【その背を掴む手】
その日は、翌日の依頼に備え、夕方には宿に戻った。
夕食はそのまま部屋で済ませる。ルシアンが風呂から上がり、入れ替わるようにガルドが浴室へ。
その背を見送り、緩く髪を拭きながら、ルシアンもいつものソファに座る。
先ほどまでガルドが見ていたのか、ローテーブルに置き去りにされていた魔獣に関する資料を、改めて手に取った。
静かな部屋に、ぺら、と紙をめくる音が響く。銀の瞳が、紙面を滑る。
「足跡がない……」
ぽつり、呟く。見上げるほどの巨体で、足跡が見られないとすれば、飛ぶか、水面を滑走するか、泥中に潜むか。
資料を膝に置き、傍らにあった手帳を開く。――ペンを持ち、しばしの沈黙。
護衛に呆れられるほどに、書庫の本を読み漁っている自覚はある。文化、歴史、植物図鑑や、魔獣図鑑も。
今回の魔獣について特徴的なのは、体高が二メートルにも及ぶというところ。……よほど珍しい魔獣でなければ、ある程度は頭に入っている。
候補をいくつか書き出してみた。
浮遊型の、実体が希薄な魔物。
浮いていれば、実際より体高を高く感じることもあるかもしれない。
この種は精神錯乱を起こす。が、家畜を狙うかと言われれば、これではないように思える。
粘液に覆われた四つ足の魔獣。
これは沼地に潜水できたはずだが、北方大陸に棲息しているのかは定かではない。
加えて小型で、そこまで体高は大きくなかったはず。
なによりその身に纏う粘液が高栄養で、周囲にひどい腐臭が漂う……悪臭に関する情報はなかった。
泥中に潜むモグラ型の魔獣。こちらも家畜を狙うかは不明だが、足跡が残らないことには説明がつく。
が、その代わりに掘削痕がでるはず。依頼者側がそれに気づかなかったか、もしくは違うか。
あとは――、
ガチャ、と浴室の戸が開いて、ガルドが風呂を終えて部屋へ戻ってきた。ソファで書き物をするルシアンを一瞥して、……のそりと歩み寄ってくる。
濡れた髪をタオルで乱暴に拭いながら、その足は手帳が覗き込める位置で立ち止まる。湯上がりの熱がまだ肌に残っているのか、寝間着の襟元がややはだけていたが、それすら気にする様子はない。
視線はテーブル上の資料から、ペンを握るルシアンの手元へ。
「……よう書きやがる」
「ふふ、うん。趣味みたいなものだよ」
「趣味な……」
書きかけの候補。魔獣の種別、行動パターン、様々な可能性。
いずれもガルドには馴染みのない几帳面さが並んでいたが、何かの推論に繋がっていることだけはわかる。
「明日になりゃ実物を見んのにか」
……タオルをばさ、とテーブルに放り、ぼやきに紛れてルシアンの隣にどさりと腰を下ろす。
わざとらしく少しだけ距離を詰めて、ガルドが横から手帳を覗き込んだ。
「……んで?どこまで書いた。見当ついたか」
「まったくだね。黒馬みたいに知らない相手かもしれないし」
息がかかるほどの距離。けれどルシアンは気にも留めず、むしろ自然にページを傾けて見せた。
その無防備さに、ガルドが一瞬だけ眉をしかめる。……隣に座ったのはわざとだが、それを当然のように受け入れられては……いささか拍子抜けする。
「……どう転んでも、俺が潰しゃあ済む話だろ」
吐き捨てるような呟きで、わずかに距離をとるように頭を傾けた。しかし視線は、手帳からルシアンの頬へと移っていく。
湯上がりの香りがまだ残る。――ちょっとだいぶ近すぎた。
雇用主は小さく唸りながら続きを書き始めているし、今は夜で、宿で、風呂上がりで、ふたりっきりなんだがな、……という現実すら、頭にないようで。
――まぁ、だが、楽しく書いてんならそれもいいかと、ガルドも押し黙る。
「…………」
沈黙の隣で、さらさらとペンを滑らせる音が続く。ひとつ、またひとつと、魔獣の候補が連ねられていく。
時折思い出すように視線を浮かせながら、口元で小さく呟きながら。
「……なぁ」
「うん?」
それは、何の気なしに、ガルドの口をついて出ていた言葉だった。
しかしルシアンの視線が手帳から自分へと移り、――はたと固まる。
完全に、無意識の呼びかけだった。
けれど、空気は確かに変わった。
「……あ、いや……お前それ終わったら、あともう寝んのか」
「うん。明日、湿地帯の霧が濃くなる前には、現地に着いたほうがいいよね?」
「ん、……だな」
――ともすれば、と……ぱた、とルシアンが手帳を閉じる。推測はもういい。
結局のところ、ガルドが言うとおり、実物を見るのが早そうだ。つい興が乗って推察を重ねてしまったが、早く寝るが吉。
手帳をしまい、肩のストールを外してたたみ、寝る支度をする。そうして立ち上がろうとすれば、……ゆるりと右腕を掴まれた。
「待て、少し」
低く――静かな声だった。
上げかけた腰に、そっと腕が回ってくる。
そのままに引き寄せられ、――護衛の膝の上に、腰を下ろす。
「?……なんだい?」
「……いや……」
小さく、息を吸うような音。
けれどすぐに言葉が続くでもなく、ルシアンの背中にガルドの額がぐ、と押し付けられた。
背後のために、その表情は見えない。
だが、後ろから腹にまわった手が、緩く抱き寄せてきていた。
数拍、しばしの沈黙、――そののちに、静かに一言だけ。
「……、……教えてくれ」
――ぎゅ、と少しだけ、腕の力が強まった。ルシアンの身体がわずかに揺れる。
それは頷いたのか、ただの呼吸の動きか。……拒まれていないことだけは、わかった。
声が震えそうになるのを押さえるように、ガルドが額をもう一度、そっと押し当てる。
「……お前の、全部を、とかじゃねぇ。……少しでもいい」
「…………」
奥で詰まるような声。苦く噛みしめるような声が、ルシアンの背に落ちる。
押しつけられた額から、湯上がりのかすかな熱が伝わる。
「どこに、手紙を出すのか、とか……」
兄貴がどんな奴なのか、どんな場所で育ったのか――そう口にする寸前で、また言葉が詰まる。
違う、何もかもを問い詰めたいわけじゃない。
……ただ、声にして、改めてわかる。知らないままでいることは、……思いのほか、不安で。
「……お前が話せる、とこだけでいい」
膝の上で静かに座るその身体は、確かにそこにある。温もりも重さも、全部。
――"いつか隣にいようか"と、言ってくれた。
ならば今、もう一歩踏み出させてくれと思った。
「……ちゃんと聞く。だから、……」
静かな室内に、呼吸の音だけが重なる。
こんなにも祈るような気持ちになったのは、ガルド自身、初めてだった。
――【その背を掴む手】




