【揺らがぬ腕】
沈黙は、数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれなかった。
壁にかけられた魔法灯が、扉の金具をぼんやりと照らしていた。
いつの間にか、ルシアンの手が、腰に回るガルドの腕に触れている。――"どこにもいかない"を、伝えるかのような、手のひらだった。
「…………」
「……私ね、……攻撃魔法は、使えるんだけど、使わないんだ」
ぽつりと落ちた語り口は、そんなところだった。
背に押し当てられたガルドの頭が、一つ、頷く。
「どうにも威力が高すぎてね、あまり好きじゃない。我が家の誇りだからね、嫌いなわけではないんだけれど。……それよりも、防御魔法とか、回復魔法のほうが好き」
「……ああ」
誰にも気づかれないほど、ほんのかすかに、ルシアンの呼吸が震えた。窓を、旅宿通りを渡る風が撫でていく。窓枠が鳴るほどの物音はせず、沈黙を保つために必要な、小さな相槌のようだった。
その中で、こく、こく、と繰り返される鼓動は、……どちらのものかわからない。
「……兄たちも、父も、総じて攻撃魔法の名手だよ。母はそこまでじゃないけれど、かわりにすごく魔法の精度が高い。私の高精度制御型の魔術は、母譲りだね」
「……ん」
呼吸で、ソファが軋んだ気がした。
静かに――手繰るように、当たり障りのないような情報が、開示されていく。
だが、ガルドには、わかっていた。
"逃げ"ではない。"誤魔化し"でもない。これは、――"地ならし"だ。
一度だけきつく目をつぶって、ゆっくりと息を吐き、……そうっと問いかける。
「……ルシアンは」
「うん」
「……"ルシアン"は、お前の名前か」
――どうでもいいことのようで、これだけはどうにも譲れなかった問い。
それで隣にいるのであれば、それでも構わないと思っていた、はずだった。けれど。
「……うん、そうだよ」
息が詰まるような中で返ってきた、ただそれだけで、じわりと安堵すら広がる。
目の前の存在に、急に輪郭が浮いて出る。
「ルシアンは、私の本当の名前」
「……ん」
……沈黙が、ひとしずく。
「……ルシアン・レオ・ド・ノルェ」
「……、……ノル、ェ……」
――ガルドが、深く……、……深く、息を吐いた。
ことの全てに、合点がいった。
"ノルェ"。……それは、この国の侯爵家の家名だった。
その名を知らぬ者はなく、三十年前の魔獣大戦において、戦局を大きく動かしたその家。
領民を深く愛し、しかし「尊敬、信頼」だけではなく、……「災厄、畏怖」すらも背負う家。
そして、魔術師ではなく、さらにその高位であるらしい、"魔導士"の一家。
「ノルェ家を怒らせれば王都が一晩で焦土に」――などという……バカバカしくも、一笑に付せない噂すら、ある。
その侯爵家の三男坊が、何者でもない魔術師として。
……無紋として、旅をしている。
「……他に……誰が、知ってんだ」
「――家族と、君だけだよ」
「……、……ふざけた話だな」
ガルドの呟きは、吐き捨てではなかった。
ただ、呆れと、驚きと……許された者としての震えが混ざっていた。
それきり言葉の先を続けられず、背中に額を預けたまま黙り込む。
――ノルェ。ノルェ侯爵家。
冒険者風情が、何をどうしても係わりようのない高位貴族だ。
王家の信頼も厚く――、
(……。……お前の父ちゃん"王室参与"じゃねぇか……)
――信頼が厚いとかの問題じゃねぇな。自嘲気味に、ガルドが口の端を上げる。
ああ、そりゃあ隠すな。そんなんバレちゃあ、動きにくいったらねぇ。自由気ままな物見遊山に、家の名前は重すぎたってわけだ。
ガルドは魔力がわからない。けれど、わかることもいくつかある。ノルェ家は魔術の名門で、魔導士の……。
「……お前も魔導士か」
ぽつり、最後の質問のように、それが落ちる。
ルシアンに慌てる素振りはなく、わずかに頷くような気配があった。
「うん……。……職業詐称だって、ギルドに叱られるかな……?」
「ああ?」
ひた、とガルドの頭が持ち上がったのは、もはや当然のことかもしれなかった。そういう話じゃなかった気もするが、でももう、いや、……そこか?お前の気になるところ、そこか?護衛の顔に浮かぶのは、狼狽を通り越して、笑みだ。
「……はっ、……魔術師が魔導士名乗ってんじゃねぇなら、いいんじゃねぇか」
答えたガルドの声色は、もう笑みを隠そうともしていなかった。
ああ、そうだな、もうわかった、十分だ。
その名を聞いて、今さら踏み出した脚が止まるわけでもない。想定していた背景よりも、ちっとばかしデカかっただけ。
何を変えることもない。今まで通り護衛して、食いもんを押し付けられて、綺麗な景色と、不思議なもんを見せりゃあいいんだろう。
――尽きることのないその好奇心に、付き合えばいいんだろう。
(そりゃあ……"ノルェ"だなんだ、言ってる暇もねぇな)
……ゆっくりと、抱き寄せる腕に力が入る。
自分だけが知っている名、自分だけが聞いた秘密――それがどれほどの信頼か。
「ノルェだろうがなんだろうが……お前は、お前だな」
「……うん」
本当の名前を手に入れた。"ルシアン"は、きちんとこいつだった。……だからと言って、すぐに呼べるほど器用でもないが。
けれど、この腕の中にいるのが、誰よりも大切なものであることは、揺るぎない。
「……、預かった」
掠れた声でそう告げて、そっと肩口に唇を寄せる。
口づけではない。ただ、触れた気配だけを残すように。
胸中に広がる安堵を、静かに抱きしめるように。
しばしの静寂の末、ふ、と改めて小さく息を吐き、ガルドがルシアンの肩から顔を上げた。
赤い眼差しは、もう揺れていない。肩越しに振り返るルシアンと、……久々に目が合う。
「……、怒ってないのかい?」
「……なんでだ。寝るぞ」
ぶっきらぼう護衛、短くそう返す。そう返しながら、ルシアンを抱えたままに立ち上がった。
ふわりと視点が持ち上がり、一瞬だけ声もなく驚いたルシアンだったが、……口元は変わらず笑みを保っている。
そのまま身じろぎひとつせず、運ばれる。――視線は護衛に。目は合うが、いつものようにすぐ逸れる。
「あ、でもね、ノルェといっても、すごいのは家と父で、私にはなにもないよ」
「……そっかよ」
「兄たちは家を継いでいるけど、私は自由にさせてもらっていて……ふふ、放蕩息子だね」
「ふん、いいんじゃねぇか」
ガルドがかすかに笑いながら、ルシアンごとまとめて自分のベッドへ潜り込んだ。
動きは雑で、上掛け布団を引っ掴んで、なのにやっぱりどこか丁寧で。
一緒にベッドに入って、なにか、という気はない。ただ、今は離れてはダメな気がしていた。
向かい合うこともしない。ただ腕の中に、ルシアンの背を預かる。それだけでいい。
くす、と――向こうに顔を向けたまま、ルシアンの肩が小さく揺れる。
なんだ笑ってやがるな、と少し頭をもたげて、けれどガルドもすぐに枕に身を預ける。
「なにがおかしい」
「ううん。……、ありがとう、ガルド」
「……ああ」
なにが、とか、なにに、とか、そういう言葉は今は無粋だ。
秋の中、夜が明けるまで。ゆっくりと冷えていく室内で。
ガルドの呼吸が、ルシアンの耳のすぐ後ろで穏やかに落ちる。
腕の重みも、自分より高い体温も、すべてが現実だ。
(……私は、私……)
いつもの無骨さで放られた言葉が、身体の真ん中に深く突き刺さる。
家を重荷に感じたことはない。しがらみも何もない。
でも、何もなかったから旅に出たのだ。
どこかが空っぽだったから、探しに来たのだ。
(…………)
ルシアンは何も言わず、静かに背中の体温に、身体を預けた。
いつか自分だけの何かが手に入ればいいと、そう思っていた。だから景色に、記憶に、思い出に、それを見出した。
あてのない自由な物見遊山を、この人生の唯一にしたくて。
「……おやすみ、ガルド」
護衛にそう声をかければ、一拍遅れて緩く抱き寄せられた。起きていた、というよりは、意識の浅い部分で反応しただけだったのかもしれない。
けれどその腕から、伝わるものがある。
名を明かし、許され、受け入れられた。
……受け入れられた。
静かな夜が流れていく。
濃霧に沈む朝が来る前に、重ねたぬくもりが、互いの灯となるように。
ただ一つ、心臓の音だけが、夜の帳の中にずっと響いていた。
――【揺らがぬ腕】




