第1話 命綱
秋は人を殺す季節だ。暑くも寒くもない風をベランダで浴びていると、私は死にたくなる。死にたいならさっさと切っちまえ手首、と歌っていたのは誰だったか。もう、それすらも覚えていないけれど。
「真理ちゃん、どこ見てるの?」
どこも見ていない。何も見えない。このくすんだ街には、何もない。街灯に照らされた街並みはどこまでも嘘くさくて、奥歯が痛むような気がした。
「早く、こっちに来てよ」
急かすような風に顔を顰めながら、私は2本目の煙草に火をつけた。
私、高坂真理の人生は、端的に言って最低のものだった。
どん底という意味ではない。いや、決して裕福ではなかったし、どちらかと言うと貧困寄りの家庭で育ったが、それでも不幸とは言えなかったと思う。シングルマザーだが母は私を愛してくれていたし、友人にも恵まれ、少しの不自由はありながらもある程度は満足できる青春を過ごした。
問題は、私の内面にあった。
私には、常に希死念慮と破滅願望があった。2人は片時も離れずに私の隣にいて、両腕を抱えていた。私が道を踏み外しそうになると、ご丁寧にレールに戻してくれた。
そうしてある秋の日、私はベランダから飛び降りた。
「真理、大丈夫だから。大丈夫だからね」
母の声が聞こえる。遠くから聞こえる。ここはどこだろうか。
「お母さん、信じてるからね。大丈夫、大丈夫だからね」
一体、何の話をしているのだろうか。何を信じて、何を信じないのだろう。
強烈に眠い。この眠気に身体を預ければ、死ねるだろうか。あの2人は、今でも私の隣にいてくれているだろうか。頭を撫でて、くれるだろうか。勇気を出した私のことを、褒めてくれるだろうか。
「あなたは死ねない。死なせない。死なせないからね、真理。あなただけは……」
母の声を聞きながら、私は眠りに就いた。
結局、私は死ねなかった。数カ所骨折した程度で済んだのは幸福だったのか、不幸だったのか。私には分からなかった。理解するつもりも、これ以上考える気力もない。
でも、変わりたくない。変わりたくないと強く思う。変化は恐ろしいものだ。すべては移ろいゆくものではある。それは分かっている。
ただ、こんな気まぐれな風に流されたくはなかった。
死にたくないなんて、思いたくなかった。
「真理、もう足は大丈夫なの?」
「うん、もう大丈夫。心配かけてごめんね」
「そんな、ごめんなんて言わなくていいよ」
「ううん、謝らせて。本当にごめん」
「……分かった。許すから、もう謝らないで」
「うん、ありがとう」
そう言うと、理絵は、私の唯一の親友は、涙を流した。
罪深い、と思った。自分のことを。人を悲しませる存在だと。私の「正解」は、社会の「不正解」なのだと。ぼんやりと分かってはいたけれど、あらためて眼前に突きつけられた気分だった。
そして、泣きじゃくる理絵は美しかった。憂鬱なんて吹き飛ばしてしまうほど。愛おしいと思った。
私のために泣いてくれる理絵のことが、心の底から愛おしかった。飼い犬のように。
犬を飼ったことはないから、理絵を飼おうと、そう思った。
私は、理絵にキスをした。理絵は驚いた顔をした後、顔を真っ赤にして恥じらった。今は可愛くないからとか、そんなようなことを言っていた気がする。
私は可愛いよ、と本心を伝えて、もう一度キスをした。キスは、私なりの愛情表現だった。私は口下手だから、こちらのほうが気持ちが伝わると思ったし、それは間違っていなかったと思う。
この日から、私と理絵は恋人になった。
理絵は、真面目で純粋な少女だった。高校生だというのに門限は19時で、それを律儀に守るような優等生だった。
放課後にカフェに通うのが好きで、理絵はよく私を学校近くのカフェに連れて行った。
「真理ちゃんはコーヒーばっかり飲むよね」
理絵はいつも不服そうにそう言いながら紅茶を飲んだ。私の聞いたこともない名前の紅茶を。紅茶を飲む様は優雅で、さまになっていた。そのことが少し、羨ましかった。
コーヒーを飲む私は、周囲から見たらきっと野良猫のように映っていただろうから。
「コーヒーしか飲みたくないんだもん。紅茶なんて、私には似合わない」
「そんなことないよ。真理ちゃんって、女王様みたいな見た目してるもん。儚げで、すっごく可愛いと思う」
「そんなこと言われたの、初めてだよ」
「じゃあ、真理ちゃんの魅力に気づいてるのは、私だけってことなのかな。嬉しい」
私を見つめる理絵の目は、少し怖くて。
そんなところも含めて美しいと、好きだと思ってしまう私は、年相応の少女だったのかもしれない。
そんな彼女に私は相応しくないように思えて、隣を歩くのが辛かった。それが余計に私の希死念慮を強めて、その苦しみは私を満足させた。
今思えば、悲劇のヒロイン気取りのただの子供で、そんなのは本当の苦しみとは程遠いものだったと理解できる。ただ、あの頃はその苦しみに酔っていた。強い酒を飲んだように、私は人生を千鳥足で歩いていた。
ある日の放課後、私は万引きした缶ビールをカバンに忍ばせて歩いていた。
そこに理絵が声をかけてきて、2人で帰ることになった。チャンスだ、と思い、私は万引きしたそれを理絵に見せた。
「なんで、真理ちゃんがそんなのを持ってるの?」
「それは……万引きしたからだよ、理絵」
「万引きなんて……ダメだよ。私、真理ちゃんにそんなことしてほしくないな」
「してほしくないって、何?」
なぜだか私は、無性に苛立っていた。理絵の正しさに。純粋さに。
破滅願望なんて言いながら、こんな些事にスリルを覚えている私自身に、一番苛立っていた。
理絵に見せつけるようにプルタブを開け、中身を一気に飲み干した。
「私は、正しさなんてこれっぽっちも持ち合わせていないようなクズなの。理絵は、私から離れたほうがいいよ」
「……どうして、そんなことを言うの?」
「巻き込みたくないから。私は死にたいけど、死にたくて仕方がないけど、他人をどうこうしたいっていう願望はないから」
それだけ言うと、私は後ろを振り返らずに走って逃げた。理絵の、失望したであろう目を見るのが怖かったから。
理絵の目は、あの時、何を見ていたのだろうか。
理絵が万引きを繰り返しているという噂が流れ始めたのは、それから程なくしてのことだった。
ある日の放課後、私は理絵を捕まえて問いただした。
「理絵、万引きしてるって噂、本当なの?」
「本当だよ」
理絵はこともなげにそう言った。
「なんで……なんでそんなことを」
「真理ちゃんがやってることを、私もやりたかったからだよ」
「理絵までこっち側に来る必要はないんだよって、そう言ったはずなのに」
「真理ちゃん、恋人の定義って……何だと思う?」
「恋人の定義?」
理絵の目は、熱に浮かされたように焦点が合っていなかった。
秋の乾燥した風が、2人のスカートを静かに揺らしていた。
「私はね、真理ちゃん。相手の苦しみを引き受けられるかどうかだと思うの。友達同士なら乗り越えられない壁も、恋人同士なら乗り越えられる」
「そんな……良いものじゃないよ、こんなのは。私が勝手にやったことに、理絵を巻き込んでいるだけ」
「それでもいいの。真理ちゃんは苦しいんだよね。分かるよ、私。苦しいから、誰かに助けてほしいから、あんなことをして、私に気づいてほしかったんだよね」
「そんなこと……」
そんなことはないとは言い切れない自分がいた。あの頃の私は、確かに誰かに助けてほしかった。死にたいという気持ちごと、誰かに包みこんでほしかった。
今より、遥かに弱かったから。
「ねえ、真理ちゃん。私を頼ってよ。死にたいならいつでもそう言って。一緒には死ねないし、真理ちゃんを死なせるつもりもないけどね。私が、真理ちゃんの命綱になるよ」
理絵はそう言って妖艶に笑った。
美しすぎるものを見た時に恐ろしさが先立つように、私は鳥肌を抑えられなかった。
理絵はこの時からおかしかった。
私が、私の言動が、行動が、そうさせたのだと思っていた。
その日を境に、理絵と私の距離は急速に縮まった。周囲からすれば、ごく普通の仲睦まじい恋人同士に見えていたと思う。
ただ、私は理絵が恐ろしかった。恐ろしかったからこそ、理絵という存在をより理解するために意図的に距離を縮めたというのが正しいのかもしれない。
理絵はそんな私を拒まなかった。
万引きはもうやめようと言うと素直にやめてくれたし、私が逸脱した行動をとろうとすると穏やかに引き止めてくれた。
「真理ちゃんは、寂しいんだよね」
行きつけの高校近くのカフェで、理絵は不意にそう言った。
「……寂しい?」
「そう。寂しいんだよ。だから、私がいる今は落ち着いているでしょ?」
「それは……そうだけど」
「とってもいいことだと思うな、私は。昔から真理ちゃんのことが大好きだったけど、今はもっと好き」
「ありがとう。私も、理絵のこと好きだよ」
「それは、恋人として?」
「もちろん」
「ふふっ、ありがとう」
ああ、満たされている。純粋にそう思う。
恋人がいて、死ねなくて。身を焦がすほどの苦しみと共にある。
全部終わりにしたい。
だが幸せも感じる。これは、一体どういうことなのか。
幼い、大人でも子供でもない私には、悩むことしかできなくて。
答えは、まだ出せなかった。




