【呼んでもいいか】
――レストロワを、後にして。
ふたりはソリの街への道行を、特に言葉を交わすでもなく歩いていた。
踏み固められた土と下草の混じるの街道には、馬車の轍が浅く残り、ところどころに乾いた泥の割れ目が走っていた。雨が降ればぬかるむだろうこの道も、今は冷えた風に晒されて硬く締まっている。
両脇に続く林はすでに冬支度を始めており、枝先にわずかに残った葉も、低い風に煽られてかさかさと音を立てるばかり。次の街へ続く街道だというのに、交易路であったレストロワから一歩遠ざかるたびに、しずしずと自然の中へと踏み入っていくようでもあった。
魔獣の気配も、野生動物の気配も薄い。時たま交易都市へと向かう馬車や旅人らしきとすれ違うが、それ以外は互いの足音が聞こえてくるだけ。
けれども話す内容がないのではなく、こうして沈黙の中を歩くことすら、どこか心地が良かった。
ソリは、この地方の外れにある、非常に小規模の街である。村というには少々発展している、という具合で、レストロワから西の山を迂回して越えていくルートの途中にある、通過する街。
しかしながら補給に立ち寄る旅人や商隊も多く、小さいながらに無視できない街でもあった。
この時期に山越えをするのであれば、それだけで六日はかかる。ソリから次の街への道程も含めれば、十日ほどか。
ソリでの支度は十分にする必要がありそうだった。
「……お前、冬の野営はしたことあんのか」
道脇の獣道らしい跡に視線をやりながら、ガルドが声だけを隣に向ける。
ルシアンも同じように冷えた林に目をやりつつ、端的に答えた。
「ううん、ないよ。君との旅が初めての旅だからね」
「……そっかよ」
ぶっきらぼうに応じながら、ガルドの目が前を向き直る。
それにしては色々とそつなくこなすな、と思ったが、これは恐らくルシアンの生来の気質によるものなのだろう。
これまで数か月間にわたる旅をしてきて、幾度も野営をこなし、街間の移動はほぼほぼ徒歩。
高級宿だろうと年季の入った宿だろうとえり好みもせず、食事も興味のままになんでも食べる。
供されたものは、とりあえず受け入れてみる、そんな姿勢で。
それなりの暮らしをしてきただろうに、そこらの冒険者よりも過酷な旅にも泣き言ひとつ言わず、全てを楽しんでしまうのは。
「……物好きだなお前」
「ふふ、今さらだね」
ガルドの言葉に、ルシアンがふわりと笑って返せば、ふたりの足取りはまた自然と揃った。
時折吹く風が、冬の訪れを告げるように頬を撫でていく。道端の草も霜をまとい、朝の光を受けて白く煌めいていた。
「……ソリから、北に行くか、西に行くかで支度が変わる」
「西?ソリが西端だと思ってたけど、まだ何かあるのかい?」
「ちっちぇ港がある。こっから……西大陸に行く便が出てる」
ぽつりと、前を向いたままの低い声。
「……北側は?」
「山越えて別の街だ。……が、冬の山越えは覚悟しろよ」
ガルドの視線はまっすぐに道の先を見据えていたが、言葉の端々に滲むのは諦めの気配だった。
ルシアンがそっと視線を送ると、ガルドが苦々しく眉根を寄せる。
「……まぁ、北だろうな」
「この大陸がまだ半分も残ってるもの」
「……西大陸は何年後になるやらだな」
そっぽを向いた護衛の背中にくすぐるような笑い声が重なって、大きなその肩が緩く落ちたように見えた。
冬を目前にした空は暮れるのも早く、街道とはいえ街とは違い灯りもない。
野生の動物も日に日に数を減らし、冬眠の支度をはじめ、植生も静かに眠りについていく。森そのものが、眠るように息をしていた。
かつてベルミードで冬仕様の厚いものにしていた毛布や防水布、天幕は、しっかりと冷えを遮った。
簡単に夕食を済ませ、ゆっくりと暮れていく夜の中、ルシアンが静かに感知魔法を張る。
「……うん、何もいなさそうだね。夜番はどちらからにしようか」
ふむ、とその問いに、ガルドが薪を一つ足した。
夜半過ぎに交代し、交互に仮眠をとる。それは旅の初期からずっと続く夜の形で、ガルドが夜番を任せて仮眠を取れるのも、ルシアンの感知が自分の気配察知と同程度に信頼のおけるものだからだった。
……とはいえ、冬の夜番は寒さとの戦いでもある。自分は最悪寝なくとも大丈夫だが、ルシアンが許さないだろう。
「……なら、先に夜番しとけ。夜中から朝方にかけては冷える。そっちの時間帯は俺が見る」
「ふふ、わかった、ありがとう」
端的に告げれば、素直な笑みだけが返ってきた。
――風のない夜だった。下草は勢いを失い、地面には落ち葉と折れた枝が薄く重なっている。獣の声も聞こえない。
外套に包まれた背は暖かく、膝に乗せた毛布は暖かく……正面の焚き火が、ちらちらと互いの横顔を染める。
くべた枝が、ぱちり、と音を立てて爆ぜた。
その火花をぼんやりと見つめていたガルドの目元が、ほんのわずかに細められる。
街の宿のように守られた安全はない。冷えも風もそのまま当たる。けれど、あまりに夜が静かで、さながら世界にふたりだけのようだった。
片や手帳を開き、片や火の世話をして、そうしてもうじき休むかといったところ。
灰をかいていた枝を何気なく地面に突き立てながら、ガルドがちら、とルシアンを横目で見て、……何事か考えるように、また焚き火に視線を戻した。
ひとつだけ、深く息を吸う音。
「……、……あのよ」
「うん?」
手帳から顔を上げた銀の瞳に、それきり、声は途切れた。急かすでもなく、ルシアンがわずかばかり首を傾げる。
ぱち、とまた火が爆ぜる。
赤い瞳に炎が映ってゆらゆらと滲む。
瞬きが、ひとつ。――ふたつ。
「……呼んでも、いいか……"ルシ"って……」
――それは、この旅の初めに、本名を聞いた際に、……家族にはそう呼ばれていると返ってきた、ルシアンの愛称だった。
焚き火を向いたままの、どこか不愛想にすら聞こえる声に、一瞬だけ銀の瞳が揺れたが。
「……ふふ」
隣から小さく零れた声に、ガルドが視線だけを向ける。
焚き火に照らされた雇用主は目を細め、なんとも楽しげに笑っている。
「家族に呼ばれる名前、他にもあるよ。ルシ坊とか、シアンとか」
「……は、ルシ坊って、あれだろ、手紙の兄貴じゃねぇのか」
「うん、あたり」
ひそひそとした、穏やかな笑い声。どこかほっとしたように肩を緩め、ガルドの眼差しも和らいでいく。
会話の間を埋めるように、また火の根がぱちりと鳴った。
「……ルシがいい」
「……うん、いいよ」
空は冷え、風が一陣過ぎ去っていく。ルシアンのその淡い色の外套がずれぬよう、肩口をそっと指先で整えたガルドの手は……ただ触れたかっただけかもしれなかった。
一拍だけ、指先がそのまま留まる。
ゆっくりと離れる動作にも、未練のようなものが滲む。
元来、言葉にするよりも、行動にする方が得意なタチである。……から、その"名"も、では今すぐ呼べるかと言われれば別の問題。
「ん、……じゃあ、たまに呼ばせろ」
低く気恥ずかしそうに落ちた声にルシアンが黙って頷くと、それに合わせるようにガルドもわずかに顎を引いた。
「君は?」
「んん」
「家族に何て呼ばれていたんだい」
膝にかけた毛布を抱き込みながら、銀の瞳が緩く笑む。ガルドが、眉をあげながら肩をすくめてみせた。
「なんもねぇよ。俺ァ名前そのまんまだ」
「おや、そうなのかい。"がる"は?」
「……そりゃお前、ベルミードのガキのやつだろ」
がし、と頭をかきつつも、掠れた声には笑みが浮かんでいた。ふわりと柔らかな笑い声に、口を曲げて応じる。赤い瞳がそのまま隣の表情を見て、けれど、ふと宙に目をやった。
「……ああ、けど、……ロア……」
「ロア……?」
「……んん……」
言いかけて、眉をしかめ、……ルシアンを一瞥して、ガルドが再び肩をすくめた。――なんでもねぇ、とでもいうかのような仕草。
きょとんとした眼差しがガルドを見るが、そこで深く問い詰めることもない。ひざ掛けの裾を直して、小さく頷く。
それきり、言葉はもう何も交わされなかった。
互いに一度目配せをして、夜番と仮眠にかかる。……そういやぁ、"ルシ"どころか"ルシアン"すら滅多に呼んだことがねぇな、なんて――。
そんなことを思いながら、ガルドが天幕に引っ込んでいく。これには正直、……心当たりもあった。
旅の初期、ちょっと同行に慣れてきて、何だったか幕を張る作業をしていて、布幕を持っていたルシアンを呼ぼうとして――つい出てしまったのだ。『ルシ、幕』と。
それ以降妙に気が張って、結果的に名前自体が出てこなくなっただけで。
(……いいのか……)
家族と同じ呼び方で、呼んでも。
天幕の下、ガルドが毛布を羽織る。耳には、焚き火の横で夜番をするルシアンの、静かな物音がする。
だからガルドも静かに目を閉じて、口の中だけで、その名をひとつだけ呟いた。
――空には寒月がたゆたっていた。雲のない夜をゆっくりと渡っていく白い月は、周りだけが凍ったように澄み、星の光さえ少し遠い。
呼気も白く夜に溶ける。か細い風が通るたびに、林の外縁で残った枯葉がわずかに鳴り、けれどその音もすぐに途切れ、遠く梢の震えだけが残っていた。
月の位置を確認したルシアンが、手帳をたたみ、膝にかけていた毛布を持ち上げた。焚き火の脇に設えられた天幕の中へと入っていけば、厚手の毛布をかぶったガルドが仮眠をとっている。
「ガルド、そろそろ交代だよ」
「ん……」
野営でのガルドの眠りは浅い。こうしてひとつ声をかけただけで、薄く目が開いてすぐさまこちらを見止める。
ごそりと毛布から出てきた手が、指先だけで頬に触れてきた。
「……つめてぇ」
「ふふ、うん。紅茶入れてたから、飲んでね」
「……ああ……」
唸るような返事をしながら大柄な身体が起き上がり、ごきりと首をひとつ鳴らした。
天幕の中で入れ替わるように動けば、ルシアンの冷えた肩が厚手の毛布でぐるりと包まれる。先ほどまでガルドが使っていたのもあり、体温がそっくりそのまま残っていた。
「ゆっくり寝とけ」
「……うん、ありがとう、暖かいね」
ひとつ頷き、ゆっくりと天幕の外へ出ていく大きな影。
ばさりと重たげな外套を羽織る音。からからと、薪を整えるような気配。
ルシアンが寝床に横になれば、そんな音と気配に包まれる。
ぱち、と火が弾け、ザ、と焚き火を突く音。
カップに紅茶を注ぐ音、小さく咳払いをする声。
動きは静かで緩慢で、だからこそ"彼"だとわかる。
ふ、とルシアンが、口元だけで微笑んだ。
久々の野営で、初めての冬の屋外で、こんなにも安心できるのは、やはりひとえにあの護衛があってこそ。
(……いつ呼んでくれるのかな)
そんな密かな楽しみを抱いて、ルシアンは静かに目を閉じた。
焚き火が、夜の静寂に小さく音を立て続ける。
天幕の外、交代したガルドは、しばし無言のまま座っていた。
手にしたカップからは、頼りない湯気が立ちのぼり、それが冷たい夜気と混じり合っていく。
月はすでに天頂を過ぎ、あたりは深い藍に沈んでいた。耳を澄ませば、風もなく、ただ木々が遠くで軋む音だけが響いてくる。
その静けさの中で、焚き火に薪をくべ直しながら、ガルドはちらと天幕の方へ視線を向けた。
小さく沈んだ人影は、先ほどよりもさらに深く毛布に包まれていて、動きはない。
「…………」
――ルシ。
ルシ坊。……シアン。
ふ、と口の端が緩む。いつか聞いてみようか。ルシは、小さい頃から呼ばれていたのか。
ルシ坊は、兄弟の間でだけ呼ばれたりしたのか。
シアンと妙に整った音で呼んできたのは、父ちゃんか、それとも母ちゃんか。
貴族というものは……時として、家族であっても隣人以上に他人行儀であることがある。身内同士で争い、諍い、互いを貶めるような者たちも少なくはない。
だが――、彼の口から発せられる"家族"は、その影は、いつもどこか柔らかい。
(……あいつみたいなんが、何人もいるんじゃねぇだろうな……)
柔和でにこやかな一家を想像しかけて、……けれど同時に自分の興味へ突っ走っていく一家も想像する。
ついで、互いに小難しいことを言い合ってようわからん議論を重ねていく一家も想像して……ガルドが口の端を引いた。"あいつ"は一人で充分だ。
「……ルシ、……」
誰にも届かぬよう、火の爆ぜる音に紛れるほどの、ごく低い呟きを漏らす。
言い慣れない名が喉奥から漏れると同時に、苦笑もひとつ零れる。呼んでみたいと願ったのは自分だったくせに、こんなにも難しいとは。
それでもその名をもう一度だけ、声に出さずに胸の奥で呼んだ。
寒月の下、灯り一つの野営地に、確かな名前とひとつの体温が眠っている。
それがこんなにも、たまらなく愛おしいと――護衛は、ただ静かに焚き火を見つめていた。
――【呼んでもいいか】




