第八話 はじめての感情②
必ず、また話そう。その台詞を無垢に信じていたわけではなかったが、一方的に取り付けられた約束は、まるで当然のように果たされた。
「濡れるぞ」
時季通りの雨日和。鉛色の空には小鳥の一羽も見えず、しとしとと降り注ぐ雨を──不意に、大きな雨傘が遮る。
はっと横を向くと、立っていたのは微笑みを浮かべた麗人だ。驚くより先に、その肩が少しずつ濡れ始めているのが見えて、都々は自分に向けられていた傘の持ち手を慌てて押し返した。
「おっと、強いな。だが、どうせそこに居ても濡れるんだ。こっちで一緒に入らないか?」
くすりと口端を吊り上げるのは、すっかり気安い様子の白である。
確かに白の言う通り、裏口には申し訳程度の屋根がついているだけで、雨風を凌げるほどの防御力は無い。着物の袖や裾はすっかり色を変えていて、呼び戻されたらまずは着替えなくてはいけないだろうかと考えていたところだったのだ。着替えがあるのかどうか、それを都々のために使わせてもらえるのかどうかは、別として。
雨の日に締め出されるのは、今日が初めてだった。理由は、いま目の前に立っている彼の来訪に他ならない。
突如として現れた白は、都々に向かって手を差し出している。都々は迷って──けれどその間もずっと傘を傾けてくるものだから、やがては降参してその手を取った。
「いい子だ」
指先を重ねた瞬間、痛くない程度の強さで手を引かれる。思わず蹈鞴を踏むと、白が支えるように都々の肩を抱き寄せた。ぶつかるように触れ合った体から、ふたつの体温が混ざり合う。
馴染みの無いその温度は、都々の心臓を大きく揺さぶって、けれど咄嗟に距離を取ろうと身じろげば「だから、濡れるぞ」と更に抱き込まれてしまった。
汗なんて一粒も掻いたことが無さそうな人なのに、溶けた温度はとても熱い。すんと空気を吸い込むと甘い香りがして、都々はとうとう動けなくなった。
「しかし、君の父親は……なんというか、純粋な人だな」
「……?」
「まさか、二度も同じ手に掛かってくれるとは思わなかった」
硬直が僅かに解け、顔を上げた都々に白がにやりと笑う。そして、都々の肩から離れた手が、白の懐から小さな瓶を取り出した。コルクで蓋をされた小瓶の中では、無色透明の液体がとぷりと揺れている。
「私がどうやってここまで来たのか、不思議に思わなかったか?」
勿論、思った。動揺していたことも忘れて頷くと、白の瞳が愉しげに細まる。
「実はこれ、眠り薬でな。ああ、安心してくれ。そんなに危険な物じゃない。眠ると言ってもせいぜい数時間が限度の、揺すれば起きるような浅い眠りだ。だが、その割に効果は二滴からと手軽でな。重宝しているんだが……君は、勧められたからと言って、患者が持ってきた菓子をその場で食べたりするなよ」
ま、素直な人なんだろう、と取って付けたような擁護に唖然とする。
つまり、薬入りの菓子で秀一を眠らせて、診察室を抜け出している、という話だろうか。
予想外の手段に開いた口が塞がらないが、白に嘘をついている様子は無い。
白の話が事実だとして、秀一が菓子を口にしたのは、勧めてきた相手が白だったからに違いないが、それを伝える術は無かった。
「そもそも、彼が大人しく君に会わせてくれたら、こんな手間も要らないんだが……どうも彼は、君を私に紹介したくないらしい」
「……」
「私としては、君の業務が終わった後か、休日にでも会えれば嬉しいんだが、どうだ?」
小瓶を仕舞い、無意識に離れていた都々の肩を再び抱いた白が、日時は君に合わせるぞ、と小首を傾げる。
けれど、それは出来ないのだ。首を振れば「……振られてしまったか」と白は苦笑した。
「一日も、少しも、空いている時間は無いのか?」
「……」
「それとも、外出そのものを禁止されている?」
「……」
顔を覗き込まれて、都々は逃げるように目を逸らす。それが肯定と同義だとは気付かぬまま。
「都々。私は君から聞いたことを、誰にも、何も言うつもりは無い」
凪いだ水面のような声だった。
「だから、構わないんだ。何を言っても」
真綿で包み込むような言葉に顔を上げると、真剣な眼差しとぶつかった。真っ赤な瞳は吸い込まれるように美しく、都々の心は簡単に囚われてしまう。
「何か、あるんじゃないのか? 私に相談してみたいことが」
乾いた唇が自然と開く。何かを、伝えようとしたのかもしれない。
「……」
けれど長年声を失った声帯が今更震えるわけもなく、都々はすぐに口を噤んだ。
「……急には難しいか。困らせたな」
力なく首を振る。すると、白が「そういえば」と明るい口調で話題を変え、しかし続けて聞こえてきたのは、耳を疑うような内容だった。
「その力は、昔から使えるのか?」
──一瞬、何を言われたのか分からなかった。
瞠目する都々に微笑んだ白の手が、腕をなぞるように滑り落ちてくる。白くなめらかな手はやがて、無防備な都々のそれと重なった。
「治癒の異能……とても希少な力だな。私も実際に見るのは初めてだ」
白の瞳は、重ねた都々の手のひらをじっと見つめている。都々の目は更に丸くなった。
──この力を、知っている?
そんな筈はない。けれど、そうとしか思えない視線だった。白は、都々本人ですら知り得ない奇妙な力の正体を、多分、よく知っている。
「生まれつきか?」
衝撃に揺れる都々の心を置き去りにしたまま、問いは続く。瞬きも出来ずに首を振れば「なら」と確信めいた声が連なった。
「突然使えるようになったのか」
今度は縦に首を振る。ふむ、と頷いた白が、手を重ねたまま都々の腕を持ち上げ──紅い瞳を、鋭い光が過ぎった。
「これは?」
静かに凍り付いた声。剣呑さを帯びた表情に驚きながら視線を落として、ああ、と思う。
腕を持ち上げられた拍子に、着物の袖が少しずり落ちてしまっていた。露わになったのは不健康に痩せた手首で、生白い肌には傷や痣、怪我の痕が無数に浮かんでいる。
世情に疎い都々でも、人様に見せるような肌でないことは理解していた。都々はもう一方の手で乱れた袖を戻し、ついでに白の手の中から抜け出す。両の手を重ねて帯の前に置けば、白の指先はそれ以上追いかけて来なかった。
だが当然、追求の言葉までもが止むわけではない。
「その怪我はどうした。なぜ治さない? 自分自身には力を使えない、なんて話でもないだろう」
矢継ぎ早に訊かれて、眉を下げる。なぜと問われればそれは、許されていないからである。
秀一は、都々自身に力を使うことを許さなかった。力は無尽蔵ではない。使えば使うだけ都々は疲弊し、だから厭ったのだろう。秀一の商売道具である都々の力を、都々のために施すことを。
力が発現したばかりの頃、制御が効かず、無意識に自身の傷を癒してしまうことが何度かあった。すると秀一は、都々を激しく甚振ったのだ。癒える前より酷い傷を残してやろうと、執拗に。治しても無駄だと分からせるように、残虐に。
だから、力の制御はすぐに覚えた。正常な生存本能ゆえに。
それでも時折、秀一は箍が外れたように暴力を振るう。許しが与えられるのは、そういった時だけだ。
治さなければ死んでしまうから。便利な商売道具が消えてしまうから。秀一にとって不利益だから。
単純明快すぎて、異を唱える気も湧かぬ理屈だ。
「この傷を見て……誰も、何も言わないのか……」
唸るように呟いた白の声は、明らかな憤りを孕んでいる。
どうして、そんな顔をするのだろう。
白には何にも関係のない、赤の他人の傷なのに。都々がどんな生活を送っていようと、白は何一つ困らないのに。
不思議に瞬く都々を、痛みを堪えるような白の瞳が捉える。重なった視線は、しかし白のほうから逸らされた。
「……」
鋭く冷えた眼差しが、都々の向こう側に向けられている。釣られて後ろを振り向くと、診療所で働く使用人の一人が、曲がり角から姿を見せたところだった。
「……!」
「都々様? それに、貴方は……」
驚きに丸まった両目はすぐに険しさを帯び、不審がる使用人の視線を、しかし遮るように白が前に立つ。そんなつもりは無かったのかもしれない。けれど広い背中の陰に仕舞われると、ほのかな安心感が都々を包んだ。
(……どうして、だろう)
都々より大きな体も、強い力も、全部、都々にとっては恐怖の対象でしかないのに。なのに、どうしてこんなに離れがたいのか。
気を抜くと、指先が目の前の羽織を掴んで縋ってしまいそうで、都々は勝手な動きをしないよう、自身の両手を固く組んで握りしめた。
「こんにちは。すまない、椛島先生がお疲れだったのか眠ってしまわれてな。他の職員を探していたら、彼女を見つけたのだ」
「旦那様が?」
「ああ。倒れられたわけではないから心配は無用だ。しかし、放っておくわけにもいかないだろう?」
愛想のよい声で淀みなく紡がれる言葉は耳心地が良い。使用人は警戒を解かないまでも、ひとまずは白の言い分を信じることにしたようだった。
「左様でございましたか。お手数をおかけし申し訳ございません。先に待合室までご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
当然、患者である白をこの場に放置するわけにもいかず、まともな接客が出来るはずもない都々に代わって、使用人がそう声を掛ける。
しかし、白は「いや」とにこやかに申し出を断った。
「今日はただの経過観察でな。怪我をしているわけじゃないんだ。今回は代金も不要だと聞いているし、このまま帰るつもりだから案内はいい。君は先生の元へ向かってくれ」
「しかし……」
「なに、私はこの子に送ってもらうさ」
その台詞に表情を強張らせたのは、使用人と都々の両方だ。
いくら椛島家の敷地内と言えど、都々は自由に出歩くことを許されていない身である。もう長いこと蔵と診療所を繋ぐ道しか歩いていない都々にとって、診療所の周囲とはいえ、この先の景色は未知だった。
(でも、裏口を通すのは……)
裏口は従業員専用の出入口だ。白を入れるわけにはいかないだろう。
逡巡していた視線を上げると、恐らく同じ悩みを抱いていたらしい使用人と目が合った。ひとまずこくりと頷いて見せれば、使用人の瞳が僅かに見開かれる。そして、最後の一押しとばかりに白が口を開いた。
「彼女の声については承知している。ただ診療所の入り口まで着いてきてもらうだけだ。何か問題があるのか?」
「……いえ、分かりました。では、よろしくお願いします」
終わりの台詞は都々に向けられたものだ。都々は素直に頷こうと顔を上げて──そのまま硬直した。都々を貫く視線の、あまりの無機質さに。
「……都々、どうした?」
自分が暫くのあいだ固まっていたことに気が付いたのは、白に気遣わしげに呼ばれてからだった。
もう、使用人の姿は無い。けれどあのお世辞にも友好的とは思えない瞳を思い出して、都々は嫌な動悸を誤魔化すように首を振る。白にひとつ視線を返してから一歩を踏み出せば、都々が濡れないようにと白も慌てて駆け出した。




