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ルシアンの物見遊山 II【毎日更新/21:20】  作者: フジイさんち
西端の街ソリ

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【影流れの谷で】


ふたりの足音が、岩の道に落ちる。

乾いた砂と、こつこつと鳴る靴底の音だけが、谷に吸い込まれていく。


一歩進むごとに、霧がわずかに濃くなる。


砂礫と砂の散った地面は時に滑りやすく、斜面に差しかかるたびに、ガルドが先に足場を確認してから、ルシアンへと振り返った。


「……ん」


掴まれ、と差し出された腕に、ルシアンが慎重に手を伸ばす。感知魔法である程度の地形が見えるとはいえ、そこを安全に降りられるかどうかはこちらの足運び次第だ。

その手のひらがガルドの前腕に触れるたび、引き寄せる力の加減も慎重に調整される。


静かな谷の中腹を、物音もなく降りていく二つの影。鳥の声も、獣の気配もない。

ただどこか遠くで、風が低く唸っているような音だけが、かすかに耳に残る。


そんな視界の端、霧の切れ間で、一瞬だけ何かが揺れた。……赤く、ひらひらと。


「ガルド、待って」


気づいたルシアンが立ち止まり、ガルドもまた足を止める。数歩先行して足場を見ていた大きな背中が、すっと隣へ。斜面の途中のわずかな段差、その壁にふたり、身を寄せる。


その――蝶のような影は、まるで蜃気楼のように揺らめいていた。


いや、実際、蜃気楼なのかもしれない。


冷たい風が流れる谷の上部と、暖かい空気が滞る谷の底付近。加えて、付近の湿地帯から湿った風も流れてきている。

谷底はまだ遥か眼下にあったが、今立っている場所にもしっかりと地続きの地面があった。


岩棚なのに、だ。



「…………」

「……行くなよ」


護衛の声に、……こくり、とルシアンが頷く。

すぐ足元は、一歩踏み出せば断崖絶壁。

前方に目を向ければ、そこには地面。


――蜃気楼によって、あるはずのない地面が、そこにある。



ひらり、と霧の向こうから、薄赤の蝶が現れる。今度は蜃気楼ではない、本物の蝶だった。

手のひらほどの大きさの、本来であれば温暖な地域に棲息する種類の蝶。


「これは……ファラミナだね」

「……お前蝶の名前まで知ってんのか」


ガルドの呟きに、ルシアンが小さく笑った。

興味のままに本を読む時間も、こうなると無駄ではないようだ。


「珍しい蝶だよ。冬の時期に、この寒い地域で見られるなんて……」


言いかけて、ルシアンがその蝶を見つめる。


渡り蝶で、大きく、可憐で、そして珍しく。

一匹なのか、数匹なのか、蜃気楼と現実の両方にその姿がある。幻の地面の向こう、ちらちらと、その影がいくつも。

流れる黒い影の崖と、白く鈍る霧と、その間を行き交う赤は、――その眺めだけを切り取れば、息を呑むほどに美しくて。



「……近くで見たい人も、いるかもしれないね」

「……このまま突っ切ったら、真っ逆さまだがな」


お互いに顔を見合わせて、ガルドが慎重にルシアンの腕を取り、また岩棚を下る道へと歩き出した。


岩肌に指先をかけ、靴底を滑らせないよう一歩ずつ確かめながら、斜面を下る。

足元の岩が小さく転がるたびに、谷の奥へと乾いた音が響く。


背後から続くルシアンの気配に意識を割きながら、途中で何度も振り返る。

斜面には自然の窪みや切れ込みが多く、時折手を差し出してはルシアンの身体を軽く支え、膝を添えて体重を受け止めた。


その足取りは、いつになく静かで慎重だった。






谷底には、小さな岩や、枯れ木がいくつも横たわっていた。


ぴたりと足を止めたガルドの視線の先、その倒木らしきの端で、薄赤、青、橙、白――地味な地形には不似合いな、幻想的なまでに鮮やかな色の翅(はね)が、じわり、じわりと呼吸をしている。

それはまるで、ここが彼らの楽園であるかのように、穏やかで、緩やかで。


あとに続くルシアンもまた、ガルドの横合いから、そのファラミナを遠目に見つめた。湿地帯から流れてきたのであろうぬるい風が、蝶の背を押すようだった。

冬でも湿度と暖かさを残すこの谷の下部で、越冬をするのだろう。


ざくり、足音を鳴らしてガルドが歩き始める。それに、ルシアンも静かに続く。


まるで巨大な川のように長く、広い、台地の底。

見上げれば空へと続く断崖が、まるでこの最深部に蓋をするかのようだった。


北からの冷たい風が、遠い地上を流れている唸りに聞こえる。けれどもこの場所は温かさがたゆたい、なのに少しだけ息がしにくかった。

ルシアンの前を歩いていたガルドが、立ち止まる。


わずかにこちらを振り返るような素振りと、けれども前を見据える背中と。


「……ガルド?」


呼びかけて隣に並べば、その視線の先に、衣服と、荷物と、白化したなにか。

ぴたりと、ルシアンも立ち止まった。


その上を蝶が舞う。

だがすぐにまた霧の向こうへ消えていく。ただの景色の中を渡るように。


「…………」


銀の瞳が、改めて谷底を見回した。

一度その正体に気がつけば、そこからはもう。



――岩、だと、思っていた。

枯れ木が横たわっていると、――思っていた。


年季の入った装備。ひしゃげた骨。


錆びた金属。割れた骸。


風化した革。黒ずんだ痕。


蝶を追ったのかもしれない。

道があると思ったのかもしれない。


ただ間違いなく、"もしかしたら"が、なれの果てとして目の前にあった。



「……やめとけ」


ぐい、と……頭を押し下げられる。

目の当たりにしてしまったそれに、息が止まっていたことにそこで初めて気が付いた。

指先もわずかに震えた。


いつの間にかバカな考えが、ルシアンの思考を占拠していた。

もし自分がひとりでこの地を訪れていて、谷の途中でファラミナを見つけて、つい近くで見てみたくて、けれども止める者は誰もいなくて、……ガルドが、いなくて――。


この谷底に広がる末路と、自分の姿が、一瞬だけ重なる。



「…………」

「…………」



けれどルシアンは、顔を上げ、……ひとつ息をついて、そちらへ歩を進めた。


ガルドの手は、止めなかった。



朽ちかけたその傍らに、静かに膝をつく。

人だったもの。性別もわからない。

旅人だったのだろうか。冒険者だったのだろうか。

今はこの谷底となり、ファラミナが舞う景色となっている。


けれど、自分だったらきっと、帰りたい。


散らばった荷物の中に、小さな板を見つけた。

拾い上げれば、Dランクのギルドカード。どきりとする。


かろうじて、ミレア、という名前が読み取れた。


「……この人たちの、身元のわかるものだけでも、回収していこうか」



声は、意外なほどに震えなかった。

背後で、ガルドが頷いた気配だけ、感じた。



谷底の空気は、濃く、ぬるく、重い。


誰のものとも知れぬ荷物や衣服が、湿った土に半ば沈み、風に煽られた蝶の翅が、何も知らずにその上を舞う。

誰も止めることはできなかったのだ。誰も、呼び戻す者がいなかったのだ。


ルシアンの手のひらの中、小さなギルドカードがかすかに震えた。拾い上げた指先には、土と金属の冷たさが残る。


「……こっちにも、ひとつ」


低い声が背後から届いた。

振り返れば、ガルドが崖際に沈んだ革鞄を拾い上げていた。片手で泥をぬぐい、もう一方の手で中を覗き込んでいる。

革張りの手帳。裏に、ノアと名前がある。……ガルドはそれを一瞥だけして、手帳を手に抱えた。


ルシアンの足元では、蝶がひとつ、留まっていた。

黒土と"岩"の境目に降り立ち、翅を広げ、しばらく動かない。


その美しさは、時間すらも凍るようで。


けれど――次の瞬間、ぱさりと風が吹き、その蝶は舞い上がるようにして飛び去っていく。

何も言わずに、何も残さずに。


無言のままのガルドが、布袋を取り出し、拾い集めたギルドカードや手紙、革の切れ端をまとめていく。


谷底の霧は、ゆっくりと流れていた。

ここで眠る者たちの上を、蝶がまた一羽、舞っていく。


手に抱えた荷物は、何も重くなどない。けれどふたりは去り際に、その霧の中に一拍だけ、目を閉じた。


黙って歩き出す足取りは、やはり慎重だった。






ミレア、ノア、リズ、キーロ、ウィラム。


名前だけを引き連れて、ルシアンが来た道を戻る。

斜面をただ上を見据えて、背後を守られる気配を感じながら。


スコッド、チャド、マルコ、ハロンド、エマ。


彼らは、どこへ行くところだったのだろう。どんな旅をしてきたのだろう。

一歩一歩、重く谷を登る足取りは、きっと疲れだけの重さではなかった。


ジャクス、ゾーイ、ニクシー、モリス、アーシェ。


家族は探したのだろうか。友や愛する人もいたのだろうか。


焚き火を囲んだら、どんな話をしてくれたのだろうか。



とりとめのないことを考えながらも、こころはどこか、凪いでいた。

とっくのとうに昼を過ぎた陽光は、それでも谷底を照らしてはくれない。


あの蝶の舞う地で、破れたポーチに、数枚の銀貨が入っていた。

黒ずんで、すっかりと土を被っていた。


小さな手記や地図もあった。中身は覗けなかった。

今はガルドが、それらを連れている。


打ち付けられたか、ひどく変形した武器もあった。

恐らく痛みも感じなかった。と、――信じたい。




もとの小道があった場所まで上がれば、もう、蝶はどこにもいなかった。


風が、静かに通り過ぎていく。杭に括りつけられた紐が、ふわりと揺れる。

振り返っても――谷底はただ黙して、ぽかりと口を開けて広がっているだけだ。


蝶の翅音も、霧の流れも、いまはもう遥か眼下に。

けれどあの場所で見た光景が、美しい楽園、が……。

……谷底で眠る者たちの声を、そのまま運んでいるようだった。


ガルドが無言のまま、ルシアンの横合いに立つ。

銀の瞳が谷底を向いているのを見て、同じようにそちらを向いて、ただ低く放つ。


「……帰るぞ」


短くぶっきらぼうなその一言が、何よりもルシアンの足を進めさせた。


影流れへ背を向けたふたりの足音が、土の道へ戻っていく。

風が、そのあとを追いかけるように、か細い草を撫でて流れた。


名を知っただけの彼らを――、

声も笑顔も知らぬ誰かを、確かに連れて帰っていく。


蝶はもういない。


けれど、あの地で見たものは、決して幻ではなかった。






――【影流れの谷で】

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