第十一話 先の見えない闇
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薄暗い蔵の中は、噎せ返るような薬のにおいで溢れている。窓の無い部屋では、空気の入れ換えすらままならないから余計だ。
床には無数の小瓶が転がっていた。においの根源たるそれは日毎に数を増していき、今や小高い丘を築かんとしている。
「また失敗か! お前、わざとじゃないだろうな……!」
「っ、」
ガツン、と頬に衝撃が走った。秀一に、小瓶を投げつけられたのだ。
小さな瓶ではあるけれど、硝子製のそれは投げれば十分な凶器となる。頬骨とぶつかって鈍い音を立てた器は、地べたに座る都々の着物を汚しながら床に転がった。
「次だ次! いいか、きちんと念じろよ。術者のお前次第なんだ、俺に迷惑をかけるな」
鬼の形相で吐き捨てた秀一が、懐から新たな小瓶を取り出す。苛立った指先が乱暴に蓋を毟り取って、剥き出しになった中身を押し付けるように都々の手に握らせた。
最後に白に会ってから、およそ一週間が経った。──もう二度と会わせない。その宣言通り、都々はあれから一度も蔵の外に出ていない。
初めの数日は、怒りに任せて殴る蹴るの大嵐だった。母屋でも随分と機嫌が悪いようで、時には滅多に顔を出さない母までもが蔵を訪れ、都々に怒りをぶつけたほどである。
都々はその全てを無抵抗で受け入れた。抵抗するだけ無駄だと、身を以て知っているからだ。
しかし数日が過ぎた頃──分厚い書物を片手にやってきた秀一に命じられた内容は、都々をひどく困惑させるものだった。
「……」
手中の小瓶を見下ろす。中身は何の変哲もない、普段意味もなく患者に塗りつけていたあの軟膏だ。
力の入らない指先に活を入れて、のろのろと手を翳すと、弱々しい光の粒子が生まれては消えながら軟膏に降り落ちた。
この行為が正しいことなのかは知らない。少なくとも都々には何の変化も無いように見えるし、実際そうだった。都々の周囲に転がる夥しい瓶の数、この実験は失敗している。
秀一の言い分はこうだ。軟膏そのものに治癒の力を持たせることが出来れば──都々の力を移せれば、都々本人が診療所に通う必要は無くなるのだと。だから力を込めろと。
理想は理解できる。だがいきなり力を移せと言われても都々にはそのやり方が分からず、秀一も様々な文献を漁っているようだが、反応を見るに有力な情報は掴めていないようだった。
秀一の苛立ちは日に日に大きくなっている。けれど都々にはどうしようもないのだ。
「終わったのか」
都々の手から光の放出が途切れたのを見て、秀一が問う。実際は体力が底をついただけだが、応じる気力ももう残っていなかった。反応を返さない都々の態度にさぞかし腹が立ったのだろう。聞こえよがしに舌を打って、秀一が都々の手から小瓶を引ったくる。
秀一は中指で薬を掬うと、その手で都々の腕を掴んだ。気遣いの無い強い力に骨が軋んで、二の腕に押し付けられた指の腹がぐっと都々の肌を押し込む。そこには、刻まれたばかりの創痕があった。
しかし、傷が癒えることは無い。
赤く滲んで汚れただけの軟膏を、秀一は憎悪を煮詰めた瞳で睨んでいる。
「この役立たずが……っ」
とうとう自身の体重を支えきれず、都々はその場に倒れ込んだ。投げ出された腕は直ぐさま秀一の靴底に踏み躙られ、実験のためにつけられた真新しい傷から、だらりと鮮血が垂れ落ちる。床に擦り付けられた血と肌は、薬と埃が混ざり合って酷い有様だ。
「これを成し遂げるまで、お前に自由は無いからな」
振り下ろされた宣告は脅しのつもりだろうか。心の中でつい、笑ってしまう。
自由など、今まで一度も与えられたことは無い。
蔵に閉じ込められるくらい、今更どうでもよかった。力が発現する、その前に戻るだけだから。
辛いのはこの実験に終わりが見えないことだ。道筋は途方もない闇に満ちていて、目指すべき針路すら分からない。
大人しく殴られているだけで済むなら良かった。けれど秀一が求めているのは物言わぬ人形では無く、思考する道具だ。都々の身に宿る異能で秀一の理想を叶えてやらない限り、秀一は満足しないだろう。
秀一の怒鳴り声は続いている。しかし疲労の限界を迎えた身体は猛烈な眠気を訴え、都々を夢の世界へと誘った。
(寝たら……怒られ……る…………)
分かってはいたが抗えず、そっと瞼を閉じる。
いっそこのまま目が醒めなければいい。
もう何度も捧げた願いだが、意識が落ちる寸前、まるで都々を引き止めるように過ったのは──甘やかに微笑む紅玉の瞳。そして都々を呼ぶ、落ち着いた優しい男の声だった。
どれくらい眠っていたのだろう。唐突に沁みた極寒の刺激に、都々はふと目を覚ました。
顔が滴るほどに濡れている。瞬きすると睫毛から雫が落ちて、ぼやけた視界に人の顔が浮かんだ。バケツを両手に持った、不機嫌な女の顔だ。
「起きたの?」
女の真っ赤な唇が棘を吐く。
抱えられたバケツは逆さまで、底に残った水滴が、縁を伝って都々の頬で冷たく弾けた。ずぶ濡れの原因が、寝起きの頭でもよく分かった。
鈍重に視線を動かす都々に、女は「はぁ」とため息をついてバケツを床に転がす。それから自身の着物の裾を見下ろして「やだ、汚れちゃったじゃない」と忌々しそうに眉を顰めた。
「まったく、どうして私がこんなことを……。ねえあなた、旦那様にいったい何をしたの? 旦那様は、何をあんなに焦っていらっしゃるの?」
鋭い眼差しで都々を問い詰めるのは使用人ではない。秀一の妻であり、都々の母でもある静香だ。紫陽花柄の上品な単衣に身を包んだ静香の瞳は、苛立ち一色に染まっている。
「昨夜なんてあなたのせいで私が怒鳴られたのよ。旦那様は診療所も開けずに書斎に籠りきりだし……。意味が分からないわ」
嘆く母の顔に、都々への想いは欠片も無い。
遠い昔、静香が都々の味方だった日々を、都々はほんの少しだけ憶えていた。母親らしく子を庇い、秀一に立ち向かっていた背中の記憶が、微かだが残っている。けれど秀一は、そんな母にも拳を振るい、罵倒し、やがて母の心は壊れた。
そして秀一に命じられるまま都々を見捨てた母は知ってしまったのだ。人を虐げる快感を、悦楽を。
以来、母はずっと父の味方である。
「奥様、こちらは何処にお仕舞いいたしましょうか」
無機質な第三者の声がして、都々は初めて静香以外の存在に気が付いた。静香の後方に目を遣ると、数人の使用人が両手に沢山の本を抱えて立っている。
「適当にその辺りの床でいいわよ」
「かしこまりました」
頭を下げた使用人が、抱えていた書籍を部屋の隅に下ろし始める。あっという間に積み上がっていく本の山をぼんやり眺めていれば、静香の鬱陶しげな視線が突き刺さった。
「せっかく起こして差し上げたんですから、旦那様が来るまで寝るんじゃありませんよ」
どうやら、わざわざそれだけのために蔵まで来たらしい。水に濡れた着物の冷たさに震えながら、都々はゆっくりと上半身を起こす。
静香と使用人が出ていくと、蔵はいつもの静寂に包まれた。さてどうするかと次の行動に思いを馳せた都々の視線が、部屋の隅に吸い込まれていく。
うずたかく積まれた書籍の山。そこに、光を見出すように。




