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家入紗希より今日という日をよく知っている人はいない  作者: 夜空
プロローグ

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1/3

ありきたりな人

 情熱欠落。

 渡井(わたらい)(ともえ)の脳裏にそんな言葉が浮かんだのは、今からほんの数年前の事。きっかけもよく覚えている。

 でもそれは強烈な体験というには味気なく、鮮烈な思い出というには大げさすぎる。彼の経験はありがちで、誰も彼にも当てはまる……そんな、どこにでもあるよくある話。


 体育祭の後のことだった。クラスみんなで集まって、近所の焼肉屋で打ち上げをしようということになった。

 参加者は全部で30人。必要なのは1人につき2000円。人数も多いし現地で回収するのも面倒ということで、集金係になったのは当時クラスの中で一番信用と信頼のあった学級委員長だった。

 彼女は朝一番誰よりも早くに教室に来ては、白ばんだ黒板を念入りに黒へと戻し。やや歪んだ机の配置は、さながら将棋の盤上が如く並べ替える。課題の提出は誰よりも早くて、図書室からの帰りは誰よりも遅い。

 異論ナシ。大賛成の全会一致。実に円滑に彼女の元へ全額が集まった。

 

 さて。事の起こりは当日の夜。

 待ち合わせ場所向かう道すがら巴は偶然彼女に出会った。彼女はお金の入った封筒をポシェットにしまっていて、大事そうに両手で抱えていて。決して無くさないよう巾着袋の開口部はかなり固く結んでいた。

 それを見た巴は、押すなと言われたら押したくなる。どうにも湧き上がってしまったイタズラ心のために、好奇心のままくだらないことを口にしたのだ。


「このお金……これ、このまま持っていったら何ができるんだろうね?」


 盗む、という言葉を使わなかったのはせめてもの良心だった。

 いや、度胸が無かったとかいうのではないので。はい。

 ともかく打ち上げのために、金額にして6万ちょっとが集まったのだ。

 確かに大金。でも大金持ちにはなれない額。けれど巴には想像もつかない程の大金に思えた。平凡な学生だった彼にとって、4桁を超える金額はめったに触れることは無く、想像する限りお菓子もゲームも買いたい放題だったのだ。

 例えあっという間になくなるにしても、そのくらいの欲望なら簡単に叶えてしまえる額なのは確かな事で。

 だから巴は、優等生の委員長はどんなことをしたいと思うのだろうと考えたのだ。

 彼女はどんな反応をするのだろうと。怒るだろうか、笑うだろうか、慌てて思い切り否定してまるで図星を突かれた犯人のようなドラマチックがあるだろうか、なんて。

 そんな知りたいという純粋な想いのまま。

 

 そして委員長は。

 急な問いかけに目を丸くした彼女は少し考えた後、そうね、と口を開いた。

 ……だが。それは彼が期待したような結果にはならなかった。


()()()()()盗みはしたくないかな」


 怒るワケでもなく、彼女は淡々とそう言った。

 リスクとリターンを冷静に秤にかけ彼女はその結果を返した。

 たかだか6万円で今を手放すのはバカらしいと。ポシェットの口をきつく締め直した彼女の姿がリフレインする。

 当たり前だ。当たり前のことなので、当たり前のことしかそこには事実として存在していなくて。

 何も特別な事の無い、ただ当たり前だけがそこにはあったという事。

 ……でももし。もしもの話だ。もしそれが()()()()では無かった時、彼女は一体どうしたのだろう……? 

 どちらにして意味はない。結局のところ、渡井巴は当たり前には行き当らなかったのだから。


 その瞬間だ。僕はどうしようもなく自分が子供で、みじめで、置いて行かれたように思えたのだ。

あるいはそれが大人になるという事だったのかもしれない。

 ただ、確かな事はそれは自分を見つめ直すには十分な衝撃だったということ。

 今。たった今この瞬間これまでの自分を手放したとして──その日々を振り返ったとき、積み重ねた時間を惜しいと思うことはあるのだろうかと。この先、そんな瞬間は訪れるのだろうか。

 

 きっとそうはならない。手放したところで、何も感じることができない。そして彼は、“そういうふうに生きることしかしてない自分にはお似合いなのだろう”と、納得した。

 というのもやはり、道理というのは積み重ねた結果が導く結末を意味する言葉なわけで。積み木を高く積み上げられず、ひたすら横に並べ続けていく渡井巴にとって、酸いも甘いも無縁の出来事なのだから。

 これまでの積み重ねを手放すことに何の感情も動かないのなら、積み上げてきたものの高さなど何の意味があると言うのだろう?


 それがきっかけ。気が付かなければ幸せに生きることができたろう。

 渡井巴はたった一言迂闊な言葉で、これまでのすべてを徒労にしてしまったのである。

 ……まあ、なんてことはない。やっぱりそれは、ありがちな話なのだ。


 とはいえ。そのどうしようもない欠落感が埋まることは無かった。どうにか取り戻してみようとも、決まって最後には……“はい、おしまい”と、本をぱたりと閉じて終わるだけ。一夜で終わる物語。

 まるで呪いのように。気が付いたその瞬間から渡井巴の為すことは、最後にはすべて無駄に終わってしまう。

 ならば。彼がこう思ってしまうのも当然だろう。

 “いずれすべてが徒労に終わるとするならば、どうして僕は頑張らなくちゃいけないんだろう”──と。


 かくして、渡井巴の情熱は過ぎ去った。

 もう返ることは無い。


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