ありきたりな人
情熱欠落。
渡会巴の脳裏にそんな言葉が浮かんだのは、今からほんの数年前の事。きっかけもよく覚えている。
でもそれは強烈な体験というには味気なく、鮮烈な思い出というには大げさすぎる。その経験はありがちで、誰も彼にも当てはまる……そんな、どこにでもある話。
体育祭の後のことだった。クラスみんなで集まって、近所の焼肉屋で打ち上げをしようということになった。
参加者は全部で三十人。必要なのは一人につき二千円。人数も多いし現地で回収するのも面倒ということで、集金係になったのは当時クラスの中で一番信用と信頼のあった学級委員長だった。
彼女は朝一番誰よりも早くに教室に来ては、白ばんだ黒板を念入りに黒へと戻し。やや歪んだ机の配置は、さながら将棋の盤上が如く並べ替える。課題の提出は誰よりも早くて、図書室からの帰りは誰よりも遅い。
そんな彼女が担当ならば異論ナシ、と。大賛成の全会一致。実に円滑に彼女の元へ全額が集まった。
事の起こりは当日の夜。
待ち合わせ場所に向かう道すがら、俺は偶然委員長に出会った。彼女はお金の入った封筒をポシェットにしまっているらしく、大事そうに両手で抱え、無くさないよう巾着袋の開口部を固く結んでいた。
それを見た俺は、押すなと言われたら押したくなるというか。どうにも湧き上がってしまったイタズラ心のために、好奇心のままくだらないことを口にした。
「このお金……これ、このまま持っていったら何ができるんだろうね?」
盗む、という言葉を使わなかったのはせめてもの良心だった。いや、度胸が無かったとかいうのではないので。はい。
ともかく打ち上げのために、金額にして六万ちょっとが集まったのだ。
確かに大金。でも大金持ちにはなれない額。けれどその時の俺には遠く輝くあの月すらも、手を伸ばせば届くように思えた。だってほら、ごく普通の感性を持った平凡な学生にとって、四桁を超える金額はめったに触れることは無いわけで、思いつくまま贅沢な想像はとまらなかったのだから。そしてこんな時、優等生の委員長はどんなことをしたいと思うのだろうと。彼女はどんな反応をするのだろうと。怒るだろうか、笑うだろうか。慌てて思い切り否定して、まるで図星を突かれた犯人のようなドラマチックがあるだろうか、なんて。
少年はただ。知りたいという純粋な想いのままに。
そして委員長。急な問いかけに目を丸くした彼女は少し考えた後、そうね、と口を開いた。
……まあ、期待したような結果にはならなかった。
「この程度で盗みはしたくないかな」
怒るワケでもなく委員長は淡々とそう言った。リスクとリターンを秤にかけ、冷静にその結果を返した。
たかだか六万円で今を手放すのはバカらしいと、ポシェットの口をきつく締め直した彼女の姿がリフレインする。
当たり前だ。当たり前のことなので、当たり前のことしかそこには事実として存在していなくて。何も特別な事の無い、ただ当たり前だけがそこにはあったという事。
……でももし。もしもの話だ。もしそれがこの程度では無かった時、彼女は一体どうしたのだろう……?
何にせよ意味はない。結局のところ、俺は当たり前には行き当らなかったのだから。
まさにその瞬間だ。渡会巴という自分がどうしようもなく子供で、みじめで、置いて行かれたように思えたのは。あるいはそれが大人になるという事だったのかもしれない。
確かな事はそれは自分を見つめ直すには十分な衝撃だったということ。
今。たった今、この瞬間。これまでの自分を手放したとして──その日々を振り返ったとき、積み重ねた時間を惜しいと思うことはあるのだろうかと。
俺にこの先、そんな瞬間は訪れるのだろうか。
きっとそうはならない。
というのもやはり、道理というのは積み重ねた結果が導く結末を意味する言葉なわけで。積み木を高く積み上げられず、ひたすら横に並べ続けていく自分には、酸いも甘いも無縁の出来事なのだから。
きっかけというのは些細なこと。気が付かなければ幸せに生きることができたろう。俺はたった一言で、これまでのすべてを徒労にしてしまったのである。
徒労ならば。じゃあ、自分に期待することもやめた。何かを成そうとする心意気も、夢も理想も、全部心の奥底に押し込んで蓋をした。そんな思いがあったのだと、忘れてしまうくらいずっと深くに。
俺はただ、穏やかであるのならそれでいいのだから。
そうとも俺は、それで。
「──ああ。俺は、それで良かったのに」
地面に横たわる俺は、背中に感じる熱く鈍い痛みを誤魔化すようにそんなことを口にする。
ひどい話だ。こんな時でさえ、走馬灯のように駆け巡ったものはろくでもない記憶。
仕方ない。楽しかった思い出も、多分俺は一緒に閉じ込めてしまったのだ。
「───っ! ───!!」
虚ろな意識の中、視界の端で彼女を見る。不憫なことに、偶然この場面に出くわしてしまったらしい。
何を話しているのかは、分からない。ああ、分からないよ。なんで君が涙を流しているんだろう。なんだかそれがおかしくって、俺はつい笑った。
「は、は……へんなの……」
足音は遠ざかる。やがて音は、もう聞こえないくらい遠く、遠くへ。
姿はすっかり遠くの景色に溶けていって。
ここにはもう、一人だけ。
かくして渡会巴の情熱は過ぎ去った。
もう返ることは無い。




