第九話 はじめての感情③
都々にとって未知の世界とはいえ、診療所の建物に沿って歩いて行けば、目的地まではものの数分だ。
「まだまだ話し足りないな」
診療所の表口、庇の下で傘を畳んだ白が、名残惜しげに言う。
都々にはよく分からない。何も言えずにいると、白が秀一を眠らせるために使ったという例の小瓶を、そっと都々の手に握らせてきた。
「何かの時のために、君にあげよう」
父親に困ったら使ってみなさい。そう囁かれて、顔を上げたときにはもう、白は雨の中に佇んでいた。
「またな、都々」
柔らかい声で約束を紡いで、白が去っていく。
白は一度も振り返らなかった。凛と伸びた背中が小さくなる毎に、都々の心臓が、ぎゅっと締め付けられる。
──さみしい。
滲んだのはきっと、そんな感情だった。けれど自覚はないまま、都々はただ茫然と見つめ続ける。揺れる美しい白銀を、彼の姿が見えなくなるまで。
思えば白は、秀一が都々の父親であることを、初めから知っている様子だった。幼い頃から監禁状態だった都々が、秀一の娘と同一人物であることに気が付いている人間は、恐らく村にも殆ど居ない。
秀一もわざわざ都々を娘として紹介することは皆無であったし、それは白に対しても同じだろう。──ということに思い至ったのは、その日の夜、憤懣やるかたない様子で秀一が蔵を訪れたからだった。
「お前、俺の娘という立場を利用して、白様に取り入っただろう!」
顔面に躊躇いのない殴打が飛ぶ。体裁を守るため、基本は着物で隠れる場所にしか傷をつけない秀一の行動に、彼の怒りの程が現れていた。しかし、怒鳴りつけられた罪状には当然ながら覚えが無い。
否定するように頬の激痛を堪えて首を振れば「嘘を吐くな!」と今度は蹴りが襲った。耐えきれず、都々はその場に頽れる。
「診療所の裏で、随分と親しげだったらしいな。俺の目を盗んで、いつ白様と関わった?」
倒れた都々に馬乗りになった秀一が、血走った眼で都々の襟ぐりを掴んだ。十中八九、あの使用人から漏れたのだろう。……一体、どんな風に伝えたらこうなるのか。激昂する秀一を前に、都々は虚ろな目になった。
「もう二度と……二度と、会わせないからな……!」
呪詛を吐きながら、秀一がまた拳を振り上げる。
人とは、こうまで他人に執心できるものなのか。
いっそ感銘すら受けるような心地で、都々は目を閉じた。




