【無哭の実地調査】
ガルドは、早く起きようと、密かに決めていた。
翌朝目を開ければ、空はまだ薄暗く、冬を目前にした未明。窓から入る光もまだ色を持たず、室内の調度品も形だけがぼんやりと浮かんでおり、隅には夜がわずかに残っている。
室内灯はいつの間にか消え、卓の上の水差しと昨夜の酒の名残だけが、灰色の光を拾っていた。
視線を少しだけ下げれば、腕の中で、淡紫の髪がふわりと落ち着いている。
こちらに背を向けており、寝息は穏やか。
暖かい布団の中、すっかりとガルドの胸に身体を預けて、静かな肩が規則的に上下している。
今日からまた街道を往く旅だ。
いつもの通り、どうせ乗合馬車など使わないのだろう。
次の街、ソリまでは、歩きでおおよそ四日ほど。街道宿などもない。つまりは野営だ。
仮眠時の寒さは、天幕の張りようや毛布でどうにかなる。
だが、安全面ではどうしても、魔獣や盗賊の心配がある。
よってルシアンがここまで安心して身体を休められる場は、しばらくない。
――要するに、この朝が、くすぐりや核を揺らす最後のチャンスだった。
(……不純な気持ちで早起きできるもんだな)
しみじみとそう思いながら、抱えるようにしていた腕を、わずかに動かす。
雇用主を起こさないようにする静かな動作。寝起きだというのに、目はばっちりと冴えていた。
寝台に緩く投げ出された手首に、何気なく指先を這わせてみる。細い指が一度だけ、ぴくりと動いた。
その――細い手首は、握りこめば、簡単に制圧できてしまいそうで。
……湧き出る不純極まりない思考を押し戻す。
(……チッ、起きろ……早く……)
それはどこか、目の前の"理性"に縋るようだった。
窓の外、遠くで一度きり車輪の音がして、けれどすぐに遠ざかっていく。石畳をゆく蹄鉄の音は遠慮気味で、けれど動き出している街の気配もあった。
「…………」
たかだか手首の内側であんなに滑らかなことがあるか……?
ガルドの思考回路が妙な方向へ滑り、もう一度、その手首にそっと指先を触れる。指の背が柔らかな血管をなぞる。……骨ばっているわけではない、けれど自分の手のごつさがやけに際立って、…………いや俺は何をしているんだ……と指を離す。
(……結局朝の散歩も、大してしなかったな)
せめて、思考を実務にずらしてみる。
ルシアンが好んでやっていた、早朝の静かな街を歩く散歩。……この街では本当に数えるほどしかしていない。そういえば、カドゥルでもしなかったか。
ふ、とかすかにガルドが笑う。散歩よりも寒さを取った結果だろう。なるほど、寒さはそこまで得意じゃない、な。ベッドにすら潜り込んでくるくらいだもんな。ああ、わかった、覚えた。……そんな笑みだった。
(……、……出立か……)
すり、と淡い髪に、鼻先を埋める。――街を出るのが、名残惜しいと思うなど、初めてのことだった。掛け布団ごとくるみ込んで、薄い身体を引き寄せる。
街に未練など欠片もない。だが、静かな朝の、懐に収まるこの温度に未練がある。
安心して預けられた、このぬくもりに未練がある。
上掛けの外に投げ出されていた手首も、静かに回収する。毛布の中で緩く握り込めば、わずかに身じろぐような動き。
「……ん……」
くすぐったさと、後頭部にすり寄る感覚にルシアンが目を覚ましたようだった。……とはいえ、目は開かない。
「……起きたか」
ほんの少し頭をもたげてガルドが声をかければ、一拍遅れてルシアンが肩越しに振り返るような仕草を見せた。眇められた銀の瞳は、眩しいというより眠気に勝てていないような表情だった。
「んん……早起きだね、ガルド……」
「ん」
そのまま小さく伸びをしてルシアンが窓の外を見れば、陽が昇りかけているところ。灰に近い空が、徐々に赤みを帯びていく。
今朝は早めに朝食を持ってきてもらえるように宿に頼んでおいたため、起きる時間的にはちょうどよさそうか。
空は雲も薄く澄んでいて、外は冷えていそうだ。室内は相変わらず冷えを感じさせなくて、ああ、結局冬用の寝間着買い忘れていたな……と漫然と思い出す。
片手で目元を覆い、……少々微睡む。
「……なぁ」
「うん?」
「揺らすか、くすぐるか、していいか」
「…………」
……それは、結局、どっちも揺れるんだけど、と思いながら……ルシアンが後ろへ顔を向けた。
そう思いながらも笑みが浮かんでしまうのは、こうして確認を取ってくるあたり、非常にこの護衛らしいなと思ってしまったがため。
「……まあ、いいけど」
「……よし」
ぼそりと呟き、ガルドがルシアンの頭の下から腕を引き抜いた。抱えたままの体勢で身をずらし、毛布の中、ぬくもった寝間着に無遠慮に手のひらを添える。
指先が腰骨の両脇からすべり込み、……。
(……こりゃあ……)
……ルシアンの身体が向こうを向いたままなので、後ろから腰というかくびれを掴んでいる体勢になっ……、……いや……くすぐりに集中しよう……。
しかし、そうはいっても防具なしの身体である。寝間着越しといえど、あまり強くくすぐるのもどうなのか。指先が、脇腹から腰骨に沿って緩く動く。
「……ん、ふふ……」
雇用主からは、小さく跳ねる肩と、身をよじる反応が返ってくる。
笑いを堪えるように肩をすぼめたところで、ガルドがさらに腰を引き寄せた。
「っ……」
「動くな、まだ揺らしてねぇ」
そのまま、片方の手のひらで腹ごと抱え込むかのような動き。完全に腕の中にある身体を、ささやかに揺すり上げる。乱暴にではなく、けれど間違いなく核に響くような、ちょっと悪めのやり方であった。
ルシアンが反射的に膝を折り、ガルドの腕を掴む。
「……はっ、……っ……」
くぐもった息が漏れたが、くすぐりの名残か、揺らしの影響か、判別はつかなかった。
ガルドもそこで動きを止め、……ころりとルシアンの身体をこちら側へ転がし、見下ろす。じっと、その表情を。
「は、……な、なに……」
「……今ぐれぇなら、整えなくていいよな、核」
低くそう呟いて、手のひらが腹を撫でた。呟いた口元はわずかに笑んでいて、見ようによってはとても悪い顔をしている。
だがルシアンも、反撃の余地もない。何故なら現在も腹が人質に取られており、布団の中は大変に温かく、魔力核の揺れは確かに調節の必要がない強度であったため。
ぐ……と口をつぐむルシアンに、その胸元に顔を寄せたガルドが、なんとも上機嫌にすん、と鼻を鳴らす。
「…………」
大人しく匂いを嗅がれながら、……確実に、崩れるかどうかの境界線のようなものを掴まれているな、と、ルシアンは思った。確かに、安全に護衛を続けていくのは必要なのかもしれない。必要なのかもしれないが、同時に妙に恥ずかしいのはもう逃れようもない……。
肩を支えられて、ベッドから起き上がる。核は確かに揺らされた。くすぐりはくすぐったい。でも間違いなく、こちらを崩すほどの強さではない。
「……君のその覚えの良さも、どうかと思うよ……」
「あ?」
ルシアンがそんなことをぼやけば、ガルドはがさりと髪をかきあげながら、何が問題だ、とでも言いたげな顔をした。最近たまに、けれどよく見る意地悪な顔だ。ヌマグモの前に連れていかれた時も、こんな顔をしていたのだろうか。
一言物申してやろうかとルシアンの口元に笑みが浮かんだところで、部屋の扉がノックされる。時間的に、宿の従業員が朝食を運んでくる頃合いか。
ふ、とひとつ、にやりを浮かべたガルドが、ベッドから立ちあがって応対に行った。
「……もう……」
小さく文句を零しつつも、ルシアンの声色に困惑や怒気はない。
この朝は恐らく、許可した自分の負けで。
楽しげな気配を纏っているあの背中が、このレストロワでの全てだった。
――【無哭の実地調査】




