【確約の未来】
レストロワの中央広場、顔役官邸を出て、呼吸をひとつ。
……肌に触れる夕方の秋風が、ようやく"外"の空気を実感させてくれた。
ルシアンはいつもの穏やかな歩調で歩き出し、ガルドは半歩遅れてその背を追う形になる。
だが、歩きながらも――ガルドの思考だけは、未だに応接室に置き去りにされたままだ。
(……"抱き寄せて"って……)
いや何も、"あの距離"自体が初めてだったわけではない。外套の内に入られたこともある。抱き上げて運んだこともある。……寒さでベッドに入ってくることだってある。
だが、ああして面と向かって、なんというか……寄り添われたことは……なかっ……たはずだ……。
腕の中に感触が残っている気がして、拳を軽く握る。肩口に、淡紫の髪が触れた感覚まで蘇る。
(……清い身体じゃねぇ、って……)
……頭を抱えたい。
それをこの魔術師の口から聞くには、――その言葉の真意を問うには、あまりに爆弾すぎる。
だが、思考が滑るのは止められない。
……他に誰かがいたのか?
それとも、純粋な演技か?
それとも、そ、なん、そういうことか?
(そういうことってどういうことだよ……)
(いやいや……違ぇだろ……違うよな……?)
――護衛は本日も、引き続き混乱中である。
蒐集家は、確かに追い払えたのかもしれない。ルシアンが言うように、街にとっては丸く収まったのかもしれない。
だが、自分の中で渦巻く黒い問いだけが、ずっと付き纏っている。
あれは、俺だからよしとしたのか。それともたまたま近くにいたのが俺だったのか。
あれが一番手っ取り早かったのか。ラスタールが見ていたことも、当然頭に入っていたくせに。
まるで、"俺のもの"だと、笑って対外に示すような、あんな……。
「ガルド……?」
「っ……」
――気づけば、ルシアンがこちらを見上げていて、ガルドの肩がわずかに跳ねた。
銀の瞳は何でもないような顔で、しかしどこか疑問符を抱いた表情で、小さく首を傾げて。
「夕飯どうする……?ひとまず、宿に戻ろうか?」
「……、ああ」
チッ、と……小さく舌打ち。
(……聞けるかよ……)
今はただ、その歩調に合わせるだけで、精一杯だった。
カルネティアの自室に戻っても、ガルドは口を開けることができなかった。
考えれば考えるほど、わからない。なにもわからないことがわかっている。けれど、もうそんなバカバカしい結論で片づけるには、あまりにも限界だった。
爆弾を放った本人は、やはり今日も飄々とした顔をしている。部屋の魔法灯を灯し、肩掛けの革鞄を下ろし、外套の首元の留め具に手をかけて。
が、ふとガルドを振り返って、さすがに困ったように笑った。
「……すまないね、勝手なことをして」
「っああ……いや、……」
まさか蒸し返されると思わず、ついガルドがたじろぐ。……その反応に、またもルシアンが苦笑した。
護衛は目に見えて、あからさまな狼狽。けれど、それはそうだ、とも思った。
断りもなく、さも恋人のように振る舞わせてしまった。
「……あの場には、顔役殿と蒐集家しかいなかったから」
「ん、ああ……」
「だからたとえば、私と恋人だとか、君に不名誉な噂は広まらないと思うよ」
「……は?」
笑みと共に落とされたそれはまるで――、……だから安心して、とでも言うかのような、表情だった。
ルシアンを見やるガルドの肩が、ぴくりと揺れる。
伏せられた銀の目を見下ろし、言葉の意味を、ゆっくりと反芻する。
「……、……」
――不名誉な噂は……?
(……なに……?)
なんだそれは。
なにがだ。
誰が、誰との、何を、"不名誉"だと?
そんなん誰が言った。……いつ言った。
「……、おい」
低く声をかければ、革鞄の中身を覗いていたルシアンが、肩越しにこちらを振り返った。
ガルドの喉が鳴る。足音をひとつ、……距離を詰める。
ふざけるな、とは言えない。だが、決して流せる台詞でもなかった。
「お前は……俺、と……そういう噂が広まるのが、"困る"ことなのか」
「え……」
はたと、ルシアンの動きが止まる。
瞬きが、ひとつ、ふたつ。
温かな部屋の灯りが、輪郭と影を柔らかく縁取っている。
半端に開かれたルシアンの口から、返事はまだない。だがそれでも――もう無理で……ガルドは、黙ってはいられなかった。
「……不名誉、だなんて、勝手に決めんな」
ガラにもなく、指先が震える。声も揺れた。けれど、それが偽りなく、彼の本心で。
視線が交錯する。きょとん、としたルシアンの口が薄く開き、……閉じる。
眼差しが横に逸れ、もう一度……絡む。
「……?」
"噂が広まったら、困るのか"。
(それは、……私に聞いている?)
……何故。
妙な噂が立って困るのは、冒険者としてすでに名の通っている、彼の方なのでは。
だからこそ――ルシアンは正直、自分のほうにまでは意識が回らなかった。
彼の立場にいらぬ傷がつくのではと、思っ……て。
「…………」
――考えてみる。自分は困るのか?
……考えてみるが、いまいち……わからなかった。
「嫌じゃ……、ないのかい?」
心なしか、問いかける声には、動揺が滲んでしまっていた。
まるで、答えを探すかのような声色だった。
「……君は、私と恋人だという噂が立っても、困らないの……?」
それは、咎めるでも、からかうでも、戸惑うでもない問い。純粋に、一つの確認のような。
ただまっすぐに、――なのに、部屋の空気に溶けそうなほどに、か細い声だった。
「……、困らねぇよ」
一瞬だけ間の空いたガルドの返答は、しかし即答に近い。
だが、それを言った自分自身が、一番息を詰めていた。
ルシアンの眼差しが、大きくは揺れず、けれど確かにガルドを見る。その表情は、……どちらとも判断のつかないものだ。
驚いているのか、嬉しいのか、嫌悪、あるいは――何も感じていないのか。
「……むしろ、いい加減……」
言いかけて、ガルドの喉が詰まる。口の中がからからに乾いていた。
それでも、止められない。
「いい加減……もう我慢なんねぇ」
もう一歩だけ、距離を詰める。
ルシアンは、その場を動かない。銀の眼差しも、逃げない。
だから――もう一歩。
「いや……ちげぇ、ちげぇな、我慢……とかじゃなく」
「…………」
「護衛でいろっつーんなら、……いてやる、けど、よ」
ガルドがまっすぐに、その瞳を見つめる。言葉はもう、情けないほどにまとまらない。無様だろうが、取り繕う余裕すらない。
心のどこかで、腹を括っている自分がいる。……拒絶がくるなら、それでいい。
それでもいいけれど。
「……もしお前が困らねぇって言うんなら、……これ以上、を、考えちまっても……いいか」
歩み寄った距離は、手を伸ばせば届くが、伸ばさなかった。代わりに、眼差しだけは決して逸らさない。
――静寂は、いつの間にか部屋に落ちていた。
「……そう……」
静かに呟かれたルシアンの言葉は、……ただその事実を受け止めるかのように、ゆっくりと部屋に溶けていく。
伏せた瞳に、もう動揺の色はない。
ただ、なにかがどこか、腑に落ちたような色を湛えていた。
「――じゃあ、」
銀の瞳が、ゆるりと持ち上がる。見つめられたガルドが、かすかに顎を引く。
……数秒の、間。――たったそれだけが、しんどいほどに長く感じた。
「……君がいつか、私のことを……知って」
「…………」
「それでも、そばに……いてくれるなら、」
ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉は、まるでルシアンが、自分自身に言い聞かせているかのようで……、その瞳は間違いなく、ガルドを捉えていて。
――今度は、ふわりと笑みが浮かぶ。
「その時は、護衛や旅の仲間としてではなく、隣にいようか、ガルド」
ガルドの呼吸が、ひたりと止まる。
"護衛や旅の仲間ではなく"――。
相変わらず丁寧に、絹に包まれたようなその言葉が、――今は胸の奥に静かに沈み込んで、じわじわと、熱を持ち始める。
……何かの手違いではない。
逃げるような笑みでもなかった。
いつも通り穏やかで、どこまでも自然で、けれど確かにそれは、彼の"応え"で。
「…………」
何かを返したくて、なのに喉は張り付いたように動かない。
わかった。――わかっている。今はまだ、許されたわけじゃないのかもしれない。
ただ、"許される未来"が、……確約にも近い未来が、ほんの少しだけ顔を覗かせただけ。
「……。……ああ」
ようやく搾り出すように返したその声は、存外震えていなかった。
ひどく心が凪いでいたのは、きっと初めて"同じ位置"に立ったからだ。
自分が下りて行ったのではない。彼が上がってきたのでもない。用意された足場に、静かに足並みを揃えた、それだけ。
ふ、と一つ息を吐き。ゆるりとそちらへ背を向けて、ガルドが外套を脱ぐ。
ポーチなどの装備品を外していく音。ルシアンも、身を返してそれに倣った。
――"驚いた"。それが正直なところだった。
だが、……彼にそういった感情を抱かれていたことに、嫌な気持ちはまったくない。
むしろ、ならばこれからもそばにいてくれるのかもしれないと――、
――そう、微笑みながら……、……ルシアンは何度か目を瞬かせる。
「……?」
雇用主、停止……。
再び俯いて口元を押さえ、顔を上げ、もう一度口元を押さえて、今度は視線だけをちろりと、肩越しに後ろに向ける。
(……ええと……?)
ふつふつと、というより、じわじわと、背筋を這いあがるような感情。
困惑、ではない。動揺、も違う。なんかこう、……恥ず、かしい、ような……?
(……"その時は"……ってつまり、……恋人という、こと……?)
自分で放った言葉を――静かに反芻する。
いや何も、無責任に言ったわけではない。きちんと理解してそう言ったはずだが、改めてその認識に落ち、さらにそれを言語化すると、……破壊力が違った。
(……ガ……ガルドと……?)
ええ、そうである……。
――じわ、と耳が熱くなった。
あれ、と思う。外套を脱ぎかけたままに、視線が定まらない。かちり、と無意味に胸元の留め具を閉め、……脱ぐのだったと、もう一度外す。かちり。
……いや……。
「……ガルド、あの」
「……ああ?」
緩慢と振り返ったガルドに、ルシアンはもうとてもじゃないが目線が合わせられなかった。
耳が熱い。頬も少々。
「わ、私、早まっ……て、ない……?」
それはもはや、今にも"一度忘れてくれないか"と言い出しそうな横顔。
はた、と動きを止めた赤い瞳が、……じとりと細められて一歩、足を踏み出してきた。
「……おい」
ルシアンの肩がぴくりと跳ねたのは、護衛の声が低かったから。あれは、呆れられた時の声。しかもちょっと笑われている時の声。
視線を向けられないまま、そっと外套を脱ぐ動作に戻る。手はわずかに震えていた。
大きな影が、もう一歩、近づく。
手を伸ばせば指先が――触れるどころか、もはやとっ掴まえられる距離。
けれど今は何も触れず、ただため息と言葉だけを落とした。
「遅ぇくらいだ」
ぼそりと低く、静かで、それ以上に、逃げ道を封じるほどまっすぐな声に……ルシアン、なすすべもない。……なすすべもない……。
だからこそ、ガルドも口の端をわずかに吊り上げる。
「……お前が早まるわけねぇだろ」
「わ、わかった……わかったから……」
もう降参、の合図のように、パッとルシアンの手のひらが持ち上がる。俯いて表情など見えやしないが、見覚えのあるその仕草。頼りない防御壁。
(……、……ははぁ、なるほどな)
きゅう、と、またガルドの眼差しが細くなる。すっかりと隠されてしまった表情。なるほど、"それ"は拒絶じゃなかったわけだ。
得心がいって、口の端が緩む。ならば、許してやろう、その壁を、と。
……しばし俯いて、そのまま静かに片手で顔を覆っていたルシアンだったが――ふっと顔を上げる。まだやや耳は赤いが、瞳や表情の揺れは消えた。
そのままにガルドを見上げ……いつものように、にこりと笑う。かろうじて。
「……、夕飯どうしようか。宿に戻ってきちゃったけど、どこかに食べに行くかい?」
何も変わらない、いつも通りの声色。
脱いだクロークを手に、いつでも出かけられる格好。
――ガルドもまた、それを責めたりはしない。
もう、わかった。これは"逃げ"ではない。いつもの日常へ戻る手立てだ、と。
「……ああ、だな」
短く返しながら、ガルドは視線をルシアンの頬に滑らせる。まだほんのり赤い耳。そのくせ、目元だけは澄んでいる。
さっきまであれほど狼狽していたのに、よくもまぁ、器用なもんだ。
だがまぁ、構わん、乗ってやろう。何故なら自分は今、特別機嫌がいい。
「帰りにギルドでも寄ってくるか。借りてた本、読み終わったろ」
「いいね。じゃあ行こうか」
さらりと上着を羽織り直しながら扉へと向かうルシアンの背に、手から外套を提げた大きな影がぴたりとついてくる。
部屋の灯りが、背後に沈む。何を言うでもなく、歩幅はそろっていて。
肩を並べて、あえて何も言わず、ただいつも通りに隣を歩く。
夕暮れの気配が街を包み始め、灯りがぽつぽつと灯る時間帯。
レストロワの空気はやや湿っていて、けれど涼しく心地よかった。
「……収穫祭、見れそうで何よりだな」
ふと、横から声がかかる。ルシアンが一瞬だけ目を丸くしてから、思い出したように笑みを浮かべた。
腕が触れるか触れないか。
けれどその距離に、今までのような曖昧さはない。
ふたりはまだ名乗らず、それでも離れず、ただ静かに歩調を揃えて進んでいた。
――【確約の未来】




