【祭日の朝に】
窓の外、白い靄が石畳の街路にかすかに漂い、その向こうで鐘の音が遠く響いた。
短く何度か鳴らされる鐘楼は、収穫祭を告げる合図。
それを皮切りに、通りの露店にひとり、またひとりと人影が増え、布をかけ直す手や、果実のかごを揺らす笑い声が、次第に街に広がっていく。
空気はうっすらと冷え込み、屋台の準備をする人々の息を少しだけ白くした。けれど陽光は柔らかく、秋晴れの空に雲が高い。
露の名残がまだ石畳に残っており、しかしそれもやがて、人の歩みとともに乾いていった。
昨夜のうちに設置されたらしい木製の屋台や旗が、広場や通りの端に整然と並び始めている。
屋台の上には編まれた葡萄の蔓、乾かした麦穂、果物の房、赤い果実の籠などが至るところに吊るされており、――"実りの季節"の象徴のようだった。
宿カルネティアの窓辺――、ルシアンは、静かに佇んでいた。
淡い色のストールを肩に掛け、その非日常の朝にわずかに眼差しを緩める。
ほんの少しだけ窓を開ければ、まだ準備中の露店からは、パンを焼く香りや香辛料の匂い、焚き火の匂いが緩やかに漂う。
収穫祭でも休むことのない交易隊の荷車が軋みを立てて通り、若い職人や子どもたちが走り回っている。
「こら!昼から売るんだぞ!」
叱られながら摘み食いする子どもたちの姿さえ、この朝を彩っていた。
――平穏だ、と、ルシアンは思う。
今ごろ、故郷の領地でも、同じように秋の恵みを祝っているのだろうか、とも……思う。
郷愁の思いは、まだまだないが。
ごそり、と背後のほうでベッドが動いた気配を感じ、肩越しに振り返る。
寝台で上体を起こした護衛が、まだ少し寝ぼけたような目で、眩しそうにしてこちらを見やっていた。
「おはよう、ガルド」
「……はえーな……」
返ってくる声には、朝特有の掠れが混じる。低く、しかしどこか安心を含んだ響き。
赤い瞳は眉根を寄せて頭をかき、ストールの端から、ローテーブルの本、外の秋空へといくつか視線を移したのちに、ゆっくりと寝台から足を下ろした。
昨日は一日を、宿でゆっくりと本を読んだり、装備の手入れをしたりして過ごした。何事もない一日は、数日後の旅立ちが嘘かのように、穏やかで。
緩慢と立ち上がったガルドが、緩く首を回しながら窓辺へ寄る。どこか気だるげな動きは、昨日の休日を、まだわずかに引きずっているような気配。
「……まだ着替えてねぇのか」
「うん?」
「出るんだろ外」
ぼそりと呟きながらルシアンの隣に立ち、彼が見ていた光景をなぞるように目を細めた。
通りには、果実や穀物を吊るした屋台、朝の支度に追われる人々。焚き火の匂いが、ほんのわずかに部屋の中まで……ああ、窓が開いていたのか。
ガルドは小さく息をつくと、視線を滑らせてルシアンの横顔を盗み見た。
いつも通りの、雇用主殿。
安全判定を受けているのだろうが、自分を"そういう目"で見ている男が横にいて、なんでこいつはいつまでも油断を……油断、いや、許容か……?
よくよく見れば銀の瞳はまだかすかに眠たげで、こっちも起きたばかりだろうことが窺える。
「……朝飯は」
「うん」
小さく返事は返ってくるが、ルシアンはその場を動かず、どこか楽しげにその風景を見下ろしていた。
遠くの広場には屋台の準備が整い始め、通りからは炭火や焼き菓子の匂いが漂っている。
どこからか、笛の音のような調子外れの音色が聞こえ、それを追いかけるように子どもの笑い声も混じる。
窓一枚を隔てて、静寂と喧騒、二つの世界がある。
「……、……仮面市、午後からだったか」
する――と……、ルシアンの背後から、胴体に腕が回ってきた。
腹のあたりに緩く視線を落とせば、護衛の両腕が控えめに抱え込んできている。……銀の瞳が瞬きをひとつ、視線はまた外に戻る。
「……うん。住民用の……オークション?もあるって言ってたね」
腕の中の身体が身を預けるように力を抜いてきて、……ガルドがギュッと唇を引く。そうかこれも"いい"のか……そうか……。
抱え込む腕にほんのわずか、力が入る。――ごち、と目の前のつむじに顎を置けば、いた、と小さく反応もあった。
(…………)
――たまんねぇ……は、咄嗟に呑み込もうと思ったが隠しきれなかった。眉間に皺も寄る。危うく舌打ちすら出そうになる。コレしていいなら昨日中ずっとしてたかったなクソが、は……かろうじて呑み込む。いや、思考している時点で呑み込めてはいないか……。
ガルドの額が、ルシアンの耳の辺りにすり、と寄った。
「……午前中……部屋で、……ちっとのんびりしねぇか……」
「ふふ、いいね。午後から出ようか」
――それもいいのか……。ルシアンの背にぴたりと貼りついたまま、ガルドは目を細めた。
動けない。朝の陽に照らされた淡紫の髪、その香り、体温。何ひとつ強くはないのに、全身が縛られるようだった。
抱きしめた腕の中で、ルシアンがゆっくりと息をつくのがわかる。
緊張ではなく、安堵に近い静かな呼吸。それがまた、どうにもこうにも。
鼻先に香りが触れる。香油ではなく、寝間着に染みた体温の香りと、かすかに残る石鹸の匂い。……柔らかい匂いだった。
そこに朝の光が混ざるだけで、なぜこんなにも心を溶かしてくるのか。
ガルドはしばらく黙ったまま、……はたから見ればでかくてごつい男が縋りついているようにすら見える格好で、けれど見ている者なんて目の前の雇用主くらいしかいなくて。
その本人が嫌がる気配もなく、むしろ静かに身を預けたままいることが、今のすべてを肯定してくれているようにすら思えて。
「……やべぇ……」
呟けば、うん?と小さく振り返ってきたような感じがあって、ガルドは小さく首を振った。
朝の匂いと、祭りのざわめきが、窓の向こうで優しく混じっていた。
――【祭日の朝に】




