【影流れの谷で】
ふたりの足音が、岩の道に落ちる。
乾いた砂と、こつこつと鳴る靴底の音だけが、谷に吸い込まれていく。
一歩進むごとに、霧がわずかに濃くなる。
砂礫と砂の散った地面は時に滑りやすく、斜面に差しかかるたびに、ガルドが先に足場を確認してから、ルシアンへと振り返った。
「……ん」
掴まれ、と差し出された腕に、ルシアンが慎重に手を伸ばす。感知魔法である程度の地形が見えるとはいえ、そこを安全に降りられるかどうかはこちらの足運び次第だ。
その手のひらがガルドの前腕に触れるたび、引き寄せる力の加減も慎重に調整される。
静かな谷の中腹を、物音もなく降りていく二つの影。鳥の声も、獣の気配もない。
ただどこか遠くで、風が低く唸っているような音だけが、かすかに耳に残る。
そんな視界の端、霧の切れ間で、一瞬だけ何かが揺れた。……赤く、ひらひらと。
「ガルド、待って」
気づいたルシアンが立ち止まり、ガルドもまた足を止める。数歩先行して足場を見ていた大きな背中が、すっと隣へ。斜面の途中のわずかな段差、その壁にふたり、身を寄せる。
その――蝶のような影は、まるで蜃気楼のように揺らめいていた。
いや、実際、蜃気楼なのかもしれない。
冷たい風が流れる谷の上部と、暖かい空気が滞る谷の底付近。加えて、付近の湿地帯から湿った風も流れてきている。
谷底はまだ遥か眼下にあったが、今立っている場所にもしっかりと地続きの地面があった。
岩棚なのに、だ。
「…………」
「……行くなよ」
護衛の声に、……こくり、とルシアンが頷く。
すぐ足元は、一歩踏み出せば断崖絶壁。
前方に目を向ければ、そこには地面。
――蜃気楼によって、あるはずのない地面が、そこにある。
ひらり、と霧の向こうから、薄赤の蝶が現れる。今度は蜃気楼ではない、本物の蝶だった。
手のひらほどの大きさの、本来であれば温暖な地域に棲息する種類の蝶。
「これは……ファラミナだね」
「……お前蝶の名前まで知ってんのか」
ガルドの呟きに、ルシアンが小さく笑った。
興味のままに本を読む時間も、こうなると無駄ではないようだ。
「珍しい蝶だよ。冬の時期に、この寒い地域で見られるなんて……」
言いかけて、ルシアンがその蝶を見つめる。
渡り蝶で、大きく、可憐で、そして珍しく。
一匹なのか、数匹なのか、蜃気楼と現実の両方にその姿がある。幻の地面の向こう、ちらちらと、その影がいくつも。
流れる黒い影の崖と、白く鈍る霧と、その間を行き交う赤は、――その眺めだけを切り取れば、息を呑むほどに美しくて。
「……近くで見たい人も、いるかもしれないね」
「……このまま突っ切ったら、真っ逆さまだがな」
お互いに顔を見合わせて、ガルドが慎重にルシアンの腕を取り、また岩棚を下る道へと歩き出した。
岩肌に指先をかけ、靴底を滑らせないよう一歩ずつ確かめながら、斜面を下る。
足元の岩が小さく転がるたびに、谷の奥へと乾いた音が響く。
背後から続くルシアンの気配に意識を割きながら、途中で何度も振り返る。
斜面には自然の窪みや切れ込みが多く、時折手を差し出してはルシアンの身体を軽く支え、膝を添えて体重を受け止めた。
その足取りは、いつになく静かで慎重だった。
谷底には、小さな岩や、枯れ木がいくつも横たわっていた。
ぴたりと足を止めたガルドの視線の先、その倒木らしきの端で、薄赤、青、橙、白――地味な地形には不似合いな、幻想的なまでに鮮やかな色の翅が、じわり、じわりと呼吸をしている。
それはまるで、ここが彼らの楽園であるかのように、穏やかで、緩やかで。
あとに続くルシアンもまた、ガルドの横合いから、そのファラミナを遠目に見つめた。湿地帯から流れてきたのであろうぬるい風が、蝶の背を押すようだった。
冬でも湿度と暖かさを残すこの谷の下部で、越冬をするのだろう。
ざくり、足音を鳴らしてガルドが歩き始める。それに、ルシアンも静かに続く。
まるで巨大な川のように長く、広い、台地の底。
見上げれば空へと続く断崖が、まるでこの最深部に蓋をするかのようだった。
北からの冷たい風が、遠い地上を流れている唸りに聞こえる。けれどもこの場所は温かさがたゆたい、なのに少しだけ息がしにくかった。
ルシアンの前を歩いていたガルドが、立ち止まる。
わずかにこちらを振り返るような素振りと、けれども前を見据える背中と。
「……ガルド?」
呼びかけて隣に並べば、その視線の先に、衣服と、荷物と、白化したなにか。
ぴたりと、ルシアンも立ち止まった。
その上を蝶が舞う。
だがすぐにまた霧の向こうへ消えていく。ただの景色の中を渡るように。
「…………」
銀の瞳が、改めて谷底を見回した。
一度その正体に気がつけば、そこからはもう。
――岩、だと、思っていた。
枯れ木が横たわっていると、――思っていた。
年季の入った装備。ひしゃげた骨。
錆びた金属。割れた骸。
風化した革。黒ずんだ痕。
蝶を追ったのかもしれない。
道があると思ったのかもしれない。
ただ間違いなく、"もしかしたら"が、なれの果てとして目の前にあった。
「……やめとけ」
ぐい、と……頭を押し下げられる。
目の当たりにしてしまったそれに、息が止まっていたことにそこで初めて気が付いた。
指先もわずかに震えた。
いつの間にかバカな考えが、ルシアンの思考を占拠していた。
もし自分がひとりでこの地を訪れていて、谷の途中でファラミナを見つけて、つい近くで見てみたくて、けれども止める者は誰もいなくて、……ガルドが、いなくて――。
この谷底に広がる末路と、自分の姿が、一瞬だけ重なる。
「…………」
「…………」
けれどルシアンは、顔を上げ、……ひとつ息をついて、そちらへ歩を進めた。
ガルドの手は、止めなかった。
朽ちかけたその傍らに、静かに膝をつく。
人だったもの。性別もわからない。
旅人だったのだろうか。冒険者だったのだろうか。
今はこの谷底となり、ファラミナが舞う景色となっている。
けれど、自分だったらきっと、帰りたい。
散らばった荷物の中に、小さな板を見つけた。
拾い上げれば、Dランクのギルドカード。どきりとする。
かろうじて、ミレア、という名前が読み取れた。
「……この人たちの、身元のわかるものだけでも、回収していこうか」
声は、意外なほどに震えなかった。
背後で、ガルドが頷いた気配だけ、感じた。
谷底の空気は、濃く、ぬるく、重い。
誰のものとも知れぬ荷物や衣服が、湿った土に半ば沈み、風に煽られた蝶の翅が、何も知らずにその上を舞う。
誰も止めることはできなかったのだ。誰も、呼び戻す者がいなかったのだ。
ルシアンの手のひらの中、小さなギルドカードがかすかに震えた。拾い上げた指先には、土と金属の冷たさが残る。
「……こっちにも、ひとつ」
低い声が背後から届いた。
振り返れば、ガルドが崖際に沈んだ革鞄を拾い上げていた。片手で泥をぬぐい、もう一方の手で中を覗き込んでいる。
革張りの手帳。裏に、ノアと名前がある。……ガルドはそれを一瞥だけして、手帳を手に抱えた。
ルシアンの足元では、蝶がひとつ、留まっていた。
黒土と"岩"の境目に降り立ち、翅を広げ、しばらく動かない。
その美しさは、時間すらも凍るようで。
けれど――次の瞬間、ぱさりと風が吹き、その蝶は舞い上がるようにして飛び去っていく。
何も言わずに、何も残さずに。
無言のままのガルドが、布袋を取り出し、拾い集めたギルドカードや手紙、革の切れ端をまとめていく。
谷底の霧は、ゆっくりと流れていた。
ここで眠る者たちの上を、蝶がまた一羽、舞っていく。
手に抱えた荷物は、何も重くなどない。けれどふたりは去り際に、その霧の中に一拍だけ、目を閉じた。
黙って歩き出す足取りは、やはり慎重だった。
ミレア、ノア、リズ、キーロ、ウィラム。
名前だけを引き連れて、ルシアンが来た道を戻る。
斜面をただ上を見据えて、背後を守られる気配を感じながら。
スコッド、チャド、マルコ、ハロンド、エマ。
彼らは、どこへ行くところだったのだろう。どんな旅をしてきたのだろう。
一歩一歩、重く谷を登る足取りは、きっと疲れだけの重さではなかった。
ジャクス、ゾーイ、ニクシー、モリス、アーシェ。
家族は探したのだろうか。友や愛する人もいたのだろうか。
焚き火を囲んだら、どんな話をしてくれたのだろうか。
とりとめのないことを考えながらも、こころはどこか、凪いでいた。
とっくのとうに昼を過ぎた陽光は、それでも谷底を照らしてはくれない。
あの蝶の舞う地で、破れたポーチに、数枚の銀貨が入っていた。
黒ずんで、すっかりと土を被っていた。
小さな手記や地図もあった。中身は覗けなかった。
今はガルドが、それらを連れている。
打ち付けられたか、ひどく変形した武器もあった。
恐らく痛みも感じなかった。と、――信じたい。
もとの小道があった場所まで上がれば、もう、蝶はどこにもいなかった。
風が、静かに通り過ぎていく。杭に括りつけられた紐が、ふわりと揺れる。
振り返っても――谷底はただ黙して、ぽかりと口を開けて広がっているだけだ。
蝶の翅音も、霧の流れも、いまはもう遥か眼下に。
けれどあの場所で見た光景が、美しい楽園、が……。
……谷底で眠る者たちの声を、そのまま運んでいるようだった。
ガルドが無言のまま、ルシアンの横合いに立つ。
銀の瞳が谷底を向いているのを見て、同じようにそちらを向いて、ただ低く放つ。
「……帰るぞ」
短くぶっきらぼうなその一言が、何よりもルシアンの足を進めさせた。
影流れへ背を向けたふたりの足音が、土の道へ戻っていく。
風が、そのあとを追いかけるように、か細い草を撫でて流れた。
名を知っただけの彼らを――、
声も笑顔も知らぬ誰かを、確かに連れて帰っていく。
蝶はもういない。
けれど、あの地で見たものは、決して幻ではなかった。
――【影流れの谷で】




