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ルシアンの物見遊山 II【毎日更新/21:20】  作者: フジイさんち
霧の向こう側

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【その背を掴む手】


その日は、翌日の依頼に備え、夕方には宿に戻った。


夕食はそのまま部屋で済ませる。ルシアンが風呂から上がり、入れ替わるようにガルドが浴室へ。


その背を見送り、緩く髪を拭きながら、ルシアンもいつものソファに座る。

先ほどまでガルドが見ていたのか、ローテーブルに置き去りにされていた魔獣に関する資料を、改めて手に取った。

静かな部屋に、ぺら、と紙をめくる音が響く。銀の瞳が、紙面を滑る。



「足跡がない……」


ぽつり、呟く。見上げるほどの巨体で、足跡が見られないとすれば、飛ぶか、水面を滑走するか、泥中に潜むか。

資料を膝に置き、傍らにあった手帳を開く。――ペンを持ち、しばしの沈黙。


護衛に呆れられるほどに、書庫の本を読み漁っている自覚はある。文化、歴史、植物図鑑や、魔獣図鑑も。

今回の魔獣について特徴的なのは、体高が二メートルにも及ぶというところ。……よほど珍しい魔獣でなければ、ある程度は頭に入っている。


候補をいくつか書き出してみた。



浮遊型の、実体が希薄な魔物。

浮いていれば、実際より体高を高く感じることもあるかもしれない。

この種は精神錯乱を起こす。が、家畜を狙うかと言われれば、これではないように思える。


粘液に覆われた四つ足の魔獣。

これは沼地に潜水できたはずだが、北方大陸に棲息しているのかは定かではない。

加えて小型で、そこまで体高は大きくなかったはず。

なによりその身に纏う粘液が高栄養で、周囲にひどい腐臭が漂う……悪臭に関する情報はなかった。


泥中に潜むモグラ型の魔獣。こちらも家畜を狙うかは不明だが、足跡が残らないことには説明がつく。

が、その代わりに掘削痕がでるはず。依頼者側がそれに気づかなかったか、もしくは違うか。


あとは――、


ガチャ、と浴室の戸が開いて、ガルドが風呂を終えて部屋へ戻ってきた。ソファで書き物をするルシアンを一瞥して、……のそりと歩み寄ってくる。


濡れた髪をタオルで乱暴に拭いながら、その足は手帳が覗き込める位置で立ち止まる。湯上がりの熱がまだ肌に残っているのか、寝間着の襟元がややはだけていたが、それすら気にする様子はない。


視線はテーブル上の資料から、ペンを握るルシアンの手元へ。


「……よう書きやがる」

「ふふ、うん。趣味みたいなものだよ」

「趣味な……」


書きかけの候補。魔獣の種別、行動パターン、様々な可能性。

いずれもガルドには馴染みのない几帳面さが並んでいたが、何かの推論に繋がっていることだけはわかる。


「明日になりゃ実物を見んのにか」


……タオルをばさ、とテーブルに放り、ぼやきに紛れてルシアンの隣にどさりと腰を下ろす。

わざとらしく少しだけ距離を詰めて、ガルドが横から手帳を覗き込んだ。


「……んで?どこまで書いた。見当ついたか」

「まったくだね。黒馬みたいに知らない相手かもしれないし」


息がかかるほどの距離。けれどルシアンは気にも留めず、むしろ自然にページを傾けて見せた。

その無防備さに、ガルドが一瞬だけ眉をしかめる。……隣に座ったのはわざとだが、それを当然のように受け入れられては……いささか拍子抜けする。


「……どう転んでも、俺が潰しゃあ済む話だろ」


吐き捨てるような呟きで、わずかに距離をとるように頭を傾けた。しかし視線は、手帳からルシアンの頬へと移っていく。

湯上がりの香りがまだ残る。――ちょっとだいぶ近すぎた。

雇用主は小さく唸りながら続きを書き始めているし、今は夜で、宿で、風呂上がりで、ふたりっきりなんだがな、……という現実すら、頭にないようで。


――まぁ、だが、楽しく書いてんならそれもいいかと、ガルドも押し黙る。



「…………」




沈黙の隣で、さらさらとペンを滑らせる音が続く。ひとつ、またひとつと、魔獣の候補が連ねられていく。

時折思い出すように視線を浮かせながら、口元で小さく呟きながら。



「……なぁ」

「うん?」



それは、何の気なしに、ガルドの口をついて出ていた言葉だった。

しかしルシアンの視線が手帳から自分へと移り、――はたと固まる。


完全に、無意識の呼びかけだった。

けれど、空気は確かに変わった。


「……あ、いや……お前それ終わったら、あともう寝んのか」

「うん。明日、湿地帯の霧が濃くなる前には、現地に着いたほうがいいよね?」

「ん、……だな」


――ともすれば、と……ぱた、とルシアンが手帳を閉じる。推測はもういい。

結局のところ、ガルドが言うとおり、実物を見るのが早そうだ。つい興が乗って推察を重ねてしまったが、早く寝るが吉。


手帳をしまい、肩のストールを外してたたみ、寝る支度をする。そうして立ち上がろうとすれば、……ゆるりと右腕を掴まれた。



「待て、少し」



低く――静かな声だった。


上げかけた腰に、そっと腕が回ってくる。

そのままに引き寄せられ、――護衛の膝の上に、腰を下ろす。


「?……なんだい?」

「……いや……」



小さく、息を吸うような音。


けれどすぐに言葉が続くでもなく、ルシアンの背中にガルドの額がぐ、と押し付けられた。


背後のために、その表情は見えない。

だが、後ろから腹にまわった手が、緩く抱き寄せてきていた。


数拍、しばしの沈黙、――そののちに、静かに一言だけ。



「……、……教えてくれ」



――ぎゅ、と少しだけ、腕の力が強まった。ルシアンの身体がわずかに揺れる。

それは頷いたのか、ただの呼吸の動きか。……拒まれていないことだけは、わかった。


声が震えそうになるのを押さえるように、ガルドが額をもう一度、そっと押し当てる。


「……お前の、全部を、とかじゃねぇ。……少しでもいい」

「…………」



奥で詰まるような声。苦く噛みしめるような声が、ルシアンの背に落ちる。

押しつけられた額から、湯上がりのかすかな熱が伝わる。


「どこに、手紙を出すのか、とか……」


兄貴がどんな奴なのか、どんな場所で育ったのか――そう口にする寸前で、また言葉が詰まる。


違う、何もかもを問い詰めたいわけじゃない。


……ただ、声にして、改めてわかる。知らないままでいることは、……思いのほか、不安で。


「……お前が話せる、とこだけでいい」


膝の上で静かに座るその身体は、確かにそこにある。温もりも重さも、全部。


――"いつか隣にいようか"と、言ってくれた。

ならば今、もう一歩踏み出させてくれと思った。


「……ちゃんと聞く。だから、……」


静かな室内に、呼吸の音だけが重なる。

こんなにも祈るような気持ちになったのは、ガルド自身、初めてだった。






――【その背を掴む手】

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