【旅立ちは、夜がほどけるその前に】
ふたりが身支度を整え、歩みを揃えて一階へ降りていけば、カルネティアのロビーには数名の従業員がおり、何を言うでもなく静かに頭を垂れていた。
「いってらっしゃいませ」
――また来てほしい、も、お気をつけて、も、飲み込まれる。それを言うのはおこがましく、また、明確な"別れ"を認めるだけだった。
ルシアンが微笑のままに小さく会釈をして、ガルドと連れ立って宿を出る。まるで、ちょっと散歩にでも行くような足取りで。
人の往来がまだ少ない旅宿通りは、霜も低く冷え切っており、朝の喧騒はまだ遠い。
そこから中央広場へ向かえば、ラスタールのいる顔役官邸があるが――そちらへは向かわず、逆方向、冒険者ギルドのある西部広場のほうへ。
西部旅宿広場は朝早いこともあり、冒険者の数もほとんどない。
互いに顔を見合わせてギルドへ足を踏み入れれば、カウンターには夜間勤務の職員が二人のみ。
もうじき日勤の職員が出勤してくるかという時間で、眠気の滲む表情をしていたが……いずれも、ルシアンとガルドを見て、小さく息を呑んだ。
――長旅用の旅装だ。
それだけが、全てを語る。
誰一人として声を発さぬままに、ふたりが依頼掲示板を覗く。
――討伐、護衛、採取、調査、検証。今日も溢れんばかりに、様々な依頼が並んでいる。本日分の依頼書の更新はまだのようで、けれど待つ義理もなければ、興味も薄い。
ソリの街方面の依頼は、見当たらなかった。
こく、とひとつだけルシアンが頷いて踵を返しつつ、指先でガルドの外套をひらりと揺らす。
行こうか――の合図である。
それを受けたガルドも何も言わず、黙ってその背を追う。
カタ、と立ち上がったカウンターの職員二名が、黙したまま、その後ろ姿に一礼をした。
ギルドの大扉を抜けて薄曇りの空の下へと歩み出せば、冷たい朝の気配が再び肌を撫でた。
ルシアンの歩幅は一定で、緩やかで――それに合わせるように、ガルドの足取りも、無言で寄り添っている。
通りの店先は、木戸も看板もまだ眠ったままだ。夜番を終えた灯りが細く残る場所もあれば、煙突から最初の煙が頼りなく立ちのぼる家もある。人々が起き始めている気配はある。けれど街全体は、まだ微睡みの中にあって。
西部旅宿広場から西門までの道のりは、食べ歩きで何度か歩いたか。けれどこんなにも静かな朝は初めてで、一つだけ取り残された収穫祭の麦飾りが、軒先で北風に揺られていた。
西の街門へとたどり着けば、門の衛兵が一度だけ顔を上げて、けれどふたりを見止めて軽く会釈をしただけ。
夜間は格子が下ろされる各街門。人一人が通れるくらいの扉を開かれ、ふたりがそこをくぐり抜けた。
「お気をつけて」
背にかかる声に、ガルドだけがわずかに顎を引いた。
街道を歩くごとに、レストロワが遠ざかる。街の夜がほどける前に。あの喧騒が耳に届く前に。
ひとつだけ背を撫でるような冷たい風が吹き、それがほんの一瞬ルシアンを、振り返ろうか、という気分にさせた。
(……ふふ)
前を向いたまま、銀の瞳が緩く細まる。
通り過ぎるだけの場所だったはずで、美味しいものを食べ歩ければと思っていただけで。
けれど気づけば人々との交流があり、同業の冒険者たちとの係わりもあり。
自分を無紋にした。
自分たちを、哭紋たらしめた。
――たったそれだけのことで、たったそれだけの街だ。振り返るほどではない。そう頷く。
「楽しい街だったね」
「……ああ」
レストロワについて交わした言葉はこれが最後だったが、きっとまた訪れる、と互いに思った。
きっと――変わらずふたりで訪れるのだ。
「――影流れの谷に、もう蝶は舞っているだろうか」
次の街――ソリの方向を見据えたままに、ルシアンがそう笑った。
穏やかな、けれども確かな"日常"の笑顔だった。
「……んん。もう、飛んでんじゃねぇか」
応じるガルドの声は低く、だが迷いはない。
ただ、背に街を、前に道を。その両方に、同じ温度の思いを抱いているような響きだった。
風が吹く。まだ朝靄の残る街道に、外套の裾がふわりと揺れる。
霜の匂いに満ちた空気の中、踏みしめる土の感触が、次の季節の訪れを予感させる。
一歩、また一歩。
歩幅を揃えて進むふたりの背後で、レストロワの影がゆっくりと朝靄の中に滲んでいく。
旅の続きが始まる。蝶の舞う谷が呼んでいる。
"哭紋"と呼ばれたふたりは、けれど何も背負わぬ顔で、ただ静かに――隣にあった。
――【旅立ちは、夜がほどけるその前に】




