【濃霧の向こう】
「――さて、明日の予定はできたね。これからどうしようか」
ギルドの大扉へ向かいながら、ルシアンが隣の護衛にそう問いかける。
……食べ歩きも、まだまだ気になる店がある。東側の商業通りも、大通りや中通り、さらに小さい小路にも露店が多すぎて、まったくといっていいほど回りきれていない。
南門の運輸ギルドは、もうすっかり元通りだろうか。北側の職人ギルドも、……見てみたいけど用事はないな。
そんなことを考えながらギルドホールの大扉に手をかける寸前で、ふとルシアンの歩みが止まった。
「……あ、返事書いてないや」
「あ?」
思わず同時に動きを止めたガルドが、隣を見下ろす。
――なんだって?とでも言うかのような表情に、ルシアンがにこりと笑った。
「兄の手紙に返事を書かなきゃ。ちょっと待っててね」
それきりを告げて、ルシアンはまたギルド受付のほうへと歩を進めた。
数日前、ルシアンの誕生日に、冒険者ギルド経由で次兄から届いた「おめでとう」の手紙。
送り主の署名も封蝋もなかったあの手紙は、"ただのルシアン"として旅をすることを許してくれている何よりの証。その気遣いは、嬉しい。
――だが、なによりこの次兄、構いたがりがすぎて、相手をしないと飛んできかねなかった。
(私も子どもじゃないんだけれどね……)
少々面倒だが……旅を円滑に進めるためには致し方ない。ルシアンが、小さく息をつく。
ガルドの誕生日やら蒐集家やら、……あとまぁ、……色々なことがあり、すっかりと返信を忘れていたことは……誤差だ。これですっ飛んで来たら怒る。
ギルドの受付で、便箋のセットを購入する。したためるのはそのままカウンターの端の方で、――返事は適当でいいだろう。
――『手紙ありがとう。こちらは楽しく旅をしています。
寒くなってきたから、みんな体調に気を付けて。 ルシアン 』
ごつり、と背後に足音が聞こえて振り返れば、やや離れた場所にガルドが立っていた。どこか、――『待っててね』と言われた一線を守っているような表情。
……家族への手紙。素性に近いもの。許可なく不用意に覗かぬようにする、距離だった。
けれど。
「……強い護衛がいるよって書いてあげようか」
いたずらっぽく笑ったルシアンに、ガルドの瞳がわずかに揺れる。逡巡ののち、……ごつ、ごつ、と靴音を鳴らして、すぐ近くまで寄ってくる影。
「……何書く気だよ」
口ではぶっきらぼうにそう言いながらも、ガルドの視線は便箋の上に滑る。
とはいえ、文字を読む気はない。ただ、その紙に"ルシアン"という名が綴られているだけで、何となく視線が逸らされた。
「……書くなら、書いとけ、俺がちゃんと護ってるって」
ぼそりと呟いた声は、照れとも自負ともつかない微妙な温度。
ルシアンがかすかに笑った気配に、舌打ちひとつを添えて、ぼそりと言葉を足す。
「あとはなんだ、気配りも覚えそう、……ちっとは礼儀も身につきそうとかか」
「ふふっ」
言うほどに語気が強まる。だがその目は照れを含んでいて、腕を組んでいてもどうにもぎこちない。
"書かれるかもしれない"という可能性に、感情のやり場がない。
「……それで、兄貴は納得すんだろ」
自分で言っておきながら、後頭部に手をやってがりがりと掻く。それは完全に、何かをごまかすような動作でしかなく。
便箋を滑るペン先は見れない。足元に落ちた赤い視線には、わずかな戸惑いも浮かんでいたが――それよりも強く、彼自身の願いと誇りを映していた。
やがて手紙を書き終えて、ルシアンがそれを革鞄にしまい込む。一度だけガルドの目線がそこに落ちるが、余計な詮索はしない。
ギルドの受付に出せば、宛先を言わなくてはいけない。つまりは、そういうことだろう、と。
「……お前、」
「うん?」
ギルドの出入り口へと踵を返しながら、ガルドはかけようとした言葉を切った。
それ、どこに宛てるんだ、とか。
次兄がクラドリックなら、長兄はなんていうんだ、とか。
お前の"ルシアン"は本物なのか、……とか。
油断をすれば口から出そうだったが、――今じゃないことは確かだった。
「いや、……あとでいい」
「うん……?」
緩く拳を握りながら、ギルドの大扉を開く。ギルド前の広間へ出れば、再び涼しい空気がふたりの肌に触れ……横に並ぶ淡紫の髪が、通りを吹いてきた風に揺れた。
「屋台で温かい飲み物でも買おうか」
かつ、と一歩を踏み出して、ルシアンが軽やかに微笑む。低く頷きながら、ガルドも静かにその背を追う。
……そんな顔をしているから、蒐集家なんぞに目を付けられるんだぞ、と眉をひそめるが。
(……そうか、俺がいるから、あんな顔してんのか……)
――そう、思い至ってしまい、わずかに口元が緩みかけた。
ルシアンが指さした先には、ホットワインを売る屋台。振り返った笑顔は、……やはり、自分だけに向けられる顔で。
「……甘くねぇやつな。辛口のがいい」
「そう?じゃあ見てみようか」
わずかに掠れた声で応じれば、また当然のように並ぶ肩。
その笑顔の理由が、ほんの少しでも自分にあるのなら――手を伸ばせば届く距離に、こうしていてくれるのであれば。
家族への手紙に、ほんの欠片でも、"俺"を置いてくれるのならば。
……あとでいい、と決めた。
けれど、"あと"はきっと、手繰り寄せなければ。
(……聞けば、応えんのか、お前は)
そう、たとえば、夜にでも、宿に戻って。
のんびりと飯と風呂を終えて、明日の準備を整えて。
彼が手紙をしまった、その鞄を棚にでも置いて。
「…………」
――"ルシアン"の、もう少し奥の話を。
ガルドは静かに拳をほどいた。
冷たい空気の中を、芳醇な酒の香りが漂う。屋台の並ぶ路地は、すっかり秋の様相だ。
静かな決意に、心は驚くほどに穏やかだった。
――【濃霧の向こう】




