第二話 少女の一日、診療。
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帝都郊外の小さな村。そこで一番大きな屋敷が、都々の生まれ育った家だった。
父の秀一は村唯一の医者で、敷地内は、両親が暮らす母屋と、診療所を兼ねた離れに分かれている。
母屋には、もう何年も足を踏み入れていない。
目が覚めて、無地の着物に着替えさせられた都々が連れていかれるのは──離れの診療所、その一室である治療室だけだ。
診療所の裏口を潜った都々はまず、白い面布を顔に当てた。
裏口から直結しているここは、謂わば物置のような場所で、診療所に従事する者だけが入室を許された空間だ。面布は、その一角に積まれていた。埃を被った薬に医療器具、そこに紛れるよう、雑に、清潔さなど欠片も存在しない有様で。
布の両端から伸びる紐を頭の後ろで結ぶと、都々の顔は額から顎先まですっかり隠されてしまった。
目の粗い布だから薄らと景色は見えるが、それでも視界は悪い。立ち並ぶ棚々にぶつかないよう細心の注意を払いながら、都々はゆっくりと部屋を出た。
道中、廊下では何人かの使用人とすれ違った。化粧気こそ無いものの、堂々と素顔を晒し、色柄のある上等なお仕着せを纏う姿は、並んでしまえば都々のほうがよっぽど使用人らしい。
詰まるところ、彼らの全てが上なのだ。衣類の豊かさも、面布の要らない自由さも。彼らが蔵に閉じ込められることはなく、歩く場所を制限されることもない。
どうして、とは思わない。
なぜなら、全ては秀一の意思で──当主直々のお言葉に否やを唱える権利など、都々にありはしないからだ。
「伊藤さん、本日はどうされました」
治療室に着くと、隣接する診察室からまるで別人のように穏やかな秀一の声が聞こえてきた。
それほど交通網の発達していない小さな村で、村人からすれば人当たりのよい腕利きの医者。秀一は村にとって唯一無二の存在で、だからここに、都々にとっての救いは無い。
「ああ、椛島先生……、この通り、息子が農具で腕を切ってしまったのです」
続いて聞こえてきたのは、動揺と焦りを綯い交ぜにした別の男の声だった。そこに、少し冷静すぎるくらいの秀一の声が重なる。
「それは大変だ。ですがご安心ください。当診療所の塗り薬で、あっという間に、元通り傷一つない肌に戻りますから」
「本当ですか……!」
「ええ。早速、治療室へご案内いたしましょう」
よかったなあ。きっと息子に声を掛けているのだろう、心の底から安堵した声が聞こえて、都々は視線だけを動かした。──同時、治療室の扉が開かれる。
現れたのはお世辞にも綺麗とは言えない、土埃で汚れたつぎ当てだらけの着物を着た父子だ。怪我をしたという息子の細腕は、肘から手首にかけて深く赤い線が走っている。
部屋の隅で微動だにせず立つ都々を、少年の無垢な瞳が見上げた。その新鮮な反応に、診療所で治療を受けるのは初めてなのだろうと悟る。なぜなら村人は皆、診療所を訪れるうちに都々の存在など気にしなくなるからだ。
彼らの都々に対する関心は、次第に薄れていく。それはまるで、治療室に置いてある道具の一つを見るように。
現に少年の父親は、今に至るまで一度も都々に意識を向けていない。
だが、村人たちに非があるわけではないのだ。全ては秀一の態度と、個を殺すべく努めている都々の物腰に拠るもので、秀一を慕う彼らの心が、都々から離れていくのは自然の道理だった。
「ご子息はこの寝台へ。お父さんは、部屋の外でお待ちいただけますか?」
「え、ええ。でも、あの」
入室早々、自身を追い出そうとする秀一に、少年の父親が僅かばかり戸惑うように視線を彷徨わせる。
秀一はそんな男性を、にこりと有無を言わせない笑みで説き伏せた。
「ご安心ください、すぐに終わりますから。さあ、こちらへ」
親切なようでいて、実際は抵抗を許さぬ無慈悲な誘導だ。
意識せずともその圧を感じているのだろう。少年の父親は寝台の息子を気にするそぶりを見せながらも、あえなく退室させられた。
やがて部屋には一瞬の沈黙が落ち、秀一の無機質な眼が都々を向く。
「都々」
短く呼びつける声は、恐ろしく冷えていた。
けれど酷薄な視線は既に日常で、都々の心が狼狽えることはない。故に、都々は怯えもせず、焦りもせず、近くの棚から一枚の布を取り出すと、寝台に近づいてゆっくりと両膝を突いた。
少年の揺れた眼差しが、面布越しに都々を見る。都々はなるべく少年を怖がらせないよう、手にした布をゆっくりと少年の顔に被せた。
「治療のために視界を隠させてもらうよ。君はただ、目を閉じているだけでいい」
突然視界を奪われて動揺する少年を、秀一が優しく宥める。その間に都々は立ち上がり、棚に戻って軟膏と包帯を準備すると、再び少年の側で膝を突いた。秀一が、都々を一瞥する。
「さあ、治療を始めよう。少し痛かったり沁みたりするかもしれないが、心配は無用だ」
自信に溢れたその声が、治療開始の合図だった。
都々を見下ろす驕った視線を背に受けながら、蓋を開けて中指で軟膏を掬う。──特別な効能など一つもない、ただの薬を。
少年の腕をそっと持ち上げて、都々は痛々しい傷口を避けながら撫でるように薬を塗った。本来であれば患部に塗布するものだが、その必要はない。
だってこんなものは、ただの虚仮威しでしかないのだ。この行為に意味は無く、強いて言うならば後ろに立つ男の自己満足で──だから、余計な痛みを与えたくなくて、爪の先すら触れないように傷口の周りをなぞった。
塗り終えた薬が、てらりと照明の光を反射する。都々は薬の蓋を閉じると、自身の両手を影を落とすように少年の腕に翳した。
「……」
息を整えて、ぎゅっと目を瞑る。
暗闇の中、指先に意識を集中させると──段々と皮膚が仄かな熱を持ち、やがて、翳した都々の手が、淡い光を放ち始めた。
光の粒子を纏う手のひら。それは、人智を超えた光景だったが、都々と秀一の表情は変わらない。
「っ、」
不意に、少年の肩がびくりと跳ねた。視界は閉ざされているはずだが、光が触れる感覚を感じ取ったのだろう。不思議な気配に戸惑っている様子だった。
「大丈夫だから、目は開けないで」
念を押すように秀一が言う。
光の粒子はやがて細い糸を織り成し、螺旋を描きながら少年の傷口へ向かった。すると、傷口が光の糸で縫い合わされ、みるみるうちに修復されていく。
体感にして、十五分ほどだろうか。都々の額を一筋の汗が伝う頃、少年の腕はすっかり完治していた。縫合の痕は無く、光の名残も無く、目を皿のようにして見ても、瘡蓋ひとつ見当たらない。
都々は翳していた手を下ろして立ち上がり、寝台から一歩退がった。すると後ろで都々を監視していた秀一が入れ替わるように少年を覗き込んで、無言で姿勢を戻す。分かりにくいが合格の合図だ。
秀一の反応を受けた都々は少年の側に戻ると、また膝を突いて、先に準備していた包帯を手に取った。それを、少年の綺麗な肌に手際よく巻き付けていく。
肘から手首までを真白で覆い、布の終わりを縦に引き裂いて結び留めたら治療は完了だ。都々の手が少年の腕を離れると、秀一が少年に被せていた布をわざとらしいほどゆっくりと取り払った。
「さあ、終わったよ」
「ぅ……」
目隠しを失った少年は、眩しさに顔を顰めながら瞼を持ち上げた。光に慣らすように何度か瞬いて、寝台に横たわったままどこか呆然と天井を眺める。
数秒の後、丸い瞳が不思議そうに都々を見た。
「痛く、ない……」
その時すでに、秀一の興味は少年から失われていた。都々と少年が見つめ合ってすぐ、背後で扉が開く音がして、少年の父が大慌てで飛び込んでくる。少年の視線は、するりと都々を通り過ぎた。
「陣!」
「父さん」
駆け寄った父親を、少年がきょとりと呼ぶ。そのあどけない表情に、少年の父はほっと安堵の顔を見せた。
「お父さん、治療は無事に終わりました。もう三日もすれば、ご子息の腕は綺麗に治るでしょう。ですが、三日はこのまま、決して包帯を外さないでくださいね」
「三日、ですか」
少年の身体を抱き起こしながら、秀一の言葉を少年の父が復唱する。
「ええ。塗布した薬が三日の間に浸透し、傷を癒しますので。塗り直す必要はありません。包帯が蓋の役割を果たしてますから、そのままお過ごしください」
にこりと微笑む父。
淀みなく紡がれるその説明が真っ赤な嘘であることを、都々だけが知っている。けれど。
それを伝える術も、気力も、理由も。
都々には一つとして、在りはしないのだ。




