最終話 流浪
夏が終わった。私はもう、死にたいと思うことはなくなっていた。むしろ、母のために生きなければならないと思う。生き抜くしかないと。そう、思っていた。
進路希望調査票を提出するために職員室に向かう途中、偶然、理絵と会った。
私と理絵は診察に同行してもらったあの日から、一度も口を利いていなかった。お互い避けるように行動していたことに加え、3年になってクラスが別になったことで、会う機会も減ったからだ。
「高坂さん、久しぶり」
「理絵、久しぶり」
「高坂さんは、進路どうするの?」
「私は……看護学校に進学するつもり」
「そうなんだ。私は就職するよ」
「そう……意外かも。理絵は、大学に行くと思ってたから」
「私もそうしたかったんだけど、親が地元から出してくれなくて」
「そ、そうなんだ……ごめんね、なんか」
「高坂さんは私のこと、不幸だって思う?」
理絵は私に一歩近づいて、そう問いかけてきた。
「不幸……どうなんだろう。不幸、と言えばそうかもしれないね」
「見下してるんだ?」
「別に……見下してなんて、いないよ」
「私は、見下されているように感じる。いいよね高坂さんは、自分で好きな道を選べて」
「そんな、そんなこと……。というか、理絵も看護学校に行けばいいじゃん。それならこの街から出ないで済むし」
「そんな、いまさら高坂さんと同じ学校になんて……」
「……あの時、拒絶するみたいな感じになっちゃって、本当にごめんね」
私は丁寧に頭を下げた。理絵とは、喧嘩したまま別れたくなかったから。
「……別に、いいけど」
「本当にごめん。でも私、理絵のこと嫌いになったわけじゃないから。それだけは、伝えておきたくて。理絵は、私のこと嫌いになった?」
「そんな……ずるいよ」
「どうなの?」
「……嫌いになって、ないよ。付き合ってた頃のことは、私にも悪いところがあったと思うし……」
「じゃあ、昔みたいに真理ちゃんって呼んでくれる?」
「……もう、仕方ないなあ、真理ちゃんは!」
理絵はそう言って、私に抱きついてきた。
その勢いで、私は尻もちをついてしまう。理絵は私に乗りかかったまま、泣き出した。
「真理ちゃん、病気は良くなった?」
「いてて……うん、良くなったよ」
「もう、死にたいとは思わない?」
「思わない。お母さんのためにも、理絵のためにも、生きなきゃいけないって思ってる」
「もう、命綱じゃなくてもいい?」
「うん。ごめんね。辛い思い、させたよね」
「私、何も分からなくなっちゃって、真理ちゃんに変なことたくさん言っちゃった。嫌な女だったよね」
「それは……ふふっ、そうかも?」
「あれは素の私じゃないから!」
「分かってるよ」
そう言って、私は理絵を引き寄せて、キスをした。キスは、私なりの愛情表現だから。
言葉より行動のほうが伝わることも、あるはずでしょ?
「ま、真理ちゃん、ここ廊下だよ!」
「知ってるよ。見られても、別に困らない」
「私が困るよ!」
「……ごめん」
一瞬見つめ合い、示し合わせたかのように二人で笑い出した。やっぱり私たちは、通じ合っている。
理絵のことが愛おしい。あの頃よりも、ずっと。
「理絵」
「なーに?」
「私と、付き合ってほしい」
「……それ、同情で言ってる?」
「本気で言ってる」
「私、重いよ?」
「知ってる」
「じゃあ、貰ってもらうかな」
「大事にするよ、一生」
「もう離さないからね!」
そうして私たちは、もう一度キスをした。
先生に見られていて、こっぴどく怒られたけれど。
理絵と復縁した、と湯沢に伝えると、湯沢は苦笑した。「もう少し時間が必要だと思ってはいるんだけど」と前置きして、湯沢はこう言った。
「高坂さんは、真島さんのことを、本当に愛しているのかな?」
「本当に、と言うと?」
「私には、まだ真島さんに縛られているように感じられてならないな。そもそもの話になってしまうけれど、高坂さんは、自分の意志で何かを決めたことってある?」
「それは……ある、と思います」
「本当にそうかな」
例えば、と言って、湯沢は私の目をまっすぐに見て言葉を続ける。
「真島さんと最初にお付き合いを始めた時はどうだった?」
「あれは……私が自殺未遂をして、理絵が私を心配して泣いてくれて、そして理絵を愛おしいと思って。自然に、付き合うことになりました」
「それが私にはどうも、腑に落ちないんだよね。誘導されていたように感じるんだよ」
「誘導されていた?」
「真島さんと高坂さんは、もともと友人だったんだよね?」
「はい。親友でした。少なくとも、私にとっては」
「高坂さんに希死念慮があるのは、真島さんは元々知っていたんでしょ?」
「はい。伝えていたので」
「その時、高坂さんは揺らいでいたわけだよね。今まではただの希死念慮だったけれど、実際に自殺未遂として行動に移した。かっこよく言えば、死と生の狭間で揺らいでいたわけだ。そこに付け込まれたんじゃないか、と私にはどうしても思えちゃうんだよね」
「それは……。そうじゃない、とは言えないですけど。私には、理絵の心は分からないので。でも、先生はどうして、そこまで理絵のことを敵視するんですか?」
私がそう言うと、湯沢は不思議そうな顔をした。
まるで、「そんなことも分からないのか」と言われているようだった。
「敵視なんてしていないよ。ただ、私が高坂さんから聞いた話を総合して判断すると、高坂さんにとって、真島さんとの関係を継続することはマイナスになると言わざるを得ないってだけで」
「マイナスになる?」
「うん。それも、かなり明確にね。減薬の件もそうだよね。そりゃ私にとってもね、高坂さんが薬を減らす方向に進んでくれたこと自体はありがたいことだったんだよ。でもね、薬を無理やり捨てさせる、それも暴言まで吐いてっていうのは、あからさまに支配の色が見えるから。かなり危うい関係性だと私には思えるんだよね」
「それはそうですけど、今の理絵はあの頃とは違うんですよ。謝って、くれましたし……」
「でも、半年以上喋ってなかったんでしょ?情報が不足してるから何とも言えないけど、今回のことだって、いくらでも取り繕えると思うけどね、外面のことは」
「そんな、そんなこと……」
「ああ、ごめん、否定しているわけじゃないんだよ。本当に真島さんは改心しているのかもしれないし、内面のことは私にも分からないから。でも、もうちょっと注意したほうがいいんじゃないかなっていうのは、本心かな。私は、患者さんに傷ついてほしくないんだよね」
「……はい。ご忠告ありがとうございます」
確かに、理絵はどうしてあそこまで急激に私への態度を軟化させたのだろうか。そう考え始めると、もう頭の中は疑問で埋め尽くされていた。
「うん。まあでも、それも青春なのかもしれないしね。また、余計なことを言っちゃったかな?」
「いえ。考えたら、ちょっと気になるなと思ってきました」
「いずれにせよ、私は高坂さんの味方だから。寛解まで、伴走させてね」
湯沢はそう言って、いつものように微笑んだ。
私は、どちらを信じればいいのだろうか。
そんな悩みを抱えながらも、理絵と復縁してからの日々は穏やかに過ぎていった。以前のようにカフェでデートをしたり、図書館で二人で勉強をしたり。理絵は進路を私と同じ市内の看護学校に変更し、絶対に二人で合格しようね、と意気込んでいた。
ある日の放課後、私は理絵を自宅に招いて勉強会を開いた。今思えばこれは、理絵と私の関係は、曇りのない健全なものなんだという、湯沢への抵抗だったのかもしれない。
「真理ちゃんはさ、私のこと好き?」
理絵が勉強の手を止め、そう問いかけてくる。復縁してから、理絵はこうした質問を繰り返すようになっていた。まるで、私が理絵を本心では好きではないことを、見透かしているかのように。
「好きだよ。いつも言ってるじゃん」
「えー、なんか軽いなあ。そんなんじゃ、信じられないよ」
そう言って、私の腰に手を回してくる。
「ねえ、真理ちゃん。私、真理ちゃんのことが大好きだよ。本当に、愛してる」
「……うん、私も、愛してるよ」
「真理ちゃんが私のこと好きじゃなくても、疑ってても、そんなの、どうでもいいことなの。私にとっては、私が真理ちゃんのことを好きなら、それでいいの」
「理絵……」
「愛はね、一方的でもいいの。通じ合えなくても、それでも。私が好きなら、それで」
口が渇くのを感じる。静寂が部屋を包み込んでいる。まるで、世界に私たち二人しか存在しないかのように。
「ねえ真理ちゃん、合格したら、二人で一緒に住まない?」
「……どうして?」
「だって私たち、恋人でしょ?」
「……うん、そうだね」
「もう一生、離さないから」
そう言って、理絵は私を強く抱き締めた。
もう、秋はすぐそこだった。
秋がやってきた。あの日から、希死念慮に再び襲われるようになっている。私はそのことを、ひどく他人事のように感じていた。以前のように破滅願望が浮かぶことはない。ただ、ずっとうっすらと死にたいと感じる。それは身体の外側に薄い膜が張られているようで、社会との隔絶を私に感じさせた。落ち着くな、と私は思う。私は、一人が好きなのだろうか。本当は、誰とも関わりたくないのかもしれない。
ある土曜日の夜、理絵から電話が来た。出ると、母はいるか、と聞かれた。今日は夜勤でいないと伝えると、今度は今から家に行ってもいいか、と聞かれた。了承すると、理絵は喜んでいた。
私はもう、全てがどうでもよくなっていた。湯沢の言っていたことは本当だったな、といまさらながらに思う。理絵の存在は、私の心を乱し、精神状態を悪化させる。
ただ、私に拒絶の意思はなかった。湯沢の言った通り、私は自分では何も決められない人間だ。流されるまま、ここまでたどり着いた。
なら、最後まで流されるのもいいかもしれない。ぼーっとしながら、そんなことを考えていた。
チャイムが鳴る音で目が覚めた。時計を確認すると、5分ほどしか経っていなかった。ふらふらとした足取りで玄関に向かいドアを開けると、理絵が立っていた。
「ごめんね遅くに。寝てた?」
「電話の時は起きてたんだけど、今ちょっと寝ちゃってた」
「ごめんね。上がってもいい?」
「どうぞ」
部屋に招き入れると、理絵はバッグから煙草とライターを取り出した。
「見て、これ。お父さんの部屋から盗んできたんだ」
「……そう。それだけ?」
「それだけって、私結構緊張したんだよ?」
「ごめん、ごめんって言うか、これ怒らなきゃいけないところなのかな?」
「ふふっ、私は真理ちゃんなら怒らないと思ってたよ」
理絵は、そう言って煙草を1本抜いた。
「真理ちゃんは、吸ったことある?」
「ごめん、ある」
「あるのかー。初めての煙草を一緒に吸うのって、なんか感傷的でいいなって思ったんだけど」
「確かに、映画みたいかもね」
「私たち、ちょっと痛いね」
私たちはそう言って笑い合った。今この瞬間を、閉じ込めるように。
痛みから、目を背けるように。
「ベランダで吸おうか」
「うん」
ベランダに出ると、秋の暑くも寒くもない風が、優しく私たちの身体を撫でた。
「息を吸いながら火をつけるんだよ」
「ちょっと緊張する、かも」
「大丈夫、そんなもんだよ」
私はそう言って、先に煙草に火をつける。煙を深く吸い込んで、吐き出す。
ふと空を見上げると、綺麗な三日月が浮かんでいた。




