【蝶を探して】
――翌日の早朝。
身支度を終え、ふたりは宿の食堂へ降りてきていた。朝早い食堂は利用客もなく、けれども奥の暖炉がほろほろと火を噛んでいる。
「おはようさん」
宿を営む老夫婦の妻の方が、卓についたふたりの前に温かい紅茶を差し出す。ルシアンが笑みで以て応じれば、彼女もにこりと微笑んだ。
「卵のスープとパンが出来たてよ。ベーコンか腸詰めを焼きましょうか」
「いいですね、お願いします」
ひとつ頷いて台所へ引っ込んでいく背中を、ふたり静かに見送る。薪を抱えた主人が食堂を横断していって、暖炉の脇にそれを積んでいく。
廊下を行き来する足音もまだ少なく、スープの匂いと窓から差し込む光が、朝が確かに始まっていることを知らせてくれていた。
「お前さん方、出かけるんだろう。炉石使うかい」
暖炉に火かき棒を突っ込んでいた宿の主人が肩越しに振り返り、首を伸ばしてそんな声をかけてきた。
「……ああ、じゃあこいつにくれ」
「あいよ」
ぺこ、と首を傾けたルシアンに、主人は暖炉から掻きだした手のひら大の丸石を、布袋に入れて手渡してくる。
密度が高い質の石で、一度熱せば数時間は暖かさが保たれるそれ。貴賤関係なく広く使われる小物で、常備する旅人や冒険者も多かった。
厚手の布袋の中、暖炉で熱された炉石はひどく温かい。
「……君の分は?」
「いらねぇ」
そう?と小さく肩をすくめ、炉石を外套の内ポケットに入れる横顔を見て、護衛は何やら満足したように顎を引いていた。
宿を出て、まだ若干薄暗い時間帯の中、ソリの街門をくぐる。陽は昇っているが、街道にも林にも、冬を思わせる冷たさが薄くたゆたっていた。
ガルドが言うには、影流れの谷までは、徒歩で片道二刻半ほど。順調にいけば、夜には帰ってこれそうだった。
北の山越えへ向かう真新しい街道を外れ、西側の断崖地帯へ向かう小道へ折れる。前を歩くガルドに追従しつつ、ルシアンは手元で資料をもう一度広げて見ていた。
魔獣に襲われたのなら、所持品や血痕、場合によっては身体の一部が残る。
山越えルートを外れたとはいえ、断崖地帯を抜けた先には西端の港もある。土の地面にはいくつも足跡があり、行方不明者のものかどうかもわからない。
近くに建物があるような地形でもない。よって、そこへ拉致、もしくは避難している可能性も考えにくかった。
――やがて昼が近づくにつれ、道は徐々に草と土が減り、砂礫や岩が露出した地面が多くなってくる。
肩越しにルシアンへと視線を投げながら、ガルドが小さく息をついた。
「……このへんから先が、"影流れ"の範囲だ」
そう告げながら足を止めたガルドに並び立ち、……ルシアンは改めて周囲を見渡した。
空へ向かってそびえる断崖と、遥か眼下まで伸びる断崖と。
ソリと港の間にあるこの谷は、山に削られたというより、大地そのものがどこかで耐えきれずに深く裂けたような地形だった。
断崖は硬くそびえる一枚の巨岩ではなく、硬い層と脆い層が幾重にも重なり、けれど押し割られ、持ち上げられ、削れた末に今の姿になっているように見える。
崖の途中にちらほらと棚のように張り出した足場も見えるが、遠目には歩けそうでも、表面より下が空洞になっている岩棚も多そうだった。
谷道を行くように続いている杭には、目印となるような紐が結ばれている。恐らく、これをたどれば西端の港に行きつけるのだろう。杭の道は比較的安定して見えて、新しい崖崩れの痕跡なども無いようだった。
ひゅう、と谷をくぐり抜けてきた風を、外套が孕む。
「…………」
「蝶はどこかな……?」
「……探してみるか」
短く言葉を交わして歩き出す。露出した岩肌が、かすかに昼の陽光を返している。それなのに、谷全体が薄暗かった。
踏み締めるたびに、乾いた小石がぱらりと転がり、湿気を含んだ空気が頬をかすめていった。
地形は、……ひどく複雑だった。
まるで谷が自ら迷路を刻んだかのように、曲がりくねった岩の裂け目が無数に走っている。
崖の影が伸び、谷底は霧に包まれており光も届かず、また木々もまばら。
道しるべの杭を外れれば、崖沿いの細道はまっすぐに続かず、裂けた岩の暗がりに沿って何度も折れ曲がる。進んでいるつもりでも視界だけが捻じれ、同じような岩壁と裂け目が何度も現れるせいで、方向感覚はじわじわと削られていくようだった。
「……便利なもんだな」
静かに感知魔法を巡らせるルシアンに、ガルドがぼやきにも似た声を落とす。
亀裂の深い場所も、表層には見えない空洞も、崩落の近い足場も、その"目"にかかれば筒抜けもいいところだ。
ルシアンが指し示した場所にガルドが乗って、地面の軋みを確かめる。足元の縁、底の見えない谷間を見下ろしたガルドの声が、ため息とともに漏れた。
「感知に人間はかかってねぇのか」
「うん、いないね」
ガルドに、魔法のことはわからない。だがその感知魔法にかかるのは――、
――魔獣も人も、生きているものだけなのだろうなと、薄々気づいている。
「…………」
霧が、谷間に滞っていた。
ゆっくりと立ち昇るように吹き上げてくる風は、冷たいわけではなく、湿り気を帯びていて生ぬるい。
谷底が見えないのは、底そのものが深い以上に、溜まり込んだ霧が白く曇って輪郭を呑み込んでしまうからだ。
水の匂いはする。けれど谷底をごうごうと流れる気配はなく、付近にある湿地帯からのものか、せいぜい岩の裂け目から染み出した水が細く流れている程度かと思われた。
ガルドが隣へ向き直る。
「底のほうがあったけぇだろうな」
「ふむ、蝶がいるとすればそちらかな」
ガルドを真似て底を覗き込もうとする雇用主を、外套を掴んでゆっくりと引き戻す。
「……落っこちんぞ」
呆れたように言われ、ルシアンも小さく肩をすくめて返事とした。
周囲を一巡りした赤い視線が、下方へと続く岩棚を見つける。くい、と顎でルシアンに合図を送れば、そちらを見たルシアンも一拍を置いて、静かに頷いた。
――【蝶を探して】




