第3話 疑念
薬を捨てた。捨てさせられた、と言った方が正しいのかもしれない。
「理絵……これでいいの?」
「うん、ばっちりだね」
理絵はナイスナイス、とニヤニヤしながら言うと、早く帰らないと親に怒られちゃう、と言って自転車の荷台をポンポン、と優しく叩いた。
私は、ため息をつきながら荷台にまたがった。冷えたアルミニウムの感触が、ズボン越しに太腿に伝わってきた。
理絵は電話の最後、私に薬をすべて持って自分の家に来るように、と言った。
言われた通りに理絵の家に向かうと、理絵は自転車にまたがって待っていた。後ろに乗ってよと言われ、また言われた通りに荷台にまたがる。初めての二人乗りがこんな展開で訪れるとは、予想していなかった。
向かった先にあったのは、川だった。名前だけは知っている、私たちの街にある、唯一の川。
「なんで川……?」
「そりゃあ、薬を捨てるからだよ」
「捨てる……薬を……?」
「さっきの電話の話、忘れたの!」
キッ、と私を睨むと、理絵は強い口調で私を詰る。
「真理ちゃんは薬でダメ人間になってるんだよ!」
「ダメダメの、クズ!」
「私がこうしないと、真理ちゃんは地獄まで落ちていくよ!」
「私のおかげで元に戻れるんだよ?」
「ねえ、聞いてるの?」
耳元で囁かれ、遠くに飛んでいた私の意識が現実に戻ってくる。
「ああ、ごめん……聞いてるよ」
「真理ちゃんのためなんだよ、全部」
「うん……ありがとう」
「じゃあ、捨てようね。全部ここから投げちゃおうよ」
「全部は……無理だよ。離脱症状とか、怖いしさ。一部にしない?」
「ええー、離脱症状……。まあ、しょうがないかあ。じゃあ、私が残すの選ぶね」
心底嫌そうな顔をしながら、理絵はこれはダメ、これはいい、とつぶやきながら薬を選別していった。
私の命綱になってくれた、薬たち。
それらがまるで剪定するように川に投げられていくのを見て、私の心はキリキリと痛んだ。
理絵が、悪魔に見えた。
本当に、理絵を、理絵だけを頼って大丈夫なんだろうか?そんな疑問が頭をもたげる。
気がつくと、私は理絵の後ろに立っていた。川に顔を向けて座っている、理絵の後ろに。
今背中を押したら、どうなるんだろう……?
心臓が脈を打つ。鼓動の音が、耳のすぐ横で鳴っているようだった。
「どうしたの、真理ちゃん」
唐突に振り返った理絵の顔には、見透かしたような笑みが浮かんでいた。
帰り道、私は一言も言葉を発しなかった。理絵は一人でずっと喋っていた。特に私の返答を待っているわけでもなさそうで、でも決して、さっきの私の行動には触れなかった。
「じゃあね、真理ちゃん。気をつけて帰ってね」
気がつくと、時刻は23時を回っていた。
「薬はちゃんと用法用量を守ってね」
理絵はそれだけ言うと、さっさと家の中に入っていった。取り残された私は、暗い夜の道を歩きながら考える。
理絵は、私を支配しようとしているのではないか。
私の命綱になる。理絵はあの時、確かにそう言った。今でもその瞬間を鮮明に思い出せる。夕日に照らされた、美しい理絵を。
だが、理絵の思いと私の思いが、すれ違っているのだとすれば。死にたい私と、私を死なせたくない理絵。最初から、それは分かっていたはずなのに。
私は急に、どうしようもなく悲しくなってきて、涙を抑えることができなかった。
涙がコンクリートのシミになっていくのを、呆然と立ち尽くしながら眺めていた。
翌日、湯沢にもう薬は必要ない、と伝えると、湯沢はあっさりと薬を減らした。離脱症状が出るかもしれないから、なくすことはできないけどね、と付け加えて、湯沢はこちらに向き直った。
「ごめんねー、いっぱい薬出して。ヤブ医者だって思ったでしょ?」
「いえ、そんなことは……」
図星だった。正直、私はこの医者を優しい先生だと思ったことはあっても、優秀な精神科医だと思ったことはなかった。
「のびのびと、ってのがね、私の診療方針なの」
「のびのび、っていうのは?」
「そのまんまの意味。言い換えると、患者に負担を与えないって感じかなあ。なるようになるって言ってもいいかも」
「なるように、なる……」
「そう。なるようになる。結局、真理ちゃんは減薬の方向に動いてくれたでしょ?」
「まあ、そうですね」
「ホメオスタシスって言うのかな。精神も、あるべき場所に戻ってくるっていうのが、私の持論なんだよね。こんなこと言うと、全国の精神科医の皆さんに叱られちゃうけどね。真理ちゃんの希死念慮も、そのうちなくなると思うよ。根拠はないけどね」
湯沢は笑ってそう言うと、余白の多い処方箋を私に手渡した。
なるようになる。その言葉が、私の頭から離れなかった。と同時に、この人が主治医で良かった、と心の底から思った。
説教されるのは、昔から苦手だったから。
薬を捨てたこと、処方も減ったことを母に連絡すると、母からは感涙している猫のスタンプが送られてきた。私はあらためて母に心配をかけていたことを後悔する。私は確かに死にたいけれど、それを選べば母が涙することも分かっている。そもそも、自殺は他人にも迷惑をかける行為だ。私は他人に迷惑をかけることを何とも思わないような人間にはなりたくない。その気持ちが、私を現世に縛り付ける鎖になっているのかもしれない。
病院から自宅へと帰るバスに揺られていると、車窓から廃工場が見えた。最近はずっとバスでは俯いていたから、見るのは初めてだった。錆びた外壁と伸び放題の雑草が、逆に新鮮に映る。
いつか死ぬなら、ここがいいかもしれないと思う。誰も来ないだろうし、ずっと放置されているように見えるから、きっと迷惑もかからないだろう。家出しますと書き置きしてあそこで死ねばいい。そう思った。
少し考えてから、不良がたむろしている可能性もあることに思い至った。危ない。死ぬ前に知らない男に犯されるなんて最悪の経験をするのだけは避けたかった。
そう思ったあと、私は本当に死にたいのだろうか、と考える。死にたくないのかもしれない。だって、死にたい、死にたい、と思いながらも、考えているのは先のことだ。
死にたくなかったとして、どう生きればいいのだろうか。その問いの答えは出ないだろう。きっと。いつまでも。
「真理ちゃんは、どこに行きたい?」
「うーん、別にどこでも」
「えー、そんなの嫌だよ。適当に決めるのは嫌。ちゃんと考えて?」
「だって、行きたいところなんてないもん」
「私だってないよー。でも、せっかくのデートなんだから。楽しみたいよ」
理絵が付き合って3ヶ月記念のデートをしようと言い出したのは、年末の、雪が降る日のことだった。とてつもなく寒くて、歩きながら吐き出した白い息をぼーっと見つめていたのを覚えている。
「デートなんて、いつもしてるじゃん。理絵はなんでそんなに場所にこだわるの?」
「えー。だって、場所って意味でしょ?」
「意味?」
「うん、場所って、意味だよ。そこにいることの意味、会うことの意味、全部の意味」
「ちょっと観念的すぎて、よく分からない」
「うーん、私も分からないんだよね」
「じゃあ、なんでそんなこと言い出したの」
「そう思ったから。分からないとダメかな、全部」
そう言われると、分かること、理解することはそこまで重要じゃない気がしてくる。
理解しないままでも、通じ合うことはできるから。そう、信じたいから。
「ダメじゃないよ。全然。良いと思う」
「よかった。こういうところ、恋人同士っぽくて、良いよね」
「どういうところ?」
「んー、繋がってるところ?」
理絵はそう言うと、私の左手を掴んだ。
「真理ちゃん、デートはやっぱり、いつものカフェにしようか」
「うん。それが良いと思うな、私も」
「でもいつもの何倍も、話題が尽きても、いくらでも。いっぱい話そうね」
「うん。約束する」
私はそう言って、理絵にキスをした。
驚いた理絵の顔は、こんなに寒いのに、火傷しそうなくらいに真っ赤だった。
12月31日。大晦日。私は一人、自分の部屋で紅白歌合戦を観ていた。こんな日でも母親はいつも通り夜勤で、私はその勤勉さを素直に尊敬していた。私にはないものだ、と思う。父親とは会ったことがないけれど、私は父親の遺伝子を濃く受け継いでいるのだろうか、とふと思う。
画面では、顔を見たことはなかったけれど聴いたことはある曲を、女性アイドルグループが歌っていた。可愛いなと思うと同時に、私は同性愛者なんだろうか、と悩む。これは最近ずっと悩んでいることだった。
私は、理絵が好きだ。たまに怖いな、と思うことはあるけれど、まあ、概ね好きだ。大好きと言ってもいいだろう。愛している、と言葉にするのは、妙に照れくさいけれど。
だが、理絵以外の女性に、性的に惹かれた経験はなかった。正直に言うと、理絵への愛情が性愛かどうかも分からない。そうした行為をしたことはないし、その区別をつけるには、あまりにも経験が乏しい。だから、私は悩む。私は同性愛者なのだろうか。
まあどうでもいいか、という結論に至るまで、そう時間はかからなかった。単純に、悩むのに飽きたというのもある。毎回飽きてどうでもいいと投げやりになって、また悩むことを繰り返している。ただの問題の先送りだろうと言われると、ぐうの音も出ない。
でも、今はこれでいい。もうすぐ年明けだというのに、悩んでいるのはもったいない気がした。
死にたくても、今日くらいは、いや、今日明日くらいは、穏やかでいたかった。
年が明けても、私と理絵の関係には穏やかな空気が漂っていた。あの日、川辺での理絵はなんだったのだろう。人が変わったような、あの態度は。私はそんな疑念を振り払うために首を振って、廊下を歩く理絵の背後から声をかけた。
理絵は振り向くと、どうしたの、と笑みを浮かべた。
「理絵、あのさ、今度、病院に一緒について来てくれないかな」
「いいよ、一緒に行こ!」
「……嫌じゃないの?」
「嫌じゃないよ。私も、真理ちゃんの担当の先生と会ってみたかったし」
本心からそう思っていることが、目と態度から伝わってくる。私は胸をなで下ろした。
「良かった、断られると思ってたんだよ」
「断らないよ、真理ちゃんの頼みは」
「それもちょっと困るけど……理絵は、私の言いなりにはならないでほしいな」
「なんでそう思うの?」
「それはなんか……対等じゃない気がするから。健全な関係とは言えない気がするし」
「健全な関係なんて言葉、真理ちゃんの口から聞くなんて思ってなかった」
そう言うと、理絵は薄笑いを浮かべた。
「真理ちゃんって、まっとうな人間になろうとしてるよね。今さらそんなの、なれるわけないのにさ」
「理絵……なんでそんなこと言うの?」
「私が好きになった真理ちゃんは、もっと儚くて、物憂げで、女王様みたいで……。でも今の真理ちゃんは、ただのちょっと悩みが多い女子高生だよ」
「……それじゃ、ダメなの?」
「ダメじゃないよ。可愛いと思うし、抱きしめてあげたいとも思う」
「じゃあなんで、そんなひどいことを私に言うの?」
「……ううん、なんでもない。やっぱり、今のは忘れて」
「そんなの無理だよ……」
私と理絵の間に、沈黙が横たわる。私は理絵の真意を測りかねていた。なぜ、今このタイミングでこんなことを、面と向かって言ってきたのだろうか。
川辺で、私が理絵の背後に立った時の、振り返った理絵の笑み。あの場面がフラッシュバックする。あの時、理絵は何を思ったのだろう。あの、見透かしたような笑み。
「ううん、忘れてよ。絶対」
「……努力するよ」
「うん、ありがとう、真理ちゃん」
理絵はそう言うと、私に背を向けて廊下を歩き始めた。私はその背中を、立ちすくんだまま眺めていた。遠い、と思う。私と理絵の距離が。こんなにも遠い。
すると、理絵が急にこちらを振り向いた。そういえばさ、と前置きして、理絵が口を開く。
「真理ちゃんってもう、死にたくないんじゃない?」




