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ルシアンの物見遊山 II【毎日更新/21:20】  作者: フジイさんち
霧の向こう側

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【揺らがぬ腕】


沈黙は、数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれなかった。



壁にかけられた魔法灯が、扉の金具をぼんやりと照らしていた。


いつの間にか、ルシアンの手が、腰に回るガルドの腕に触れている。――"どこにもいかない"を、伝えるかのような、手のひらだった。



「…………」

「……私ね、……攻撃魔法は、使えるんだけど、使わないんだ」



ぽつりと落ちた語り口は、そんなところだった。

背に押し当てられたガルドの頭が、一つ、頷く。


「どうにも威力が高すぎてね、あまり好きじゃない。我が家の誇りだからね、嫌いなわけではないんだけれど。……それよりも、防御魔法とか、回復魔法のほうが好き」

「……ああ」


誰にも気づかれないほど、ほんのかすかに、ルシアンの呼吸が震えた。窓を、旅宿通りを渡る風が撫でていく。窓枠が鳴るほどの物音はせず、沈黙を保つために必要な、小さな相槌のようだった。


その中で、こく、こく、と繰り返される鼓動は、……どちらのものかわからない。


「……兄たちも、父も、総じて攻撃魔法の名手だよ。母はそこまでじゃないけれど、かわりにすごく魔法の精度が高い。私の高精度制御型の魔術は、母譲りだね」

「……ん」



呼吸で、ソファが軋んだ気がした。

静かに――手繰るように、当たり障りのないような情報が、開示されていく。


だが、ガルドには、わかっていた。

"逃げ"ではない。"誤魔化し"でもない。これは、――"地ならし"だ。


一度だけきつく目をつぶって、ゆっくりと息を吐き、……そうっと問いかける。


「……ルシアンは」

「うん」

「……"ルシアン"は、お前の名前か」



――どうでもいいことのようで、これだけはどうにも譲れなかった問い。


それで隣にいるのであれば、それでも構わないと思っていた、はずだった。けれど。



「……うん、そうだよ」



息が詰まるような中で返ってきた、ただそれだけで、じわりと安堵すら広がる。

目の前の存在に、急に輪郭が浮いて出る。


「ルシアンは、私の本当の名前」

「……ん」


……沈黙が、ひとしずく。



「……ルシアン・レオ・ド・ノルェ」

「……、……ノル、ェ……」




――ガルドが、深く……、……深く、息を吐いた。



ことの全てに、合点がいった。



"ノルェ"。……それは、この国の侯爵家の家名だった。


その名を知らぬ者はなく、三十年前の魔獣大戦において、戦局を大きく動かしたその家。

領民を深く愛し、しかし「尊敬、信頼」だけではなく、……「災厄、畏怖」すらも背負う家。


そして、魔術師ではなく、さらにその高位であるらしい、"魔導士"の一家。

「ノルェ家を怒らせれば王都が一晩で焦土に」――などという……バカバカしくも、一笑に付せない噂すら、ある。


その侯爵家の三男坊が、何者でもない魔術師として。


……無紋として、旅をしている。



「……他に……誰が、知ってんだ」

「――家族と、君だけだよ」

「……、……ふざけた話だな」


ガルドの呟きは、吐き捨てではなかった。

ただ、呆れと、驚きと……許された者としての震えが混ざっていた。

それきり言葉の先を続けられず、背中に額を預けたまま黙り込む。



――ノルェ。ノルェ侯爵家。

冒険者風情が、何をどうしても係わりようのない高位貴族だ。

王家の信頼も厚く――、


(……。……お前の父ちゃん"王室参与"じゃねぇか……)


――信頼が厚いとかの問題じゃねぇな。自嘲気味に、ガルドが口の端を上げる。

ああ、そりゃあ隠すな。そんなんバレちゃあ、動きにくいったらねぇ。自由気ままな物見遊山に、家の名前は重すぎたってわけだ。

ガルドは魔力がわからない。けれど、わかることもいくつかある。ノルェ家は魔術の名門で、魔導士の……。



「……お前も魔導士か」


ぽつり、最後の質問のように、それが落ちる。

ルシアンに慌てる素振りはなく、わずかに頷くような気配があった。


「うん……。……職業詐称だって、ギルドに叱られるかな……?」

「ああ?」


ひた、とガルドの頭が持ち上がったのは、もはや当然のことかもしれなかった。そういう話じゃなかった気もするが、でももう、いや、……そこか?お前の気になるところ、そこか?護衛の顔に浮かぶのは、狼狽を通り越して、笑みだ。


「……はっ、……魔術師が魔導士名乗ってんじゃねぇなら、いいんじゃねぇか」


答えたガルドの声色は、もう笑みを隠そうともしていなかった。


ああ、そうだな、もうわかった、十分だ。

その名を聞いて、今さら踏み出した脚が止まるわけでもない。想定していた背景よりも、ちっとばかしデカかっただけ。


何を変えることもない。今まで通り護衛して、食いもんを押し付けられて、綺麗な景色と、不思議なもんを見せりゃあいいんだろう。

――尽きることのないその好奇心に、付き合えばいいんだろう。


(そりゃあ……"ノルェ"だなんだ、言ってる暇もねぇな)



……ゆっくりと、抱き寄せる腕に力が入る。

自分だけが知っている名、自分だけが聞いた秘密――それがどれほどの信頼か。


「ノルェだろうがなんだろうが……お前は、お前だな」

「……うん」


本当の名前を手に入れた。"ルシアン"は、きちんとこいつだった。……だからと言って、すぐに呼べるほど器用でもないが。

けれど、この腕の中にいるのが、誰よりも大切なものであることは、揺るぎない。


「……、預かった」


掠れた声でそう告げて、そっと肩口に唇を寄せる。

口づけではない。ただ、触れた気配だけを残すように。


胸中に広がる安堵を、静かに抱きしめるように。






しばしの静寂の末、ふ、と改めて小さく息を吐き、ガルドがルシアンの肩から顔を上げた。

赤い眼差しは、もう揺れていない。肩越しに振り返るルシアンと、……久々に目が合う。


「……、怒ってないのかい?」

「……なんでだ。寝るぞ」


ぶっきらぼう護衛、短くそう返す。そう返しながら、ルシアンを抱えたままに立ち上がった。

ふわりと視点が持ち上がり、一瞬だけ声もなく驚いたルシアンだったが、……口元は変わらず笑みを保っている。

そのまま身じろぎひとつせず、運ばれる。――視線は護衛に。目は合うが、いつものようにすぐ逸れる。


「あ、でもね、ノルェといっても、すごいのは家と父で、私にはなにもないよ」

「……そっかよ」

「兄たちは家を継いでいるけど、私は自由にさせてもらっていて……ふふ、放蕩息子だね」

「ふん、いいんじゃねぇか」


ガルドがかすかに笑いながら、ルシアンごとまとめて自分のベッドへ潜り込んだ。

動きは雑で、上掛け布団を引っ掴んで、なのにやっぱりどこか丁寧で。


一緒にベッドに入って、なにか、という気はない。ただ、今は離れてはダメな気がしていた。


向かい合うこともしない。ただ腕の中に、ルシアンの背を預かる。それだけでいい。



くす、と――向こうに顔を向けたまま、ルシアンの肩が小さく揺れる。

なんだ笑ってやがるな、と少し頭をもたげて、けれどガルドもすぐに枕に身を預ける。


「なにがおかしい」

「ううん。……、ありがとう、ガルド」

「……ああ」



なにが、とか、なにに、とか、そういう言葉は今は無粋だ。



秋の中、夜が明けるまで。ゆっくりと冷えていく室内で。


ガルドの呼吸が、ルシアンの耳のすぐ後ろで穏やかに落ちる。

腕の重みも、自分より高い体温も、すべてが現実だ。



(……私は、私……)


いつもの無骨さで放られた言葉が、身体の真ん中に深く突き刺さる。


家を重荷に感じたことはない。しがらみも何もない。

でも、何もなかったから旅に出たのだ。


どこかが空っぽだったから、探しに来たのだ。


(…………)


ルシアンは何も言わず、静かに背中の体温に、身体を預けた。


いつか自分だけの何かが手に入ればいいと、そう思っていた。だから景色に、記憶に、思い出に、それを見出した。

あてのない自由な物見遊山を、この人生の唯一にしたくて。



「……おやすみ、ガルド」


護衛にそう声をかければ、一拍遅れて緩く抱き寄せられた。起きていた、というよりは、意識の浅い部分で反応しただけだったのかもしれない。


けれどその腕から、伝わるものがある。

名を明かし、許され、受け入れられた。


……受け入れられた。



静かな夜が流れていく。

濃霧に沈む朝が来る前に、重ねたぬくもりが、互いの灯となるように。



ただ一つ、心臓の音だけが、夜の帳の中にずっと響いていた。






――【揺らがぬ腕】

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