境界のトロイメライ
四月一日、八時二十分。
「く、うう…………」
正門前。ため息とも似た微かな声が口から漏れる。
ぜえはあと息を切らし、通学程度で肩を大きく揺らしている姿は、誰がどう見ても生粋の運動不足。怠惰なるや文化部の人。
実の所体力の無さはそれ以上にどうしようもない理由があるが、多分それを抜きにしてもうんざりするのは変わらない。
「っふうーー。……うん、きっとそうさ。
肌がひりつくほど冷たいコンクリートの上に叩きつけられても、そう思えるんだから間違いない……」
新学期の朝。埼玉は安行、本日は快晴。私立朽ノ木学園の新たなる始まりたる四月の今日。
桜舞い散る学園の正門前。緩やかな坂を上りきり、俺はようやっと目的地へとたどり着いた。
「というか、あの坂長すぎるんだよ。どうしてこんな通いづらい場所に学校を建てるんだって」
そんな文句を口にしてすぐに、ここに通う選択したのは他でもない自分だろうと思い出す。思い知る。
おお、なんて考え無しか過去の渡会巴よ。さすがに勢いで生きてきただけはある。
私立朽ノ木学園。
安行が植木の生産地として有名なためか、元は自然との共生を理念に掲げた学園で、背後に山を抱えた緑豊かな学舎だったと聞いている。そして、資本主義の波は逆らえなかったとも。
経営の悪化と周辺の度重なる都市開発によって、かつての趣はどこへやら。緑と花は側溝に生える雑草のような惨めな姿へ変わり果て、かつて通学路を彩った花の美しさは、今ではコンクリートと鉄の無機質に覆われすっかり色あせてしまった。
要するに。しぶとく残った山の気配を携えた、まわりに坂が多いだけの学園というわけだ。悲しいね。
ふと、地面に目を向けた。
昨日の雨で濡れたアスファルトの地面に、一枚の花弁が落ちている。正門付近に植えられた桜の花弁が風に揺られて散ったのだろう。
気づけば物悲しいその姿に、同情心というか、仲間意識というか、そんな類のものを感じている自分がいた。
特に……もう冷めきっているところとか、うん。そっくり。
「──ふーん、意外。花とお話しするなんて詩人みたいなところあるんだね~。しばらく見ない間に、私の幼馴染は雅な一面を手に入にいれたのでしょうか?」
とん、と。右肩に手が置かれる。
その呼びかけに答えて振り返ってみると、ひどく古典的な人差し指の罠が頬ついて、口角がグイっと上がった。
「──っむぅ⁉」
「ふひひ、いい笑顔」
工藤鈴夏。整った顔立ちに茶色のショートヘアの幼馴染。事前のクラス発表によれば今年は彼女とクラスメイトだ。
工藤は今日の天気もあってか、その活発さはどこかより一層輝いて見える。底抜けの明るさはどこか陰鬱とした朝の空気を吹き飛ばす力があるようで、さっきまでの疲労と息苦しさはずいぶんと和らいでいた。
そして工藤はいたずらの成功に気分を良くしたらしい。満足そうに笑い、どういうワケか中指も使って僕の左頬を持ち上げるものだから、返事も碌にできやしない。
「うんうん。元気な姿に私も嬉しい! ほら、最後に会ったのすんごく前だったから心配してたんだよねー。体調は大丈夫?」
「“ふぉりゃもうばっひり。ほころでゆひをはなひてはなほう”(そりゃもうバッチリ。ところで指を離して話そう)」
「あははごめんごめん! まさかこーんなに上手く引っかかってくれるとは思わなくてさ」
そう言ってようやく口が自由になる。けれど手が離れた後も自然と口角は上がっていた。
……なんだか気恥ずかしくて、横に並んだ工藤から顔をそらす。
「いやぁそれにしてもホント無事でよかったー!! 巴が事故ったーって聞いた時はもう私心配で心配で。私、お見舞いにも何度か行ったけど、巴ってばいつも寝ていたから……」
「あ、はは。うんそれはごめん。多分タイミングが悪かったんだと思うよ。ほら、リハビリで朝から体を動かしてると、夕方には眠くてしかたないから」
「こういう時は謝らなくていーのっ! そうやって……巴は何かとすぐに謝るんだから」
さて。結論から言うと俺は車に轢かれた。めっちゃ痛かった。千鳥足の鉄の塊にぶつかられたことはあるか? 俺はある。
それは冬休み前の出来事。下校途中にアルコールでコントロールを失った車に跳ね飛ばされ、ここ数か月ほど入院していたのだ。不幸中の幸い、身体に苦痛を伴う後遺症が残らなかったのは、前借の謝罪がこれから起こる不幸を門前払いしてくれたに違いない。これもまた日ごろの謝罪の積み重ねの結果ということなのである。
とはいえあんまり乱用しすぎると入院期間が二週間くらい伸びたので、ほどほどにしておくべきというのは実感した。一言話すたびに謝罪を繰り返す僕を見たあの時の先生の顔は……うん、何というかとても味のある顔をしていた。
「あ、はは、そうだね。斜め前向きくらいで、考えておくよ」
「もーまたそんなこと言って。こうなったら渚さんと一緒に、巴の自己肯定感を爆上げ計画v2.2153を──」
「おっとそれはやめてね」
ここで俺の姉の名前を出すのはやめてほしい。あの渡会渚はどこで聞いてるか分からないし、念には念を入れよということである。それより爆上げ計画ってなんだろう? ついでにマイナーバージョンの付き方が不穏ですね。
いつの間にか進行していた怪しげな計画に怯えていると、工藤ぽつりとぽつりと話し出した。
「……ところで、なんだけど、さ」
「うん?」
何とはなしに話し出したように見えた工藤は、気が付けばすっと背筋を伸ばしてどこか遠くを見ていた。そしてそうやってしばらく並んで歩いていると、工藤はようやく決心したようにこちらに向き直る。
「轢かれた時に頭を強く打ったって聞いたけど。──頭大丈夫??」
「……ありがちだけど、まるで正気を疑われているみたいだよねそれ。いや他意は無いのは分かってるんだけれども」
「あ、巴。今結構真面目だよ私」
じっとこちらを見つめる工藤の顔は、確かに真剣そのもの。朗らかな笑みはすっと引いて、その口を堅く結んでいる。
ああ、そうか。工藤の明るさは彼女の明るさは不安の裏返しだったのだろうと悟った。
ここはひとつ大真面目に答えることにする。
「なんともない……ってわけじゃない。当時その、頭をかなり強く打ったらしくて記憶がさ。実は事故の前後の事を覚えていないんだ。今話したのだって全部渚から聞いたことだし。このどうしようもない体のだるさ以外、現実味は薄いのが本当だ。
そうだね、だからもしかしたら。覚えていないこともあるかもしれない」
「それってまさか、記憶喪失……? な、え、じゃあわ、わたしのことも巴……!」
「へ。あ、ああ、ええと大丈夫、大丈夫、だから!! 俺はこの通りピンピンしてるし、記憶喪失っていうのはもしかしたらの話だって! 工藤のことだってちゃんと覚えているよ」
「そうなの? ホントに、私の事忘れたりしてない?」
「それはもちろん。数少ない友達を忘れるなんて、たぶんそっちちのほうが難しいね。四、五人だし……」
「そっか、うん……え、私と谷内と──あとは?」
はい盛りました。くそう。
「ええと、とにかく! もし覚えてないならきっとそれは忘れてしまっていい記憶だったってこと。だから今覚えているものは、僕にとって大事なものだけだよ」
「そ、そっか。大丈夫なのね……」
そう言って工藤は、ホッと胸をなで下ろす。
「うん……良かった。危うく初対面の同級生に変な記憶を植え付ける女になるところだったから。
ほらほらーー幼馴染で良かったね! 巴」
うりうりーっ、と声を上げながら嬉しそうに肩をぶつけてくる工藤。
運動部のそれは文化部にとってはタックルと相違ないのは認識してほしいところだが。
けどまあ、幼馴染の元気な姿を見られるのなら、この体くらいやす──ぅゴふっ、……安くはないので手で押しのけた。
たわいのないやりとりを交わしていると、チャイムの音を合図に人の波が大きく動き出した。腕時計をチラリと見ると、遅刻ギリギリの十分前。煽るように針はカチカチと、刻一刻とHRが始まる時間に迫っている。
慌てて工藤はその流れに乗るように走り出す。
「て。やばっ、もうこんな時間! ほら早くっ遅刻しちゃうよー!」
「ちょ、まてまて! 馬鹿正直に並んでる時間はないって。この先、向こうまで列が続いているぞ」
そう言って、走り出した工藤の手をつかんで制止する。こういう時は校庭から迂回するのが冴えた案というものだ。
仕切りになっている花壇をひょいと乗り越えて校庭に出ていく。雨で湿った地面は砂埃の心配がなく、制服が汚れないのはありがたい。僅かに水滴を残した雑草にだけに気を付けて、乱雑に放置された硬球を横目に桜の木の傍を通り抜ける。
そしてようやっと満足に呼吸のできる場所に着いた頃、振り返ると工藤の姿はどこにもなかった。
仕方ないので、立ち止まって顔を右から左へと動かしてみては、ああちがう、また違うなんてことを繰り返す。でもしばらく探してみたが、工藤の姿はどこにもなかった。
残りはあと七分といった所。大混雑から抜け出せず、やむなく先に進んだのだろうか……。
ふと、諦めて振り返ろうとしたとき。視界の端にピタリと動かない影が一つ。
黒髪のロングヘア。名前も知らない女子生徒。その人は真っ直ぐにこちらに視線を向けていた。
勘違いではなく、見間違いでもなく。彼女は確かに、その凛とした瞳でこちらを見据えて立ち止まっていた。
人混みの中、自分と彼女だけがこの世界から切り離されたような錯覚。まるでこの世界の時間が止まったような感覚で……思わずぼうとする。
不思議な気分。こうもじっと見つめられて、けれどそれを嫌だとも思うことはなく。むしろ、まるで安心したとばかりに優しく口元を緩ませたその人から、俺は目を離せないでいる。
一心に自分を見つめ、その柔らかな笑みをこちらに向けた理由は分からない。ただどこか覚えのあるその光景は、言葉にできないそれは、遠い記憶の中にあって。
……ああ。それは確か──。
「巴――!? 私の幼馴染―!!」
再生する。ディスクがキュルキュルと音を立てて回り出すように、静視した世界が再び活動を再開する。駆動するプレイヤーのように忙しなく、人の流れが動き出す。
「うひゃーーごーめんごめん、曲がろうとしたら流されちゃって」
「────────」
工藤の声は右から入って左から抜けていく。
お風呂上がりののぼせた頭。そこはかとなく鼓動も速まっている気もして……ほんのりと熱い自分の頬思い切りはたく。
冷静なれよ渡会巴。思春期を少し入院で過ごしたハンデを考慮すべき。よく考えればあれはほんの一瞬の間にふと目が合った程度のこと。そして女子生徒はとっくに、さっきまでの場所にはいなくなっている。
俺は雰囲気に流されていただけなのだ。病み上がりの純情を狙われた被害者なのである。俺はチョロくない。
それは、俺のものじゃない。
「巴?」
「うん、そうだね、曲りなりにも流されるままにね。工藤はいつもいいことを言う」
「? よくわかんないけど、わかってくれたのならよしっ! 早く教室いこっ!」
ほら? と、跳ねるように優雅な足取りで、駆ける工藤に手を引かれるまま、俺はそのまま教室へと向かった。
心が弾む。新しい始まりに期待を寄せる自分の心は、自然と足を動かしていた。




