第2話 崩壊
私の家は、ごく普通のアパートの4階にある。角部屋で、日当たりも良い。
珍しく早く帰ってきて、西日が差し込む自室で本を読んでいると、鍵を開ける音が鳴った。
玄関に向かうと、母が買い物袋をぶら下げて立っていた。母は夜勤の看護師をしているから、私とは生活リズムがズレている。だから、母と会うのは久しぶりな気がした。
「おかえり、重くなかった?」
「ううん、大丈夫。真理、こんな時間に帰ってるの珍しいね」
「今日はそういう気分だったの。お母さんにも会えたし、ラッキーだったかも」
「お母さんも嬉しい。最近、顔を合わせてなかったもんね」
母はそう言って手洗いを済ませると、私が好きな青椒肉絲を作り始めた。いつもは作り置きを食べているから、できたてを食べるのは久しぶりだ。少し、テンションが上がる。
「はい、できたよ」
「うん、ありがとう」
母娘揃っての夕食は久しぶりだから、うっすらと緊張感が漂っている。
カチャ、カチャ、と箸と食器がぶつかる音だけが、部屋に空々しく響く。
「……真理、聞きたいことがあるんだけど」
唐突に、母が口を開いた。
「何?」
「もう、死にたいとは思っていない?」
「思ってるよ」
私がハッキリとそう言うと、母はそうだと思ってた、とわりと落ち着いて答えた。
「ねえ真理、私はあなたのすべてを管理できるなんて、そんな思い上がりはしていない」
「うん」
「だけどね、お兄ちゃんに続いてあなたまで失うなんてことになったら、もう耐えられないの。それだけは覚えておいて」
「うん」
私と母は、兄を自殺で亡くしている。私の希死念慮はそのずっと前からあるものだから兄の自殺は関係ないんだけど、母はそれを私に重ねている節がある。
「だからね、真理。病院に通ってほしいの」
「病院って、精神科?」
「そう。この前は私が無理を言って開放病棟に入れてもらったけど、次自殺未遂なんてしたら閉鎖病棟だからね?」
「分かってるよ。看護師さんにも、医者にもそう言われたし」
「うん。だからもう、自殺未遂なんてやめてね?ああ、未遂だけじゃない。自殺もやめてね」
「うん」
「でね、病院に通ってお薬を飲めば、あなたの苦しみもかなり軽減されると思うの。もう予約は取ってあるから、お願いだから通院してほしい」
「分かったよ。行ってみる」
そう言うと、母は目に涙を浮かべて、ありがとう、と言った。
この街に精神科は一つしかない。大学病院に附属しているそこへ向かう足取りは、自分が想像していたより軽かった。
正直あまり気乗りしないだろうと自分で想像していたのだが、思ったより楽しみにしている自分がいた。何より、精神薬の服用という部分に荒廃した雰囲気があって、私の逸脱願望を満たしてくれるのではないか、という期待があった。
受付で予約している高坂です、と名乗り診察券を渡し、待合室の椅子に座る。硬く、ところどころ破けた椅子は、この街が緩やかに死に向かっていることを雄弁に語っている。
20分ほど待っただろうか。高坂さん、高坂真理さん、と呼ばれ、私は診察室へと向かった。
担当医は30代くらいに見える比較的若い女性で、私を見つめる視線は慈しみに満ちていた。
「高坂真理さん、担当医の湯沢と言います。よろしくね」
「湯沢、さん。はい。高坂です。よろしくお願いします」
「答えにくいことがあったら、遠慮なく言ってね」
「はい、分かりました」
簡単な生い立ちの質問から始めて、徐々に現在の問題へと移していく、と湯沢は言った。実際その通りの流れになり、質問は自殺未遂のきっかけに入っていく。
「答えにくかったら言ってね。自殺未遂についてなんだけど、お兄さんの自殺は関係あるのかな?」
「ありません」
「うん、ありがとう。じゃあ、自殺未遂に至ったきっかけは何?」
「きっかけというきっかけは、存在しないんです。ずっと、強い希死念慮があって」
「うん」
「死ななくちゃいけない、って思うんです。私は死ななくちゃいけないんだって」
「うん」
「自分を卑下しているとか、そういうんじゃないんです。特に理由はないけれど、死なないといけないって、誰かに命令されているように、そう思うんです」
話していて、なぜか涙が溢れてきた。湯沢はそんな私を穏やかな表情で見つめ、相槌だけを返してくる。
「破滅願望……というか、逸脱したいという気持ちも強くあります」
「うん。それは、具体的には?」
「万引き……とか」
「うん。それだけ?」
「未成年飲酒とか……」
「他には?」
「特にしてません」
「じゃあ全然問題ないね」
湯沢は大して関心のない様子で、PCに問診内容を打ち込んでいく。
「怒らないんですか?」
「怒らないよ。こんなのよくある話だし」
「よくあるんですか?」
「よくあるよ。違法薬物とかもね」
「違法薬物……」
「それだけはやっちゃダメだよ?」
湯沢はそう言って笑うと、私に向き直ってこう言った。
「高坂さんの問題点は、自己肯定感の低さだね。それが、強い希死念慮とも繋がってるんじゃないかな」
「あ、それ……理絵にも言われました」
「お友達?」
「お友達……恋人です」
「いいねえ、青春だ」
湯沢はそう言って笑うと、何種類か抗うつ剤を出しておくね、と言った。
1種類じゃないんだ、と素直に思ったのを覚えている。
次の予約は2週間後だった。
自宅に戻って薬が処方されたことを母にメールで伝えると、ちゃんと飲んでね、と念押しされた。飲みます、と返信した後、実際に昼の分のデパスを服用した。
20分ほどで頭がぼんやりとしてきて、気持ちが凪いでいくのを実感する。と同時に横にいたはずの希死念慮と破滅願望の輪郭が曖昧になっていく。
私を私たらしめていた要素が分解されていく。穏やかな気持ちの中で、私ってこんな、神経に支配されていただけの単純な生き物だったんだ、という落胆が浮かんでくる。
なんだか無性に、理絵に会いたい。
私は理絵に会いたいとメールを送ると、夜の分のデパスも同時に服用した。
「どうしたの?急に」
理絵の家の近くの公園で落ち合うと、開口一番そう聞かれた。
「なんか、理絵に会いたくなっちゃって」
ヘラヘラとした調子でそう言うと、理絵は心配した様子を見せる。
「なんか……雰囲気違うね。何かやってる?」
「何かって?」
「例えば……薬、とか」
「せいかーい」
「く、薬をやってるの? それはダメだよ」
「薬って言っても、処方されたやつだよ」
「病院に……行ったの?」
理絵は、顔を青くしてそう言った。
「うん、親に言われて」
そう言うと、理絵は下を向いてブツブツと何かを言い始めた。かと思うと、今度は顎に手を当てて考えるポーズを取った。
計算された、自分が一番可愛らしく見えるポーズだ。
反吐が出る。そう思った。
と同時に、抱きしめたいほど愛おしいとも思った。
相反する感情が渦巻いては、薬の作用で凪いでいく。さっきからそれの繰り返しだ。
「考えたら、自殺未遂してるんだもんね、真理ちゃんは。病院に行くのも当然か」
「まあ、そうかもね」
「お薬は効いてるの?」
「ばっちり」
「じゃあ、よかった」
と言うと突然、理絵が私を抱き寄せてきた。体温を感じて胸が高鳴る。ヨレていた私は、思わず抱き返してしまう。
理絵がふふっ、と笑う。
「外でこうしてると、なんだかバカップルみたいだね、私たち」
「ラブラブってわけね」
「真理ちゃん、大好きだよ」
「私も、理絵が大好き」
秋麗のぬるい太陽に照らされて、私たちは抱き合っていた。
幸せとはこのことか、と思う。
願わくば、永遠に続きますようにと。
薬を飲み始めてから、私の日常は着実に侵食されていった。希死念慮と破滅願望は鳴りを潜め、穏やかに日常が過ぎていった。
私は、絶望していた。気持ちは穏やかだが、確実に自分が変化していく。させられていく。その感覚は、無邪気に羽をむしられる虫に似ていた。
私にはもう翼はない。そう思った。
そう思った理由は他にもある。薬の服用を始めてから、理絵の私に対する態度が変化していった。
まるで、私に興味がなくなったかのように。
「理絵、一緒に帰ろう?」
「ごめん、真理ちゃん。今日は予定があって……」
そう言うと、理絵は足早に教室をあとにした。
避けられている。理絵が私との下校を拒絶するのは今日で5回目だった。理由は分からない。ただ、避けられていることだけは分かる。
どうしてなんだろうか。私は考える。私に魅力がないから?
そんなことは、考えたくない。考えたくないよ、理絵。
どうしようもなく苦しい時に、と言われて処方されたデパスとワイパックスとソラナックスを、何錠かまとめて口に放り込む。
どのくらい待っただろうか。頭がぐわんぐわんと揺れるような感覚に襲われる。気持ちが良い。気持ちが良い。
ヨレたまま帰路をたどる。するといつの間にか家に到着していて、私は手間取りながら鍵を取り出し、家に入る。
兄はどうして死んだのだろう。急にそんな感情があふれてきて、困惑する。なんで今、そんなことを思うのだろうか。
兄が死んだ時、私は何も感じなかった。兄は常に濃い死の空気を纏っていたし、いつか死ぬだろうと思っていたからだ。それを感じていたのは私だけではなく、母もだった。母は常に兄を心配し、声をかけていた。
でも、無駄だった。兄は死んだ。自殺した。羨ましくもなければ、悲しくもなかった。
兄の部屋に入る。机とベッド、本棚以外は何もない、簡素な部屋だ。兄が死んでからもあの時のまま残されているのは、母の心の整理がまだついていないからなのだろうか。
「お兄ちゃんは、いつから死にたかったの?」
そんなひとりごとを口にしながら、兄の机の引き出しに手をかける。
そこには、睡眠薬が大量に入っていた。
驚いて、一瞬時が止まる。
どうしてこんなに大量の睡眠薬がここにある?処方されたものではなく、個人輸入したものであるのはすぐに理解できた。ここにある睡眠薬は、ネットでも有名な個人輸入品、ハイプロンだったからだ。
これを飲んで、首を吊ったの?
速まる鼓動を抑えられないまま、私はハイプロンをカバンに押し込んだ。
その日から、私の日常は完全に崩壊した。
まず、ハイプロンを服用してから登校するようになった。それに加えてベンゾジアゼピン系の薬も服用していたから、常時ヨレていた。2週間に1回の通院でも大袈裟に自身の抑うつ症状を話し、薬の量が増えるように誘導した。
そんな私に湯沢は困ったような表情を浮かべ、こう言った。
「本当は、入院させたいところなんだけどねえ……。もうちょっとだけ、様子を見ようか」
私は心のなかで笑みを浮かべ、はい、と答えた。
理絵との関係はさらに崩れていった。
理絵はヨレている私に軽蔑の目すら向ける有様で、会話すら拒絶するようになった。そのショックで私の薬の量はさらに増えた。
あまりにも様子のおかしい私に、母の焦りも募っていくようだった。
ある日の晩、夜勤に向かう前の母が、部屋のドア越しに声をかけてきた。
「真理、本当に大丈夫なの?」
「……大丈夫だってば」
「本当に?」
「大丈夫って言ってるでしょ!」
ドアに枕を投げつけて、私は泣いてしまった。情けなさがこみ上げてくる。
「お願いだから……放っておいてよ……」
「……死んじゃダメ……だからね」
母が家を出ていっても、私の涙は止まらなかった。
このままでは、壊れる。壊れてしまう。
死ねないまま壊れるなんて、絶対に嫌だった。絶対に。
私は意を決して、理絵に電話をかけた。
出ないだろうと予想していたが、理絵はワンコールで電話に出た。
「……理絵?」
「真理ちゃん、どうしたの?」
理絵は、学校での姿からは想像もできないほど、優しい声で話した。
「私……苦しいの」
「……ふふっ、そろそろ、電話が来ると思ってたんだ」
「……どうして?」
「真理ちゃん、最近おかしかったから」
「誰のせいだと思ってるの!」
感情が抑えきれず、思わず叫んでしまう。すると理絵は、大きな声出さないでよ、と前置きして、語り始めた。
「私のせいなのは分かってるよ。でもね、真理ちゃん。薬でおかしくなっていく真理ちゃんを見て苦しかったのは、私も同じなの。それは分かるでしょう?」
「……それは」
「違う、って言える?私が真理ちゃんをどれだけ好きだったか……ううん、どれだけ好きなのかは、知ってるでしょ?」
「……うん」
「だからね、真理ちゃん。薬なんかに飲み込まれないでよ。そんな真理ちゃん、見たくないよ」
「うん……」
ボロボロと流れる涙も気にせず、私は電話口で大きく頷いていた。
「真理ちゃんはちょっと……ううん、かなり変な人だけど、それが魅力でもあるんだよ?私が惹きつけられたように。でもね、薬に溺れるなんてありきたりな、ステレオタイプの破滅志願者に、なってほしくないの」
「……え?」
「真理ちゃんは、もっとおかしくなっていい。だけどね、薬には頼らないで。私に頼って」
「なんで……そんなことを言うの?命綱に、なってくれるんじゃなかったの?」
気づけば、希死念慮がアイデンティティなんてことを思っていたことも忘れて、素直にそう聞いてしまっていた。
「なるよ。命綱に。私が言いたいのは、希死念慮や破滅願望を吹っ飛ばすくらいの狂人になっちゃえばいいってことだよ」
「それで、なんで理絵に頼ることになるの?」
「それはね……」
理絵は、たっぷりと間を空けて言った。
「そうすれば、真理ちゃんと私、二人きりになれるからだよ!」




