第4話 雪解け
私はもう、死にたくないのだろうか。理絵から言われた言葉が、頭から離れない。
私は私自身に問う。もう死にたくないのかと。答えは、ノーだ。死にたい。少なくとも今は、先ほどのショックで死にたいと強く思っている。ただ、それが以前のように片時も離れずに側にいた希死念慮と同質なのかと言われると、答えに窮する。私は明らかに変質してきている。パーツごとすべて取り替えられて、組み立て直されていくように。
意識は茫洋として、私は何を考えればいいのか分からなくなる。迷い人のようだ。帰り道、野良猫を見た。野良猫のように生きるのはどうだろう。枷がついた人生はもう、終わりにしたい。
これが、本来の「死にたい」なのだとしたら。今までの私は、何と闘っていたのだろうか。今の私にはもう、分からなかった。
理絵を連れて診察室に入った私に、湯沢は特に驚いた様子も見せなかった。こっちの椅子に座ってね、と部屋の隅にあった椅子を運んで理絵に差し出すと、診察が始まった。
「えーっと、高坂さんの主治医の湯沢です。よろしくね。こちらの方は?」
「私の恋人の、理絵です」
「真島理絵と言います。今日は、真理ちゃんの付き添いで来ました。よろしくお願いします」
そう言って、理絵は丁寧に頭を下げた。
「はい、よろしくお願いします。本当は付き添いはご家族だけなんだけど、まあ、今回は特別ってことで。私も、真島さんに聞きたいことがあるしね」
「聞きたいこと、ですか?」
「うん。聞きたいことがね。高坂さんの診察でよく真島さんの話が出るんだけど、そこで気になることがあって」
「気になること……」
気になることとはなんだろうか。確かに私は診察で理絵の名前をよく出すが、それは雑談の延長のような流れで私生活のことを軽く話す程度で、トラブルの申告などはしたことがない。
「こういうのって、カウンセリングとかの領域になってくるから正直専門外の部分もあるんだけどね。私は、真島さんとの関係が、高坂さんの希死念慮に繋がっている、と推測してるんだよね」
「私の存在が、真理ちゃんの希死念慮に繋がっている……。つまり、私のせいで真理ちゃんが死にたがっているってことですか?」
「せいってわけじゃないし、あくまでも推測だから。全部が全部正しいってわけではないと思ってるよ。だけど、今の高坂さんの精神状態を考えると、真島さんとの関係がなんらかの悪影響を及ぼしているのは間違いないと思う」
「……真理ちゃんは、どう思う?」
「えっ、私……私は……」
正直、図星だった。私の精神状態は、通院を開始して以降、多少のトラブルはあったが明らかに穏やかになってきている。死にたいと思う回数も減ったし、破滅願望に至ってはほとんど消滅している。
そんな中でも、心を乱すことはある。そして、そのほとんどすべてに理絵が関係しているのは事実だった。つまり、心の安定を求めるなら理絵との関係を解消したほうがいいという湯沢の主張は、少なくとも私には筋が通った主張に聞こえた。
心の安定を取るか、理絵を取るか。
答えは一つだった。
「私は……先生の言う通りだと思う」
「……真理ちゃん、それ本気で言ってるの?」
「ごめんね理絵、理絵を傷つけたくて呼んだわけじゃないの。でも、今の私、やっと、やっと落ち着いてきたところなの。治療を優先させてほしい。治ったら、きっとまた……」
「……もういい。すみません、私、先に帰ります」
「理絵、待って!」
「じゃあね、高坂さん」
そう言うと、理絵はゆっくりと診察室を出ていった。私は、追いかけることができなかった。
「高坂さん、ごめんね。これが精神科医として出過ぎた真似なのは分かってるんだ。でもね、自分をすり減らしていく高坂さんに私ができることってなんだろう、と思った時、これしか思い浮かばなかったんだ」
「……いえ、いいんです。ありがとうございます。きっと私と理絵は、今は一緒にいるべきじゃないから」
「そうだね。少なくとも私はそう思う。共依存から抜け出すには、勇気が必要だからね」
「……はい。そうですね」
「一歩を踏み出せた高坂さんなら、きっといつか、この闇からも抜け出せるはずだよ」
湯沢は、そう言って微笑んだ。
理絵を失ってからの日々は、あっという間に過ぎていった。私は心の何処かでこんな単調な日々を望んでいたのかもしれない、と思う。何もない、凪いだ日々を。
気づけば私は3年になっていて、もう夏休みだった。自宅で勉強をするだけの日々が続いたある日の夕食中、母が言った。
「ねえ真理、お母さんまとまった有給取るからさ、一緒に旅行に行かない?」
「旅行?」
「そう。最後に行ったのって、真理がまだ小学生の頃じゃない。だから。真理はなんか予定とかある?」
「予定はないけど……」
「じゃあ行こうよ。きっと、楽しいよ」
旅行か。母と二人で出かけること自体最近はまったくなかったし、いい機会かもしれない、と思う。
私は、母に聞きたいこともあれば、話したいこともあったから。
「うん、いいね。行きたい」
「ありがとう。準備は私がしておくから、真理は勉強してて大丈夫だからね。高3の大事な時期なんだから、勉強に集中してね」
「うん、ありがとう。よろしくね」
こうして、私は母と二人で旅行することになった。
旅行先は東北で、母の地元だった。母の両親、というか私の祖父母は母が若い頃に他界しており、生家はもう取り壊されていた。私はあらためて、母の強さを思う。母の生命の力強さを。迷惑をかけた日々を振り返り、ごめんね、と母に声をかける。
「私、たくさん迷惑かけたよね、お母さんに。お兄ちゃんがあんなことになったのに、私までずっと、死にたいって言ってさ」
母は海鮮丼を食べる手を止めて、ううん、と首を振った。
「迷惑なんて、思ったことないよ。子供の悩みに向き合うのも、親の仕事だって思ってるから」
「でも、私が飛び降りた時、お母さんを泣かせちゃったよね」
「あれは……うん、悲しかったのは本当。相当キツかったね、どうしても、智樹のことが浮かんできて」
智樹は兄の名前だ。私は申し訳なさで、涙を堪えられなかった。
「本当に……ごめん。ごめんね、お母さん。今さら謝っても、遅いけど」
「泣かないで、真理。それに、全然、遅くなんてないよ。最近の真理はすごく穏やかだしね……ううん、前までの真理だって、今の真理だって。どんな真理でも、私は心の底から愛してるよ。だから、お母さんには何でも言って。何でもだよ」
「うん……ありがとう、お母さん。私も、愛してるよ」
海鮮丼は少し残してしまい、母に食べてもらった。胸がいっぱいで、食べ切れそうになかったから。
「お母さんはさ、智樹について……どう思ってたの?」
旅館の一室で、私は母にそう問いかける。母は緑茶をゆっくりと一口飲んで、口を開いた。
「難しいね、智樹のことは。もちろん、真理と同じように愛していたし、同じように心配もしていたよ。でも、智樹は……真理よりもずっと、死にたいって気持ちが強かったんじゃないかな。それを止められなかったのは、親としての、私の責任だって、ずっと思ってるよ」
そう語る母の顔には、後悔の念が濃く滲んでいた。母はまだ、あの日に囚われている。そう、思った。
助け出せるとしたら、私しかいない。
「お母さん、あのね。私、智樹はどう頑張っても引き留めることなんてできなかったと思う。ううん、そもそも、引き留めるなんてこと、筋違いなんだと思う。私は。死にたかった智樹の気持ちを、お母さんは尊重してあげたんだって、そう思うことはおかしいことかな?」
「尊重してあげたって……私はそんなこと思ったことは、一瞬たりともないよ」
「それは分かってる。でもさ、智樹は絶対に、確実に、死にたがっていた。死に向かっていた。それは、妹の私にもよく分かっていたんだよ。お母さんならもっとよく分かっていたでしょ?でも、お母さんはすごく、すごく心配はしていたけど、直接的に止めようとはしなかったよね」
「それは……本当に、後悔している。あなたの肉親を奪ってしまったこと、言葉でいくら取り繕ったって、許してもらえるとは思っていないけれど」
母はそう言って、娘の私に頭を下げた。
違う、違うんだよ、お母さん。
私が言いたいのは、そうじゃない。そういうことじゃないんだよ。
「ううん、お母さん、違うの。責めたいわけじゃないし、全然、違うの。私が言いたいのは……難しい、言葉にするのって難しいね。それが智樹に対する、一番誠実な態度だったんじゃないか、ってことなの。智樹は、こんな言い方間違っているかもしれないけれど、安心して、幸せに死ねたと思う。お母さんは私に対してもそうだけど、引いた線より内側には入ってこないよね。それが、お母さんの誠実さで、それに私も智樹も救われてきた」
「それは……臆病なだけだよ、お母さんが」
「ううん、絶対に違う。臆病なだけなんかじゃない。臆病だったら、もっと踏み込んでくる。勇気があるから、なんだよ。お母さん。子供を失うことを恐れない親なんていないって、今の私なら分かる。迷惑ばっかりかけてきたけど、本当に親不孝な娘だけど、お母さんの優しさには本当に感謝してる。智樹もきっと、そういうと思う」
母の頬を、一筋の涙が伝う。こんなときでも泣きじゃくる姿を見せない母を、私は心の底から、かっこいいと思う。
「……私はね、真理。あなたのことも智樹のことも、よく分からないんだ。もっと知りたいと思うけど、あなたたちは繊細だから、素手で触れたら壊れてしまいそうな気がして」
「……うん」
「だからね、私なりの、臆病なりの愛し方で、愛情を伝えてきたつもり。それが間違っていたんじゃないかって、思ったこともあったけどね」
「うん」
「そうじゃなかったって、思ってもいいのかな。真理も智樹も、愛しい私の子なの。生きていてももういなくても、そんなの関係ないの。ずっと、一生、私の宝物」
「私にとっても、お母さんは、一生お母さんだよ」
「真理……もう、死にたいとは思ってない?」
「うん、思ってない。心配ばっかりかけて、本当にごめんね」
母は「本当だよ、もう」と言って、泣きながら笑った。
こんな笑顔を見たのは、あの日以降初めてのことだった。




