【湿地帯には雹が降る】
ぬかるんだ土に生える半水生の植物。
革靴は数センチ、水に浸っている。
ところどころに柔らかな土が露出しているが、そこに魔獣の足跡らしき痕跡はない。
ならば飛ぶか、水上を滑走するすべを持つか。
――ルシアンは、ガルドが消えた方向へ注意を向けながら、視覚から得られる情報を整理していた。
霧の向こうでは枝を折る音や足音が鳴り、陽動をするガルドのわざとらしい気配がする。
魔獣の注意が散らぬよう、こちらは静かに行動する。泥地を擦るように片足をわずかに下げれば、――くんっ、と一瞬だけ、足をとられる感覚があった。
「……?」
ぬかるんだか、と足元を見るが、異変はない。
有機性の水質なのか、泡が――いや、白い繊維状の、……というか、どこか粘着質な、これは――。
「糸……かな」
ぽそりと呟くように落ちたルシアンの声は、どこにも行かずに口元で消えた。
……個人的に、一番考えたくなかった想定が、目の前にある気がする。
――であれば、とても私的な感情ではあるが、すごく、嫌だ……。
「……、……ガルド」
囁くように投げたルシアンの声は、かろうじて冷静だった。大きく呼びかけて、魔獣が急にこちらに標的を変えてきたらもう、もう、……無理である。全然まったく得策ではない。
護衛は来ない。
よもや聞こえなかっただろうかとわずかに不安になったが、……よほど耳がいいのか、しばしののちに大きな影は、じり、と警戒を続けながら霧の向こうから戻ってきてくれた。
「あいつ隠れやがった。……なんだ」
「……本でしか読んだことがないんだけれど、ヌマグモという魔獣がいる……?」
「……ああ、……」
眼差しは周囲に向けたままに、ガルドが短く頷く。
――ヌマグモ。
半水棲の、巨大な蜘蛛型の魔獣だ。
体高約二メートル弱。……ふいに出くわしたら失神するかも、という理由で、不本意ながらルシアンの記憶に残っていた。
水面を滑走するための撥水性の脚裏と蹄状の硬質爪をもち、目は悪く、脚裏からの振動と音で獲物を捉え、狩りをする。……前脚の間から飛ばす粘着性の糸で、絡めとるのだ。
「……そいつだってのか」
「可能性だけれど、……でも、ええと、私がこの霧を取り払ったら、ガルドはそれが一番早いよね?」
「あ?……ああ、そりゃあな」
ガルドの声は低く、しかし即答だった。霧がなければ、自分の目と剣で斬れる。それが護衛としても、最も確実な状況だ。
「……つったってお前……なんだ、風でも起こすのか」
「ううん、私は風の属性は適性が無くて」
足下の蜘蛛糸らしきを眺めながら言うルシアンに、ガルドが小さく顎を引いた。――風は適性がねぇのか……という小さな発見はさておき、妙に、……妙に切羽詰まったような雇用主に眉をひそめる。
いつもであれば、観察だの見る価値だの、なんだかんだと楽しんでいるようなものなのに。
そわ、と銀の瞳が周囲を見やったのは、また感知魔法に反応があったのか。滑る視線の速さから、ヌマグモもなかなかの速さで移動しているようだった。
「……じゃあ、まぁ、とにかく晴らしてくれ」
「うん」
言うや否や、指先が空を撫でるように払われた。
霧がさらに白く濃くなり、一瞬、空気がキン――と冷える。途端、霧がきらきらと細かな……氷の粒となり、目に見えるほどの結晶となって、雹のようにバタバタと地面に落ち始めた。
一斉に地面を染め始めたそれは、まるで湿地帯全体に、局地的な雪でも降ったかのような光景。
霧の上部からゆっくりと、それらが地面に落ちていく。さらさらと晴れ、泥地で霜となり、水に触れて溶け、またその上に氷晶が。
(……、……なんでもありだな……)
よほど広範囲に魔力を走らせたのか、さきほどまで霧の向こうに隠れていた陽光すら差し込む。
きらきらと雹が落ち、地面は霜で覆われ、どうにも幻想的で抗いがたい静寂の中、――それはいた。
「――いた、ガルド」
「ああ」
泥と水飛沫をものともしない脚──節ごとに鎧のように硬質な殻を持ち、先端はまるで打撃に特化した武器のような蹄型。
体躯は確かに、依頼書の情報通り、二メートルはあろうか。
表面はぬめりのある黒藍色、光を反射してどこか不気味な鈍さを帯びていた。
その体を支える八本の脚が、――突然の冷気に驚いたのか、水面に根を張る異形の植物のように、一切の音もなく水上に止まっている。
その多脚の中心にある胴体……そこに、赤く光る"感覚器"があった。
無数の単眼。だがそのどれもが生気を宿さぬようで、音だけに全神経を研ぎ澄ませているようにも見えた。
――残念ながら、間違いなく、ヌマグモである。
ぴん、と張り詰めた空気を裂くように、ガルドが一歩、踏み出す。
靴が水を踏む音に、すぐさま八脚の異形がこちらへ頭を向ける。蹄の先で水を弾き、低く、湿った軋み音が連続する。
――ぐ、ぐぎ、ぐう……。
音は、関節が何かが軋んだような、ぎこちない音だった。
脚をまとめて胴をわずかに沈み込ませているのは、糸を飛ばす予備動作か、飛びかかる前の助走か。
大剣を引き抜いたガルドに、背後の魔術師から防御魔法が飛んでくる。
――いつもは腕やら肩に触ってくるのに、と思いながらも、……まぁそういうこともあるかと、ガルドも特に気にしない。
「下がってろ」
「下がってる。だから早くね」
「……は……?」
思わずガルドが一瞬だけルシアンを振り返れば、雇用主殿はとっくに後方へ避難し、両手を胸の前に差し出して、――結構です、という顔と仕草をしていた。
「……、お?」
――『気持ち悪いのはちょっとね……足も多い……』
いつかの街道、ムカデ型の魔獣を前にしたルシアンのセリフが、ガルドの脳裏に蘇る。
あの野郎、とガルドの口角が緩く上がった。そうかなるほどこえぇのか。そうだな、そういえばでけぇ蟲がダメだったな、お前は、……と。
……ならば、ガルドがすることはただ一つ。
手っ取り早くこの魔獣を屠り、――是非とも素材の剥ぎ取りでもさせてやろうと、したりと笑うことだった。
――【湿地帯には雹が降る】




