【ヌマグモとおしおき】
糸が飛ぶより早く、大剣がその脚の一本を叩き斬っていた。
見えてしまえばなんてことはない、ヌマグモは単純な脅威度で言えばCランクほどの魔獣で、濃霧の湿地や沼地を生息地とするために対処が面倒なだけ。
――今や、ただの的である。
ガルドが短く息を吐く。足場の悪さは――ガルドには微々たるものだ。
氷の上なら滑らなければいいだけで、沼地ならば沈む前に次の一歩を運べばいいだけ。岩場は崩れる前に渡る。獣のように野性味のある身体捌きは、直感と経験によるものだった。
足を滑らせぬよう、ぬかるみを踏み抜きながら、相手の正面を避けて円を描く。
霜の残滓が、まだルシアンの足元に落ちている。陽光の筋に浮かぶ彼の姿は、淡く光を透かす幻のようだった。――顔は真顔である。
その雇用主を、視界の端に捉えながら。
(……、……)
がつん、とガルドが、ヌマグモの脚をもう一本削ぐ。頬が緩むのは、もう許してほしい。
でけぇムカデの時はどうだったっけ。
――ああ、そうだ、確か俺の背中を押して、ムカデのほうへ押しやったんだ。
ぶつん、もう一本、脚を。
徐々に、ヌマグモの動きが鈍化していく。逃げようとしないのは、――ガルドがそれを許さないからだった。
魔獣からしてみれば、今のガルドは音の塊だ。気配の塊で、振動の塊だ。濃霧の中でも獲物を感知できるヌマグモに、隠す気のない剥きだしの"牙"は情報量が多すぎた。
その混乱に乗じるように、ガルドがまた一つ、大剣を振り下ろす。……また脚が一本。
……だめだ、もう、目の前の魔獣がいたずらの材料にしか見えない。
剣閃が走る。
氷晶と水飛沫を巻き上げながら、黒藍の殻が裂けた。
甲殻の鈍い抵抗音と共に、頭と思しき箇所に深く一閃が走る。
ヌマグモが仰け反り、ぎちぎちと関節が軋むような悲鳴。支えとなる脚も足らず、右に左によろけてはつまずく。反射的に放たれた糸が、無数の白い線となって周囲に走る。
だがそのほとんどが、どこへ行くすべもなく沼地にべしゃりと飛び散った。
「……は、」
赤い瞳が細まり、唇の端が上がる。蹄脚がさらに二本、崩れた水面に沈む。ルシアンのほうへ散る糸を雑に断ち切りながら、ぞぶりと水音をさせてガルドが間合いを詰める。
すっかり霧が晴れた湿地帯、鈍色に輝く剣先が、黒藍の胴を正確に貫いた。
――ぐしゃり。
粘着質な濁った音が一つ。
重たい胴体が、浅い水場に落ちる音も続く。……波紋が広がり、脚のいくつかがびくりと痙攣し、やがてぬかるみに力なく沈んでいく。
引き抜いた大剣の、……汁やら何やらを払って立ち上がり、ガルドが肩越しに振り返る。
霜の気配に包まれたルシアンが、苦虫を噛み潰したような顔で、けれどもほっと安堵の息を吐いているのが見えた。
「……終わったぞ」
低く告げる声に、返るのは柔らかな頷き。
交わす言葉はなくとも、それだけで十分だった。
「私ッ、蜘蛛はあまり得意ではないんだよ、っガルド」
「ほぉん」
軽々と自分を担ぐガルドに、――ルシアンは困ったように声をかけていた。
声色はまるきり懇願。腿と腰に、緩く両手が回っている。……人質に……、腰を人質に取られている……。
「ほ、報告書の分の観測も済んだし……っ」
「んん」
「が、ガル、……必要ないよッ……?」
ろくな返事も寄越さず、どこかニヤけだしそうなその男は、命の気配が消えたその魔獣へ、……ルシアンをずんずんと運んでいく。
胴にがっちりと腕が回っており、逃げようにも逃げられない。何度かその肩を叩いて説得を試みるが、声は届いているのに届かない。赤い眼差しがちろりと流れてくるだけ。
「待って、あの、ガルド待って、ほんとに得意じゃないんだ……!」
「そうか。まぁ俺も好きではねぇな」
――いつもは飄々としているルシアンが、取り乱しているという異常事態。
晴れた湿地帯、魔獣は討伐し、周囲にもう危険はない。当然、人目もない。ぬかるみに踏み込む音が、水音と混じって柔らかく響くくらいか。
雇用主を抱える手は丁寧で――、……いや嘘だ、容赦がない。ただでさえ長い脚が、ずんずんずかずかと大股でその死骸へ。
「ちょっ……、も……!」
もはや対象を見ることもできず、ルシアンの声がわずかに震えた。
恐らくたどり着いたのであろう蜘蛛の前、ふわりと降ろされ――そうになり、必死にその首にしがみつく。頼むから降ろしてくれるな、と。
「……、っ……!」
「…………」
その必死の訴えに、ガルドの肩もぴくりと震える。
……待てよ、今までルシアンのほうから、こんなにも――、こんなにも密着されたことはあっただろうか、と。
てめぇさっさと遠くに逃げやがって、の気持ちが、小気味いいほどに霧散していく。
目の前には、まだ体液の滴る巨大な蜘蛛の死骸。
無数の感覚器はとっくに光を失い、硬質の脚が湿地に沈みつつある。
常に端然とした微笑みが揺るがぬルシアンが、いまや完全に肩口に埋まり、逃げ場を探すようにガルドにしがみついている。
その様子に、……口元がわずかに吊り上がるのも、やはり今だけは許してほしい……。ガルドが、堪えるように頬をぴくつかせた。
普段は見せぬ、いたずらを仕掛ける獣のような顔。完璧な"主人"が、たかだか伏した蜘蛛一匹でこの有様。
こんなもん――楽しまないわけにはいかなかった……。
「……怖ぇなぁ?」
「きみっ、君ねぇ……!」
低く喉の奥で笑いながら、ガルドはさらに一歩、わざと死骸のほうへ足を進める。
泥がぬるりと音を立て、ルシアンの腕がことさらに強く首に回される。
その力の入れ方が、普段の穏やかさとはまるで違う。
「おい、そんなしがみつかれたら前見えねぇ」
言葉とは裏腹に、抱え直す腕は少しも離れない。軽く腰を引き寄せ、片腕でしっかりと支える。
その重みが肌に伝わるたび、理性の奥がわずかに軋む。
いじわるをしているのは俺なのに、逃げ道も俺なのか、と。
「……ほら見ろ、動かねぇぞ」
「っ……見ないよ……!」
「なんだ、魔獣の観察はいいのかよ」
ずるい声でそう言いながら、蜘蛛の胴を足先で小突く。死骸がわずかに沈み、ごぼり、と水泡がひとつ弾けて。
ルシアンの肩がびくりと震え、……指先がさらに服を掴んだ。
「……は、マジでダメなやつか」
赤い瞳が愉しげに細まり、頬がやんわりと緩む。けれど、その腕の中に震え混じりの呼吸を聞いた瞬間、さすがに悪戯を続ける気にはなれなくなった。
「わかった。……戻るか」
「…………」
声はまだ笑いを含んでいたが、力加減は明らかに優しくなる。
蜘蛛の影から離れ、少し乾いた足場へ戻ると、抱き上げたままのルシアンの背をそっと撫でた。
「……も、う、離れたかい?」
「ああ……ったく、蜘蛛の大群だの出たらどうすんだ」
「そんなもの逃げるよ……」
「逃げんのか……」
くつりとぼやきながらも、その手は離れない。
腕の中で落ち着きを取り戻していく気配に、ガルドはわずかに視線を落とし、喉の奥で小さく息を漏らした。
「……、困ったもんだな」
そう呟く声は、もう誰にも届かないほど静かだった。
その、帰りの街道で――、
――ルシアンは、にわかに目の前の背中を睨みつけていた。
……いや、睨むというには少々迫力が足りない気もするが、それでも普段であれば、護衛には絶対に向けない視線。
でも心のどこかで、そんないたずらをしてきた彼を許してしまいそうな自分もいて、またそれにも腹が立つ。
「……ガルド、来なさい」
口をついて出た声音は、怒りを含みたかったが、うまくできなかった。
足を止め振り返った男が、片眉を上げながらそばへ寄ってくる。――なんだ、まだやるのか?といったようなしたり顔だ。
つい、とルシアンが足元を指させば、そこへ一旦視線を落とした後、ガルドが鼻を鳴らして片膝をついた。――にやり、と笑う表情。
「んだよ」
身長の差でいつもは届かない距離にその顔が来て、まだわずかに口を結んでいたルシアンが歩み寄る。小さな抗議の表情。遺憾の意。
ガルドの両頬を手で包み、ぐっ――、と鼻先が触れる距離まで、顔を寄せた。
「ッ――」
「…………」
……雇用主、半ば驚いたような赤い瞳を、ただ見つめる。いや、睨む。
ガルドの両手が宙を泳ぐ。肩か、背中か、腰か、腕か、ルシアンに触れてもよいのか迷う手のひら。距離の意味を図り損ねないようにしろという理性と、なんだかもうよくわからない本能。
……そのまま、しばし見つめた後、ルシアンは急に身を引いて、街への道を歩き出した。
「さっきの仕返しだよ」
ふん、とひとつ鼻を鳴らし、その言葉だけを、ガルドの隣に置き去る。
「…………」
(……やられた……)
調子に乗った護衛、道に片膝をついたまま、片手で額を覆う。――肩越し、指の隙間からのぞく道の先、さっさと歩き去っていく淡紫の髪が、陽を受けて揺れている。
これまでの、無自覚の中での"こっちが勝手に勘違いしそう"なあれやこれやが、……一気に霞んだ。
散々、「わかってやってんのか」と思ってきた。
散々、「もうわかってやっててくれ」と思ってきた。
――だが、今の距離は、もう絶対わかってやってる……いや、これも所詮は希望的観測でしかないが。
「……こええ……」
……ぐらりと、ガルドが立ち上がる。耳が熱い。眩暈がする。頬がにやける。
おい調子に乗ったちょっと前の俺。てめぇのせいだぞ、おい俺。……許すぞ俺……。
さっきまで霧の湿地を踏みしめていたはずの足元が、今やすっかり浮いている。
それでもガルドは、ため息すらつけず、踵を返して歩き出した。帰り道をさくさくと先行していく護衛対象に、追いつけるように。
乾いた風が霧の湿り気を吹き払い、街道を抜けていく。
先を行くルシアンの淡い外套がひるがえり、柔らかな髪がまた揺れる。
「――おい、悪かった」
その後ろ姿に向けて低く投げられた声は、謝罪だったが、どこか満たされたようでもあった。まるきり、――"参った"、という声色。
ちら、と肩越しに振り返った銀の瞳に、もう拗ねたような色はない。
初めから、本気で怒ってなどいないのかもしれなかった。
「……君の苦手な魔獣を教えてくれれば許そうかな」
「ああ?……あー……」
ガルドが唸りながら、顎に手を添える。……苦手、苦手か。考えながらも、足取りを進めて、ゆっくりと肩を並べた。
苦手な――、と言われても、我慢できないほどのものはない。ああいう蟲は気持ち悪いが、斬ってしまえば皆同じ。
レイスやスケルトンも存在としては気色悪いが、対峙できないかと言われればそれほどでもない。
……いかんせん、魔獣はただ討伐する対象であって、そこまで興味がない……。
「まぁ……なんか、見た目弱そうで良心が痛むやつだな」
「ええ?……それで仕返ししたら、私が悪者じゃないか」
「まだ仕返しすんのかよ……」
ぼやくガルドに、どこか笑みが滲んでいた。ルシアンの肩が揺れて、柔らかく笑う声がする。
本当に仕返しをするつもりも、恐らくないのだろう。けれど、今さらながらそんな軽口に付き合える自分でいることが、やけに誇らしかった。
「……あとはお前んとこのサギだな。首から名前の札かけとかねぇと間違って斬るぞ」
「それは……困るね」
交わされるじゃれあいの中、傾き始めた秋の陽光が、レストロワの街影を遠目に照らしている。
こうして並んで帰る場所が、今日も喧騒に紛れてふたりを待っていた。
――【ヌマグモとおしおき】




