【消えた痕跡】
視線は、資料に落とされたまま。……思考も、資料に落ちる。
現時点で、人の悪意による明確な事件性は見られない。よって、国の中央軍に調査依頼を出すこともできなさそうだ。
加えて冒険者や旅人などは、ある時ふらっといなくなってもおかしくないと思われている人種。社会的にも、どこか"自己責任"の側面もあるのが、我々である。
かといって、蒸発したのだろうと見逃せる人数でもない。
見逃せる人数ではないが、事件として扱うには薄い。災害として扱うには証拠が足りない。魔獣被害として扱うには痕跡がない。
そういった証拠や痕跡があれば、それらを元に中央学術院や魔術院などの専門的な調査機関に動いてもらうこともできただろうが――。
「…………」
「……?」
口を閉ざしてしまったルシアンに、戸惑いを隠せない顔で書記官がガルドを見れば、ぴくりと眉を上げた護衛は、静かに首を振った。
放っておけ、にも見える。任せとけ、にも見える。話しかけても無駄だぞ、にも見えた。
静かに頷く書記官とガルドのそんなやり取りにも気づかず、ルシアンの瞳は資料と地図を行き来している。
……これは、なにも悪意で放置されているわけではない。しかし、構造上どうしても零れていくものだ。
何か見落としが無いかと、資料をもう一度めくる。
だがまばらな情報はどれも決定打に欠けており、その何かを断定できる要素がない。
じ、と資料と地図を見つめるルシアンの後ろ、……ガルドも腕を組んでそれを覗き込んでいた。
こちらはといえば、眉根をきゅっと寄せている。
こいつ、気づいていないのか――そういうような、顔だった。
「……おい、その断崖地帯」
「え?」
「そこが影流れの谷だ」
振り返ったルシアンが、きょと、とガルドを見上げた。
これには、書記官も小さく頷く。
「あっはい、一部の人々の間では、そう呼ばれているようです」
「はぁ……そうでしたか」
書記官に振り返ったルシアンは、資料をぱさりと膝上に置いて、肩を緩め、――にこりと柔和な笑みを浮かべた。
「蝶は舞っているでしょうか」
「っえ、は、蝶、ですか」
「ええ、蝶を見に行くところだったんです」
あくまで優雅に傾げられた淡紫。
蝶……。書記官の動きが止まる。確かに近年、気温が下がる冬季に限り、近場の湿地帯から越冬のために蝶が渡って来ているらしいことを、何かで聞いた。
ガルドがルシアンの後ろから、その膝にある資料をすくいあげる。
「これは持ち出せんのか」
「は……、」
その言葉の意味を即座に理解して、書記官は首がちぎれんばかりに頷いた。
ホール奥の受付嬢も、遠巻きの冒険者たちも、ぴたりと固まっている。
「あっありがとうございます!!ありがとうございます!えと、依頼書、て、手続きをっ」
「いらん、明日の朝すぐ出る」
「いえですが、ッではあの、事後でも大丈夫です!すみません、書類だけでも……お戻り次第ご協力ください……!」
奥の方で、ぱたぱたと走り出していく職員が見える。いらんと言われても、支部からすれば、未解決十年余りの案件に"哭紋"が資料を持って現地へ行くのだ。
資料の持ち出しも、事後報告も、責任区分も報酬処理も、……依頼に落とさなければ全部宙づりになる。
依頼書を起こすために、過去の資料をすべてひっくり返さなければ。以前に調査依頼を出したのは何年前だったか。上級書記官への報告書も作成して、そちらの承認も……やることは、山積みだ。
けれどもそれは今のこのギルドにとって、決して煩わしいことではない。
「では、資料お借りしますね」
立ち上がったルシアンが、裾を丁寧に整えながら柔和に微笑む。
書記官はもう呆然としていて、けれど慌てて立ち上がり、深く一礼をした。
哭紋が動いた。こんな辺境の小さなギルドで。
ふわりとした目礼ののち、無哭と立ち並んで去っていく銀糸の外套を見つめながら、書記官は胸元で組んだ両の手を思わず握りこんだ。
「っ……蝶、せめて飛んでてくれよ……」
そんなこと、……書記官になってから、初めて願ったことだった。
――【消えた痕跡】




