【濃霧の中】
翌朝、早めに宿を出たふたりは、レストロワ北側の街門をくぐり抜けていた。
レストロワは交易路が交差する要衝で、この北門からは、大陸北部の街への山越え街道、鉱山や石切り場への街道、周辺村落の生活道へと続く街道など、幾重にも枝分かれした道が続いている。
この街道の分岐点を、北東方面へ。その先の農村を越えれば、依頼書にあった湿地帯である。
レストロワ近郊は秋晴れ。天気はいいが、まだ朝早く、空気が冷たい。
目的の湿地帯は、昨日時点では雨模様だったようで――今日はどうだろうね、などと言葉を交わしながら歩いていたルシアンが、道脇に少し小高い丘を見つけて、ふとそちらを指さした。
「ガルド、少しだけあの丘、いいかい?」
「あ?……ああ」
怪訝な顔をして、けれどガルドも小さく頷く。街道を逸れたルシアンが足早に丘を登っていくのを、……やや警戒しながら、あとに続いた。
丘の上は見晴らしがよく、草地を渡って来た晩秋の風が一陣だけ通っていく。
一体何事かとガルドが視線をやる中で、わずかに顔を上げたルシアンがゆるりと動きを止める。
――視線は、はるか遠くの空に。ただ一点を、逸らされることなく。
柔らかな淡紫の髪が、風を受ける。外套が秋を孕んで、銀糸の刺繍が陽光に揺れる。
「……?」
ガルドの視線も、黙したままに同じ彼方へ向けられた。赤い眼差しが空を這う。……何かいるのか。何かを感じたのか。
一瞬だけ護衛の意識が警戒の色を見せたが、ルシアンの視線の先から、鳥が一羽、近づいてきているのが見えた。
……それは、一羽の黒い鳥だった。
(……サギ、か……?)
眉をしかめてガルドが見やる。野生でいるものよりも大型で体高があり、翼の渡りはそこらの魔獣にも引けを取らない。それがその翼を悠々と広げ、細い首をもたげて、ルシアンの前に降りたった。
黒サギ――は、鳴くでも暴れるでもなく、身動きひとつ取らずに、佇んでいる。
ルシアンが、肩にかけた革鞄に手を入れながら、ふと後ろに立っていたガルドに目を向けた。
とてつもなく怪訝そうなその顔を見て、……思わず笑う。
「あっ、ふふっ、ごめんね、兄への手紙を届けてもらおうかと思って。うちの人間は、この子に頼むんだ」
「……、サギにか……?」
「そうだよ。うちの家紋にある鳥なんだ」
言われてガルドがよく見れば、そのサギの首元には小さなポーチがついていた。
兄に宛てた手紙を取り出したルシアンが、そこに手紙を託す。
「本物のサギじゃないよ。魔法生物でね、魔力で動くんだ」
補足のように言いながら、ルシアンがゆらりと手をかざせば、再び巨大なその両翼が広げられた。
大鳥の軽やかな身体が、ばさり、空をひと掻き。高く上空へ飛び上がる頃には、その気配が希薄になっていく。
やがてその残滓だけが、遠くの空へと消えていった。
「…………」
「……あれが街中に来たら騒ぎだから、兄はギルド経由で手紙をくれたんだろうね」
空の彼方を見送りながら、ルシアンがぽつりと付け足した。だがすぐに護衛を振り返り、用が済んだように一つ頷く。
「さて、行こうか」
「……ん」
頷きも短く、返事も短く、それっきり。
しかしガルドの足は、自然とルシアンの隣へ戻っていた。
風に煽られる外套の裾。淡く揺れる髪。
黒い翼が空へ溶けていくのを見ていたのは、恐らくほんの数秒のことだった。
けれど当然のことのように、"置いていかれ"なかった。……隠されなかった。
またひとつ、彼を知る。
――丘を下る。
「……魔法生物に手紙預けるなんざ、貴族みてぇだなお前」
「そうかい?」
すっとぼけたような表情に、ガルドが小さく肩をすくめる。再び踏みしめた街道を、重さのない風が吹いていく。
黒い鳥が去っていった空を一瞥して、ガルドはかすかに頬を緩めていた。
霧の帳は、地面から空へと白く立ち上るように広がっていた。
草を踏む足音すらも包まれ、数歩先も怪しい視界の中――ふたりはぴたりと足を止める。
依頼のあった北東農村地帯は、天気もいいのに濃霧に包まれていた。
だがこれに関しては、山間に囲まれた土地や風の向き、湿地帯の規模等を考えれば不思議はない。
ふむ、とルシアンが口元に手を当てる。
濃霧の中、姿の見えない魔獣。音に反応するというが、……ひとまずは感知魔法か。
真横を陣取る護衛に視線を向ければ、意図が通じたのか小さく頷きが返ってきた。
――霧の中に、薄く魔力を張る。
「…………」
「……、うん、いるね、左後方」
囁くように告げれば、動きを荒立てるでもなく、ガルドが緩慢とそちらを向いた。ルシアンと違い、こちらは単純な気配察知。……まだ遠いが、いるにはいる。だが、速かった。
「なんだ、なんか……飛ん……滑ってんのか?」
細い気配の糸をたどるように、赤い瞳が霧の中を探る。黒馬の疾駆には遠く及ばないものの、この濃霧の中を移動するには、それはあまりにも。
であれば、やはり視界は使っていないはず。音か、体温か、振動か、ともかく感覚頼りの魔獣か。
これでは、ルシアンの感知魔法で居場所がわかったとしても分が悪い。
「……向こうで物音立ててみっか」
しばし無言で周囲を見渡していたガルドが、そう呟いてわずかに鼻を鳴らす。
片手は背負いの大剣の柄に添えられていて、けれどまだ抜かれてはいない。その立ち姿には、どこか"やむなし"といった緊張感が満ちている。
音を立てれば誘き出せるかもしれない。されどルシアンのそばで物音を立てれば魔獣はこちらへ来る。
ならば離れた場所で自分が囮になればいい。だが離れるということは、視界不良の濃霧の中にルシアンを孤立させるということだ。
――あからさまに苛立ちの浮かんだ護衛に、ルシアンが眉根を寄せて小さく笑った。さながら、"仕方ないでしょう"、と宥めるような笑顔。
霧の流れに揺らぎはない――静かすぎて気配も薄い。それが逆に、静寂のままにじっと見られている気がしていた。
ガルドが一歩、音を立てぬよう足を踏み出す。湿地の苔がぐしりと湿った音を吸収し、霧の中に沈んだ。
……ぐう、……という、低い、くぐもった"音"。
「……鳴いたか?」
「声かな……?」
互いに声が届いたのはそれが最後で、やがて霧の向こうに消えたガルドの、白々しい足音だけが湿地帯に響く。
感知の波に、ガルドをぐるりと回りこむ気配を感じて、ルシアンが視線を巡らせる。
軋み、水を切るような音が、かすかに聞こえていた。
――【濃霧の中】




