舞う地で、ほんの一瞬、胸を占拠された"もしも"を、思い出した。
もしも、自分がひとりであの谷にいたら。
もしも、美しい蝶を見かけて、足元が疎かになっていたら。
……誰も、後ろから手を引いてくれなかったら。
「……私だったら、帰りたかったから」
その言葉に、ガルドの瞳がわずかに揺れた。
視線を外さず、けれどすぐには何も返さない。どこかか細いその声が、ゆっくりと沁み込んでいく。
「……そうか」
呟くように落とされた声は、ただ、それを受け止めただけなのかもしれない。
しばしの沈黙ののち、緩慢とした動きで、ガルドが頷く。
「……、……わかった」
静かな言葉は、ただそう、ぽつりと返されるだけ。……銀の瞳が、瞬きをひとつ落として目を細めた。
窓の外、風がまた木枠を揺らした。
その音に紛れて、ガルドがふと立ち上がる。
「……外の空気吸ってくる。……部屋のストーブ、つけとけよ」
そう言いながら背後の椅子に手をかけ、それだけを残して、巨躯は足音を立てぬように歩み去った。
宿の玄関が開き、冷たい風が少しだけ食堂へ入り込む。
けれどその風に、熱を奪われるような寒さはなかった。
ルシアンは席に残ったまま、ほんのひととき、閉じられた扉を見つめていた。
――【連れ帰る人】




