自分の身は自分で守れ。
やべぇ。
俺、終わった。
ゆっくりと。
俺は母さんの方へ振り返った。
そして――
その瞬間。
母さんと目が合った。
「…………」
やばい。
俺は必死に笑顔を作った。
「お、おはよう、母さん……」
「きょ、今日もいい朝だね……」
引きつった笑いが漏れる。
「あ、あはは……」
「そ、外は結構寒いよね?」
俺は襟元を引っ張る。
「で、でも……」
「ここはなんか、暑くなってきたなぁ……なんて」
「いい天気だよね?」
…………。
俺、何言ってんだ!?
自分でも何を喋ってるのか分からない!!
「よし!」
俺はパンッと手を叩いた。
「そろそろ学校に行く時間かな!」
ゆっくり。
ゆっくりと後ずさる。
「遅刻したら大変だしな!」
「はは……ははは……」
母さんの目が俺を追う。
一歩。
また一歩。
俺が動くたびに。
一歩ずつ。
確実に。
そして――
視界の端に。
何かが入った。
「……ん?」
時間が。
止まった。
空中を飛び。
回転しながら。
まっすぐ俺へ向かってくるもの。
それは――
スリッパだった。
「どっから出てきたんだよぉぉぉ!?」
次の瞬間。
俺の身体が反射的に動いた。
上体を反らす。
「ヒュンッ!」
スリッパが顔のすぐ横を通り過ぎていく。
ほんの一瞬。
俺は思った。
……。
今の俺、完全にマトリックスだったよな!?
避けた!?
俺、今――
本当に避けたのか!?
「…………」
俺、やったぞ。
俺は――
生き残った!!
……と思った。
その時。
リズィの目が大きく見開かれた。
俺の後ろを指差す。
「お兄ちゃん! 後ろぉぉぉ!!」
「……は?」
俺は振り返った。
そして――
スローモーション。
「バシィィィン!!」
スリッパが。
俺の顔面に。
直撃した。
「――ぐはっ!!」
まるでヘビー級ボクサーに殴られたような衝撃。
その勢いで俺の身体は空中へ吹っ飛び、ぐるぐると回転する。
「あ……」
そうだ。
これ。
母さんの――
ホーミングスリッパ。
……完全に忘れてた。
そして――
俺の視界は。
真っ暗になった。
---
五分後。
俺たちは全員、床に正座していた。
俺。
リズィ。
そして――
「…………ん?」
俺は瞬きをした。
……待て。
嘘だろ。
こいつまで正座してる。
俺はゆっくりと隣を見た。
「父さん……?」
「なんで父さんまでここにいるんだよ?」
父さんはため息をついた。
「まあ……その……」
気まずそうに視線を逸らす。
「お前が気絶したあと……」
父さんはリズィを見る。
「次の標的が、お前の妹になったんだ」
俺はリズィの方を見た。
「…………」
……。
顔を見れば全部分かる。
虚ろな目。
真っ青な顔。
感情の消えた表情。
「…………」
うわぁ。
こいつ。
絶対トラウマになってる。
……まあ。
だからといって。
こいつの暴走が止まるわけじゃないんだけど。
父さんが咳払いをした。
「それで……」
「リズィへの説教が終わったあと――」
---
――回想。
父さんは、その惨状を見渡していた。
そして。
ニヤリ。
「よくやった、ハニー」
「さすがだな」
父さんはソファから立ち上がる。
服を整える。
「じゃあ、俺はこれで――」
そのまま玄関へ向かう。
「仕事に行かないとな」
そして――
「……どこへ行くつもり?」
父さんの動きが止まった。
「……クリス・カーターさん?」
「…………」
玄関まであと数歩。
父さんの手が止まる。
振り返ることなく、咳払い。
「だから言っただろ、ハニー……」
「俺は仕事に行くんだ」
「おい」
父さんの身体が固まった。
「ふざけないで」
「そのコーヒーカップが、どうして床に落ちてるのか説明して」
「いや、ハニー……」
父さんは引きつった笑みを浮かべた。
「見れば分かるだろ?」
「もう誰が割ったのかも分かってるんだろ?」
そして。
気絶している俺の方を指す。
「そいつが目を覚ましたら、本人に聞けばいい」
「ええ」
母さんの声が低くなる。
「誰がカップを割ったのかは知ってる」
父さんが固まった。
母さんが目を細める。
「……正確に言うなら」
「誰がカップを投げたのか」
「わざと。」
「…………」
父さんの額を、一筋の汗が流れた。
母さんは腕を組む。
「だから――」
「今、本人に聞くわ」
「…………」
やべぇ。
バレた。
……俺の妻、頭が切れるとは思っていたが。
これはヤバい。
母さんが首を傾げる。
「さっきまでの余裕はどうしたの?」
「私が子供たちを叱っている間、ずっとニヤニヤしてたわよね?」
「笑ってた」
「ニヤついてた」
そして。
母さんの目が細くなる。
「楽しそうに見てたわよね?」
「…………」
ゴクリ。
どうする。
どうすればいい?
父さんの視線が、ゆっくりと玄関へ向く。
……逃げるしかない。
ゆっくり。
ものすごくゆっくり。
父さんの手がドアノブへ伸びていく。
あと少し。
この手がドアノブに触れれば――
逃げられる。
そう思った瞬間。
「おい」
父さんの手が止まった。
「その手がドアノブに触れたら――」
「そのドアノブごと壊すわよ」
「…………」
父さんは悟った。
……これは。
無傷では帰れない。
---
――現在。
「……というわけだ」
父さんはため息をついた。
「そういうことだったんだ」
俺は父さんを見つめる。
ピクッ。
俺の右目が痙攣した。
「お前……」
俺は父さんを指差した。
「俺を身代わりにしようとしたな!?」
父さんは冷静な顔で俺を見る。
「息子よ」
俺の肩に手を置く。
「お前には、一つ理解してもらいたいことがある」
俺は目を細めた。
父さんは俺の目をまっすぐ見た。
「カーター家にはな」
「暗黙のルールがある」
一拍。
「自分の身は自分で守れ。」
「…………」
「…………」
「…………」
こいつ。
めちゃくちゃ普通の顔で言いやがった!!
俺は呆然と父さんを見る。
「……それでも」
俺はため息をついた。
「父さんが、あんな人をよく口説き落とせたな」
首を振る。
「俺だったら、絶対あんな人と結婚できない」
「…………」
父さんの動きが止まった。
そして。
ゆっくりと笑った。
天井を見上げる。
「息子よ……」
一筋の涙が頬を伝う。
そして。
もう一滴。
「俺も同じことを言ってたよ」
「……え?」
待て。
今――
なんて?
「雑談はそこまで!!」
「…………!!」
俺と父さんが同時に固まった。
母さんが腕を組む。
「今朝何があったのか――」
「三人とも全部説明しなさい!!」
「…………」
ゴクリ。
「そして、話が終わるまで誰一人この家から出るな!!」
「…………」
その瞬間。
俺には分かった。
うん。
これはもう――
俺たち、終わった。




