あなたの熱情が欲しいのです。
本宮邦宏にとって“女”という存在は一時の暇潰しでしかない。
フォトグラファーという仕事上、邦宏の周りにいるのは大概がモデルや女優といった容姿に自信を持つ女 たちだ。そして一度仕事をするとかなりの確率で言い寄られる。
一対一で向き合って撮影している内に気分が盛り上がってくるのか、はたまた周囲にいる同業者より遥かに 整った邦宏の容姿に惑わされるのか。 おかげで邦宏の内心とは裏腹に、彼の周りは常に複数の女が取り巻いているような状況だった。
そのせいで邦宏には女絡みのトラブルがいつもついて回っている。
現に今、邦宏の眼の前ではそのトラブルの一端である女が肩を震わせ泣き崩れていた。
「気持ちが参ってる時は何でも悪く考えがちだから。溜め込み過ぎて身動き取れなくなっちゃう前に少しで も吐き出した方がいい。辛い痛い悲しい悔しい酷い許せない、そう思うの、別に悪いことじゃないよ? そう思う自分をまず認めて許してあげないとね」
そしてそんなトラブルの一端を柔らかい声で宥めているのが篁世津だ。
「まだ病み上がりなんだから、あんまり無理しちゃ駄目。黙って出てきたなら、きっとマネージャーさんも 心配してるよ? 連絡入れないとね」
世津の言葉に女は小さく頷いて礼を言い。
その後は邦宏に眼を向けることなく、迎えに来たマネージャーに連れられて去って行った。 そんな女の後ろ姿が廊下の端に見えなくなるまで見送り。
「………、邦宏」
世津はようやく邦宏を振り返った。 だがそこで壁に背を預けて煙草を吸っている邦宏の姿を見て取ると、深々と嘆息する。
「………あのね…そりゃ事情を碌に知りもしない俺が言えた義理じゃないけど。こういうことになるとどうし たって精神的にも肉体的にも女の人の方が傷つくんだから。責任取る気ないんなら、始めから割り切ってく れる相手とだけそういうことしなよ」
腰に手を置いて呆れを全面に浮かべた顔でそう言った世津に、邦宏は小さく肩を竦める。
「て言っても、俺も予想外なんだよね。さすがに着けずにやるほど非常識じゃないし」
「……………じゃあ何。もしかしてゴムに穴空けられてた、とか言うベタなオチだったりしないよね」
「……さあ? 正直、酔っててその辺りは覚えてない。ただ手持ちのがなかったから、向こうが用意したのを 使ったのは確かだけど」
それで“当たった”ということは、細工だけではなく計算もしていたのかもしれない。 もっとも今となってはわからないが。
そんな邦宏の話を聞いた世津は途端に苦い顔になる。 次いで頭痛い、とばかりにこめかみに手を当て。
「………確かに『子供』ってのは男に腹括らせる最終手段だけど……。下手したらそれ以上のダメージが自分 に跳ね返ってくるの、あの子はわかってなかったわけね」
「まあ。大体、本当に俺の子だったかどうかもわからないし」
だが今時調べればすぐわかるような嘘をつく必要もない。ならば確かに邦宏の子だったのだろう。
今から三十分ほど前、世津が忘れ物を届けに邦宏の仕事場であるスタジオまで来た時には、興奮した女が泣 きながら彼に詰め寄っているところだった。 それをどうにか落ち着かせて話を聞き、宥め、諭し、彼女のマネージャーに連れ帰ってもらう、という作業 をする羽目になった世津は。
「あのね邦宏……、何でもかんでも面白がるの、悪い癖だよ」
あまりに頓着してない様子の邦宏に、肩を落とした。
日頃は邦宏のそういった付き合いに関しては口を出さない世津だったが、今回は珍しく渋い顔をしている。
これまでは邦宏を巡って女たちが場外乱闘することはあっても、彼自身にその矛先が向かうことはなかった のだ。 しかし今回はどうも少し様子が違ったらしく。
妊娠したという報告の翌日に仕事で事故に遭い、そのせいでお腹の子も駄目になった、というジェットコー スター並みの急展開を経験した女が、退院したばかりの病み上がりの体で邦宏に会いに来たからだ。
そのどこか思い詰めた様子に、邦宏は仕事を中断して人目のない静かな場所に移動して話を聞くことにした のだが。
始めは事故に遭ったショックや子供が駄目になった哀しみを憔悴した顔で話していた。 それがいつしか言葉の端々に邦宏への非難や恨み言が混ざり始め、最後には事故自体も「あなたが仕組んだ んでしょう!?」と罵り出したのだ。
稽古中に脚を引っ掛けられて舞台から落ちたのだと泣き喚く女に、さすがの邦宏も辟易した。
そんな空気を敏感に感じ取った女から詰め寄られ、邦宏は落ち着かせるどころか逆に正論や揶揄混じり の皮肉で彼女を蒼白にさせてしまったのだ。 そこへちょうどやってきた世津が慌てて割って入った、というのが大まかな流れだった。
「酷いな、面白がってなんかないよ。それにあの子が俺に近づいてきたのも周りと張り合ってのことだから 。正直、馬鹿だなあとは思ってたけど」
事故後ということもあり精神的に不安定だったのかもしれないが、真っ先に邦宏を疑う時点で好意の重さも 知れると言うもの。
業界内で“本宮邦宏”の名前はある意味非常に有名だ。
「ハーフだから」の一言では済ませられないあまりに綺麗な顔立ち。 淡い金髪と青灰色の瞳に、上背肩幅のある引き締まった見事なモデル体型。
彼が撮る被写体よりよほど写真映えしそうな容姿の邦宏を、当然周りの女たちが放っておくはずもなく。
どうにか関係を持とうと群がる女たちに邦宏が最初に口にするのは警告だ。
『─────やめておいた方がいい。俺は酷い男だから』
その自己申告通り、邦宏は実際に酷い男だった。
基本的に誘いを掛けてくる相手を拒否しないが、“しない”だけだ。 相手はしても彼女たちを“本命”にすることもない。
最初は軽い気持ちで関係を持ったものの、いつしかその他大勢でしかないことに我慢できなくなり、女たち は彼をどうにか振り向かせようとのめり込んで行く。 しかし振り向かせるどころか逆に転がり落ちるように邦宏へと溺れ。 余裕を剥ぎ取られて嫉妬に狂い、他の女を妬み、最後にはみっともなく泣き縋る。 そこにかつての自信に溢れた姿は見る影もない。
今までにそんな例がいくつもあった為、最近では事務所の方が邦宏を使うのを敬遠するようになっていた。 いくら邦宏の写真の腕が良くても、仕事で引き合わせる度に女優やモデルを潰されては堪らない、そういう ことなのだろう。
しかしそう聞かされていながら、これまでの女たちと同じく邦宏の容姿に魅せられた女が事務所の厳命を無 視して彼に近づき、今回の事態を引き起こした。 誰にも落ちないと噂される邦宏を落とせば箔が付くとでも思ったのか。 その割りにはあまりに安直な手を使ったものだが。
邦宏の子を妊娠したと知らせに来た時も、子供の存在は競争率の高い相手を手に入れる為の“手段”であり“道 具”だと考えている意識が透けて見えた。 世間では清純派で人気の若手女優だろうが、邦宏にとっては複数いる女の内の一人でしかない。それ以前に女の事務所側が黙って認めるとは思えなかった。芸能人は存在自体が“商品”なのだから。 「妊娠したので産みます」で済む話じゃない。 予定していた仕事のスケジュールが狂えば契約の問題も出てくるのだから。
何より子供は産んで終わりじゃない。 その辺りの生活設計をどこまで考えていたのか、女の態度を見る限り非常に軽い覚悟しかないように見えた 。
「産んでもいい?」の言葉に「君が産みたいなら」と返したのをあちらが都合良く解釈しただけだ。 大体産むも堕ろすも邦宏が決めることじゃない。 はっきりした鑑定結果を示された上で求められれば認知くらいはしただろうが、邦宏自身は結婚する気など 更々なかった。
まずその点から互いの認識に齟齬がある。
「まあでも『子供できた』って言われたの、これが初めてじゃないし」
「………………。あのね邦宏、少しは学習しようよ」
受け身すぎるのもいいとこでしょ、とがっくり肩を落とした世津に、邦宏は小さく笑うに留める。
「その時は確かにこっちの認識も甘かったっていうのはあるんだけど。ただ─────そういう子たちは皆 “何故か”その後事故に遭って入院、ってコースを辿ってる」
「……、え………皆?」
偶然という言葉で片付けるにはあまりに不穏な話に、ぎょっと世津は眼を見開いた。 邦宏は煙草片手にそんな彼へと視線を流し。
「だからあの子の言い分も、強ち被害妄想とは言い切れないんだよね」
「………それって……」
もしそれが事実だとすれば、邦宏と関係のある周囲の女たちが関わっているだろうことは想像に難くない。
「そう。今までのも全部そうだったら─────怖いよね、女って」
しかし言葉ほどには思っていない素振りで邦宏は紫煙を吐く。
だが今回の件はあまりにも女の方が迂闊過ぎた。そもそも妊娠報告をした場が“悪過ぎた”のだ。 邦宏の仕事現場であるスタジオに押し掛け、結構な人数のスタッフが忙しなく動いている中、特に声を潜め るでもなく話したのだから。
結局、邦宏に関する噂を甘く見たが為に結構な代償を支払う羽目になってしまったわけだが。
しかしその手のトラブルが邦宏の周りにはごろごろ転がっている。今回のことが特に珍しいものでないくら いには。 それでも邦宏は一切関知しない。 いがみ合い、憎悪し、互いの足を引っ張りあっては揃って堕ちて行く彼女たちを前に、ただ笑うだけ。
『だから“俺は酷い男だよ”って最初に言っただろう?』
その言葉を軽く見たツケを思い知るのは、今回のように心身共に深い傷を負った時だ。
過去には周りが見えなくなるほど邦宏に夢中になり、犯罪行為にまで及んだ例があったくらいだ。
女優に対する盗撮や盗聴、無言電話に誹謗中傷メール、第三者への暴行教唆の容疑で、邦宏と関係のあった 女性モデルが起訴一歩手前にまでなったことがあった。
その際に理由として上げられたのが交際上のトラブルだ。 一人の男を巡り、顔を合わせれば罵り合うような関係だったと。 そして二人がいがみ合う切っ掛けになった“某カメラマン”が“本宮邦宏”であることは業界内では有名な話だ。
「………で。そうなるのわかってても、君は彼女たちに対する態度を改める気はないわけね……」
「だって俺のせいじゃないだろう? 忠告を無視して近づいてくるのは向こうの方で、攻撃し合って潰れてく のも俺がやらせてるわけじゃない」
廊下の壁に寄りかかって煙草をふかしながらそう悪びれず言う邦宏に、世津はまた疲れたような溜息を一つ 吐き。
「………思ってた以上に邦宏の女性不信って根深いのかもね」
咎めるでもなくそんなことを言った。
「…………は……?」
邦宏は自覚どころかまるで思いつきもしなかったその言葉に、虚を突かれたような顔になる。
「…………女性不信?」
「そう………て、あれ。え、もしかして自覚なかった?」
動きを止め凝視してくる邦宏の反応に、世津は心底意外そうに眼を瞬く。
「………あー、でも、そっか」
しかしすぐさま納得したように頷き。
「最初は何だかんだで女の人に夢見てるのかな、とも思ったんだけど─────邦宏、妙に女の人を見る眼 が冷たいし」
「……冷たい?」
「うん。何て言うのかな……観察してるって言うか、警戒してるって言うか…」
そう言われた瞬間、邦宏の脳裏に真っ先に思い浮かんだのは、既に面影さえあやふやな実母と、“母”と言う 存在には成り得なかった義母の姿。
邦宏がまだ幼い頃に実母である女は外に男を作って家を出ていた。 それに対する近所の口さがない噂話の中で邦宏は育ったのだ。
幼いながらも整った邦宏の容姿を褒めながら、影で囁く会話に潜む悪意。
『……奥さんの浮気で出来た子ですって』
『……ああ、やっぱり? そうよねえ、ご両親が日本人であの見た目はないわよね』
『あそこの奥さん随分と派手に遊んでたみたいだし』
『いつも見る度違う男と歩いてたものね』
『……で、最近その奥さんが子供置いて出てっちゃったらしいわよ』
『えっ、嘘。それ……無責任過ぎない?』
『ホントよねえ…なんでそこまで図々しくなれるのかしら。せめて子供は連れてくべきでしょ』
『…………旦那さんが気の毒すぎるわ』
明らかに外国の血が混ざっている邦宏の顔立ちと色彩が、何より明確に純粋な日本人である父親との血の繋 がりを否定していた。 それらの事情を知る周りが向けてくる笑顔の裏にあるのは嘲笑と同情。 それでも妻であった女の奔放な男遍歴の果てにできた邦宏を、父は実子として育ててくれたのだ。
そんな父が再婚したいと言い出したのは邦宏が高校一年の時。 複雑な思いがないわけではなかったが、父が選んだ人なら、と邦宏は反対しなかった。
だが新しくできた義母は引き合わされた当初から邦宏を“息子”ではなく“男”として見てきたのだ。
父の眼を盗んでさりげなくも露骨に“女”の顔を見せてくる義母に感じたのは嫌悪感。
それでも父を思えばあからさまに義母を拒絶することもできず。表面上は気づかぬ振りでどうにかやり過ご していたのだが。
そんな態度が義母を勘違いさせたのか、高校三年の冬、言葉と態度ではっきり体の関係を求められるに至り ─────邦宏は家を出た。
それ以来、父親に時折連絡を入れる程度で、実家には一度として帰っていない。邦宏にとっては思い出した くない、関わりたくない過去でしかないからだ。
だがこれらのことが“女”という存在に蟠りを持つ原因になっていたとしたら。
これまでのことも、すべては“女”や“母親”というものに対するアレルギーから来ていたのだとあっさり納得 できてしまうのだ。
利己的で計算高く変わり身の早いのが“女”だと、どこか無意識に決めつけていたのかもしれない。
その根底にあったのは“女”という存在そのものへの不信感。
幼少期から思春期までの間に植え付けられたトラウマめいたものを、どうやらこの歳まで邦宏は後生大事に 抱え込んでいたらしい。
気づいてしまえば単純な話だ。
「………ああ、そっか。女性不信ね、確かにそうかも」
どんな女を相手にしても冷め切った感覚があったのはそのせいか。
これまでの微妙な感情の理由がわかり、妙にすっきりした気持ちで邦宏は頷いたのだが。
「それに邦宏の態度が態度だから皆勘違いするんだろうけど……あんまり“そういう”行為するの好きじゃな いなら、いい機会だと思って少し控えなね」
誰にも言っていない本音をあっさり見透かされ、うっかり煙草を取り落としかけた。
声もなく唖然と見返した邦宏に、だが自分の発言がどれだけの衝撃を与えたのか気づきもせず、世津は真面 目な顔で続ける。
「て言っても今までが今までだから、いきなり関係切るとかはできないだろうし、ちゃんとその辺り見極め て、」
「……………なんで」
「…ん?」
「なんでそんな……」
気づかれているとは思っていなかった邦宏が呆然と呟けば。 ああ、と世津は頷き。
「そりゃ俺は邦宏のことが好きだから、どうしたって君を一番に考えるし優先もするけど。客観的に、特に 女の人たちから見たら、君の態度や対応は最低だから」
邦宏の疑問とは微妙にズレた答えが返ってきた。
「望みないんならちゃんと最初から悪役やってあげなね。まあ、女性不信らしい君にこういう言い方は違うのかもし れないけど……どうでもいい相手に中途半端な優しさ掛けるくらいなら、そういった意味で体も“欲しい”と 思える人が見つかるまでは無理にしなくてもいいんじゃない? 大体やりたくないことやって恨まれるなんて 馬鹿らしいでしょ」
“体も欲しいと思える人”、それを聞いた邦宏が咄嗟に思ったのは。
─────なら、世津はさせてくれるの。
自身の中から突如湧いて出た“それ”に、邦宏は愕然とした。 動揺からすっかり言葉を失くしてしまった邦宏の態度を、世津は自分が踏み込み過ぎたせいだと思ったのか 。
「……まあ、俺がどうこう言っても結局は邦宏の判断だから。でも本当に付き合い方は考えた方がいいよ」
そう言って困ったように笑い。
その八日後─────置き手紙一つで邦宏の前から消えた。
─────……、……?
─────……て……ね………ろ。
「……ろ、邦宏ってば」
腕の中で何かが動く感覚に、浮上していく意識のまま目蓋をうっすら開いた邦宏の眼にまず飛び込んできた のは、癖のない艶やかな黒髪。
「……………せつ…」
「あ、起きた? おはよ、邦宏。取り敢えず手離して」
その黒髪から連想された名前を呼べば、非常に幸せな幻聴が答えてくれた。
「…………ああ、うん」
未だはっきりしない頭で反射的に返事をしながら、いつになく気分の良い目覚めに邦宏の頬が緩む 。 それでも腕の中にある心地良い温もりが離しがたくて、優しい声に抗うように眼の前の黒髪に頬を寄せた。
「ちょ、邦宏? 寝ぼけてないで起きてー」
だが先ほどよりはっきり聞こえた世津の声に、邦宏の動きが止まる。
そこにきてようやく邦宏の頭が凄い勢いで働き始めた。 そうしてよくよく状況を確認すれば、腕に抱き締めている心地良いぬくもりの正体が人だということに気づ く。
ならばこの黒髪は当然。
「…………………、世津?」
「そうですよ、世津ですよー」
ぱちぱちと眼を瞬くと同時に腕を緩めれば。 僅かにできた空間のおかげで邦宏の胸元から顔を上げることができた世津と、図らずも至近距離で見つめ合 う体勢になり。 予期せぬ事態に邦宏は硬直した。
「…邦宏? 大丈夫?」
眼の前に確かに居て喋る世津に、徐々に覚醒してきた頭で思い出すのは昨日の行動。
“一度帰ってからそっちに行きます。何時頃なら都合が良いですか”
そんなメールが届いた時、邦宏は即電話を入れて世津が自宅に帰る途中でかっ攫ってきたのだ。
そもそも二週間前に連絡を貰った時から邦宏の気分は既に浮ついていた。 どれだけ舞い上がっていたのか、今考えるとかなり恥ずかしいくらいのテンションだったと思う。 何せ世津と会うのはほぼ一年振り。浮かれるなというほうが無理だ。
そしてマンションへ連れ帰った後は渋る世津を強引に抱き枕にして寝たのが昨夜のこと。
翻って見れば、今は腕の中に世津がいる非常に美味しい状態。固まっている場合じゃない。
「思い切り腕を下敷きにしちゃってたみたいだけど、痺れてない─────ッて、わ、こら!」
「ん。大丈夫だから、もう少し」
体を起こし離れようとしていた世津をやや強引にベッドに引き戻すと、邦宏はその上に覆い被さった。 驚いて反応が鈍い世津の額、目蓋、頬へとキスを落とし、流れで唇にもと思っていたら、世津の手のひらに よってぽふ、と口を塞がれる。
「…世津……」
制されたことに対し邦宏が盛大に眉を寄せれば。
「だーめだってば。仕事行くんじゃないの?」
めっ、と言うようにその塞いでいた手で今度は鼻を摘まれる。
しかし邦宏はその手首を逆に掴み取り。
「…………今日の仕事の入りは午後なんだよ」
「…え、そうなの?」
小さく息を吐いてそう言えば、世津は眼を丸くする。
「だから、世津も二度寝に付き合ってね?」
その掴んだ手のひらに軽いキスを贈れば、世津はくすぐったいよ、と笑い。そういうことなら、と邦宏の体 に擦り寄ってきた。
そのあまりに無防備な様子に邦宏は内心溜息をつく。
こういう意味深で際どい接触を許す割りには言葉や態度を思惑通りに受け取らず、雰囲気で流されたりもし てくれないのだから世津は厄介だ。 抱き枕にしようが額や頬にキスしようが、照れもしなければ意識もしてくれない。
そういう部分で気持ちの差異を見つける度、感情の切り替えが良すぎる世津に不満を覚えてしまうのはもは やどうしようもない。
─────本当に、俺のこと好きだった?
今更な疑問が口をついて出そうになるくらい、世津は揺らぎもしなければ惑いもしない。
以前を思い返してみても、恋愛に付き物である嫉妬や不安といった感情を世津が邦宏に見せたことはなかっ た。それでもこちらを見る視線には甘やかな色と熱っぽさがあったはずだ。
だが今の世津を見ているとそれすらも幻想だったと言われているような気がする。 気持ちの割り切り方が見事過ぎて、かつて恋情を向けられていたかどうかすら自信がなくなる有り様。
そうして振り回す側だったはずの自分の方が今では振り回される立場になっている。
好きな相手ができた、と一年連絡を絶たれた時は焦りと不安に頭が占められ。 世津の口から何の気なしに出る“フミアキ”と“セイゴ”の名前には気持ちを揺さぶられた。
世津はある意味タチの悪い麻薬みたいなものだ。特に自分のような男たちにとっては。
見返りを求めて媚びてくるわけでもなく、好かれようとしてすべてを許容するのでもない。 従順でありながらも理性的で、純粋な好意だけを差し出してくる。
そこに押しつけがましさはない。
そうやってじわじわと奥深くまで侵食してきて簡単に抜け出せないほど依存させながら、ある時急に手を放 す。
『今まで俺の我が儘に付き合ってくれてありがとう』
そんな書き置きを残して姿を消された時、邦宏はこれまで生きてきた中で初めて─────途方に暮れた。
戸惑いもしたし動揺もした。
それまでは相手に縋りつかれることばかりで、こんなにもあっさり身を引かれたのは初めてだったから。
気まぐれで移り気で愉快犯な自分を「悪趣味だよ」と窘める世津がいなくなった途端、気力が失せた。
急に色々なことが面倒になり、これまでのようにあちこちからの秋波に対応することも億劫に思うようにな って。
いつしか煙草や酒の量が増えた。
そして酔うと必ずといっていいほど世津の姿を探していることに気づいた時。
邦宏は自分にとって“篁世津”がどういう存在であったのか、強制的に“思い知らされた”のだ。
結局その後、世津の言葉によってこれまでを振り返った邦宏は行動を改め。
その結果。
CDのジャケット写真が切っ掛けでブレイクしたアーティストを皮切りに、グラビアで注目されるようになった 男性モデル、若手俳優などが話題になるにつれ、それを撮影した邦宏も何かと取り上げられるようになって 行ったのだ。
そんな忙しい仕事の合間を縫って捜していた世津に邦宏が再び会えたのは、彼に出て行かれてから八ヶ月が 経った頃のことだった。
しかし再会できても邦宏は過密スケジュールで碌に会う時間も作れず、その間に世津は次の相手を見つけて しまい。
おかげで連絡を無視されることがどれだけ辛いのか、邦宏はこの時初めて知った。
言葉は流され。 狂おしいほどの欲望も。 持て余す熱も。 歪む想いも。
世津には届かない。
あともう少し、切っ掛け一つで感情が暴発する、そんなギリギリのところまで来ていた時─────世津は戻っ てきた。
「……ねえ、世津─────好きだよ」
「? うん、ありがと。嬉しいけど、いきなりどうしたの」
ストレートに言っても世津は相変わらずこちらの気持ちをまるで理解しようとしない。
ならば。
言葉で伝わらないなら態度で示せばいい。 抱き締めて、キスして、誰よりも“特別”で“大事”なのだと。
長期戦も覚悟の上だ。
「だから─────覚悟してね?」
「え? は? 何が?」
話が呑み込めず首を傾げる世津を、だが邦宏はそれに答えることなく、ただ笑って抱き締めた。
本宮邦宏→世津の三人目(?)の男。フェロモン過多な笑顔で数々の女を落としてき た愉快犯。無自覚に女性不信だった為、これまで恋愛経験はなかったらしい。そんな恋愛初心者な割りには 初めての想い人に抱き枕をサラッと要求できちゃうくらい欲望に忠実な人。そしてそれが普通に叶っちゃう 辺り案外世津の性質を理解してるっぽい。前二人の男と比べたらハグキスに成功してる分、良い思いしてる かも。
篁世津→何故か好きになった相手とはことごとく気持ちのタイミングが合わない宿命の子 。これまで両想いという状態になったことがない為、もはやそういうもんだと割り切ってる。なので気持ち が離れた後で「好き」とか言われても話半分にしか聞いてない。それどころか自分の気持ちが冷めたからこ その言葉だと考え「恋愛感情抜きだとみんな普通に優しいんだよね」とか思ってる。邦宏のハグキスも「も しかしてペット扱いされてる?」とやはり伝わってない。