第五話 失声症の治療師
村では見かけない、随分と身なりの良い患者だった。
一目で上質だと分かる着物に、詰襟のシャツと足元のブーツが違和感なく洋を取り入れている。
都々はほとんど洋装を見たことが無い。存在自体は知っているし、父は白衣にシャツとスラックスという出で立ちだが、母も含め村人たちはみな和装だ。
面布を通した不良な視界でもはっきりと分かる物珍しさに、都々は案内されてきた青年を思わず目で追った。柔らかな言葉を取りながら村人に対しては常にどこか傲慢な父が、その青年にはやたらと丁寧に接していたこともまた、物珍しさの一因だった。
「では……」
秀一が青年を寝台に寝かせようとして、はたと言葉を止める。不思議そうに視線を返した青年に、秀一はなぜか照れたように視線を逸らした。
「いえ、その、お名前をまだお聞きしていなかったなと思いまして……」
「……ああ。白、と呼んでくれ」
「白様、ですか?」
「それで構わない」
……父の、重要なお客様だろうか。
やりとりを聞くに二人は初対面のようだが、秀一が大層な敬称を付けるくらいだ。他の患者と何かが違うことは明らかで、けれどそれ以上の興味は湧かなかった。
だが、秀一の贔屓ならば絶対に粗相は許されない。いつも以上に集中しなくては。そう思って、微かに息を呑む。
「では白様、こちらの寝台に横になっていただけますか?」
「寝台に? 負傷しているのは腕だが」
「ええ、その、患部の場所に限らず、当診療所では同じ方法を採っておりまして」
「……そうか」
納得したのかしていないのか。どちらともつかない反応を返しながら、白と名乗った青年が寝台に仰向けになる。すらりと伸びた脚は、寝台の端から踵が飛び出てしまうほど長い。
都々は寝そべる麗人を一瞥しながら、いつものように棚から布を取り出した。常であればこの布で患者の視界を隠すところからが都々の仕事で──しかし次の瞬間、都々の手から、布が消えていた。
「お顔に少し、失礼させていただきますね」
見たことが無いほど俊敏な秀一の動きに、一拍遅れてようやく、秀一に奪われたのだと理解する。
予想外の動きに立ち竦む都々を差し置いて、寝台の側に膝を突いた秀一は、恭しい手つきで布を摘まんだ指先を持ち上げた。
「こんなものまで掛けるのか」
しかし、白は訝しげに眉根を寄せると、秀一が被せようとしていた布を手の甲で避け、じろりと秀一を見る。そんな白の姿に、都々はふと瞬いた。
(不思議な瞳……)
白く靄がかった視界でも、はっきりと煌めく真紅。血のように鮮烈なその瞳をじっと見ていると、向こうから都々の瞳は一切見えないはずなのに、不意に視線が重なった気がした。
「こ、こちらも当診療所の治療法でして」
「ずっと気になっていたんだが、彼女は?」
「え?」
都々に美しい瞳を重ねたまま、白が問う。すると、虚を突かれた秀一が倣うように都々へと視線を向け、すっと温度を失くして目を細めた。
「ああ、アレはただの治療担当ですので、どうかお気になさらず」
答える父の声は、明らかな嘲笑を含んでいる。
「其方は診察に戻らなくていいのか」
「はい。アレ一人には任せられませんので」
「……視界を隠されるのはあまり好かない。手短に頼む」
何を言っても無駄だと悟ったらしい。ため息をついた白が傾けていた頭を正面に戻し、瞼を落とすと、秀一は「はい」とやけにうっとりとした声で返して、都々を振り向いた。
「都々」
さすがに治療ばかりは代われない。都々は寝台に近づこうとして、しかし秀一がその場を離れないために、途中で足を止めた。
「何をしている? 早くしろ」
それは、どちらかといえば都々が投げたい問いかけだった。どうしてそこに居るのだろう。いつもならさっさと壁際に退いて、腕を組みながら面倒そうに、どこか苛立ったように都々を見下ろすばかりだというのに。
しかし秀一は頑なに動く気配を見せず、都々は仕方なく秀一の隣にしゃがみ込む。
秀一からどんな目を向けられようが、どんな言葉をかけられようが、都々はもう何も感じない。けれど、秀一の存在が近くに在るというだけで身体は自然と強張り──それは今も、都々を苛んでいた。
都々は秀一に気づかれないよう、そっと息を吐き出してから、手にしていた軟膏の蓋を開ける。と、秀一の手がまた、横からそれを奪った。
「俺が塗る」
そう言って、秀一が白の着物の袖を下のシャツごと捲り上げる。そうして現れた患部に、都々は息を呑んだ。
「白様、沁みてお辛いようでしたら遠慮なくお声がけくださいね」
優しい声で気遣って、秀一が患部の中心に軟膏を乗せる。瞬間、都々は無遠慮なその手を咄嗟に引っ掴んでしまうところだった。長年の躾の記憶が、動きかけた都々の身体を止めていなければ。
だって、沁みないはずがない。こんなに赤く爛れて──黒く変色した傷口が。
それなりの年数を治療師として過ごしてきた都々だが、それは初めて見る傷痕だった。
一体なんの傷だろうと、都々は面布越しに目を細めて注意深く患部を観察する。
都々にはこの時、秀一には見えない傷が見えていた。患部の中心を染めるそれは初め、皮膚が黒ずんでいるのだと思ったが、よく見れば違う。
(靄……?)
中心に渦巻く黒は、肌を離れて、空気中にも漂っていた。まるで霧や靄のように、患部に纏わりつきながら浮いている。
酷く痛むだろうに、白は一言も発さず、身動ぎさえしない。やがて無意味な軟膏の処置を終えた秀一が、無言で器を突き返してくる。
都々は器を受け取ると、白の患部から目を離さないまま蓋を閉めた。それからすぐに、患部に向かって両手を翳す。
念を込めれば瞬く間に光が滲んだ。都々の手から放たれた光の粒子は、次々と爛れた患部に付着し、傷痕を塗り替えるように溶けていく。
粒子が触れた先から肌の赤みは消え、少しずつ元の白い皮膚が顔を覗かせたがしかし、その中心、黒い靄に光が到達したところで、都々は異変を察知した。
「……、?」
眉尻が、ぴくりと跳ねる。指先がちりちりと痺れるような感覚に襲われて、無意識に下唇を噛みしめた。
それは、初めての感覚だった。まるで、傷が癒えることを拒否しているような、そんな反発感。それでも都々の光が飲み込まれることはなく、都々から生み出された光は対抗するように粒子の数を増やし、やがて謎の黒い靄は欠片も残らず消えた。──都々の気力を犠牲にして。
酷い倦怠感に座っているのがやっとな都々を置いて、秀一が白の腕を覗き込む。美しく滑らかな白磁の肌に秀一は満足そうに目を細めると、今度は甲斐甲斐しく包帯を巻き始めた。それが今は、心の底からありがたい。
秀一が包帯を必要以上にゆっくりと巻いている間に、都々の体調はどうにか復調した。気怠さは残っているが、いつまでも地べたに座っていたら後で何を言われるか分からないので気合いで立ち上がる。
秀一が青年に夢中になっている隙に、部屋の隅、定位置へと戻る。そこでまた置物のごとく大人しくしていれば、包帯を巻き終わった秀一が目隠しを取りながら白に声を掛けた。
「白様、お待たせいたしました。無事に終わりましたよ」
「……」
薄い瞼が微かに震えて、現れたのは真紅の宝石だ。上半身を起こし、包帯の巻かれた腕をじっと見下ろす白に、秀一はこれまた何千回と口にしてきた常套句を舌に乗せた。
「今後ですが、三日はこのまま、決して包帯を外さないでください。塗布した薬が三日の間に浸透し、傷を癒します。塗り直す必要もございません」
白がちらりと秀一を見る。涼やかな双眸に浮かんだ感情を読み取らないまま、秀一は終わりに、普段は口にしない台詞を付け足した。
「それから……三日後、念のため傷口の状態を診させていただきたく、できましたらまた診療所に──」
「ああ、また来よう。必ず」
「……! はい!」
秀一の顔がぱっと華やぐ。対する白は真顔のまま視線をずらし──なぜか、都々を見た。
途端、薄い唇がふわりと綻ぶ。
「彼女は腕のいい治療師だな」
布越しに重なった視線をそのままに、突如として落とされた賞賛の言葉。思惑も衒いもないそれに、都々の心を吹き抜けたのはざわりと落ち着かない感情だった。
多分、驚きだったのだろう。けれど、もうずっと己の機微に疎い都々には、一瞬だけ生じたそれがどんな感情だったのか正確に推し測ることは難しい。考えている間に、生まれた衝撃は刹那に消えていく。
「なあ、ぜひ、君と少し話がしたいのだが」
しかし、続けてそう願われて、今度こそ都々は驚倒した。今まで、都々に面と向かって話しかけてくる人など、ただの一人も居なかったからだ。
だが、都々にはどうすることもできない。父を見るとたいそう不機嫌そうな──いや、憎悪すら籠もった眼差しとかち合って、都々はすぐに顔を逸らす。
「白様、申し訳ございません」
秀一が、都々と白の間に割り込むように立った。黙り込む都々を一瞥し、嘲りに歪んだ唇を開く。
「コレは、口がきけませんので」




