彼Side 第6章 前編「終わらせたくない」
水曜日の放課後。
図書室の扉に手をかける。
ほんの一瞬だけ、止まった。
息を整えるというよりも、心の奥のざわつきに呼ばれたような感覚。
理由は分かっていた。
この扉の向こうは、今までと同じ場所かもしれないし、そうではないかもしれない。
「……」
小さく息を吐き、押す。
扉はいつも通り、軽く音を立てて開いた。
空気も変わらない。
静かで、少しひんやりとしていて、外のざわめきが遠くに感じられる。
誰もいない。
本棚の間に差し込む午後の光が、ゆっくりと床に落ちていた。
「……いつも通り、か」
そう呟きながら中に入る。
足音がいつもより響いた気がした。
心の奥に小さな緊張がある。
でも、歩くたびにそれは少しずつ溶けていくようだった。
体が覚えている。
あの場所までの距離も、曲がるタイミングも、本棚の並びも。
迷うことはない。迷う必要もない。
――《まだ知らない君へ》。
背表紙を見つけた瞬間、胸の奥が小さく動いた。
懐かしい。けれど少し違う。
今さら緊張するのは変な話だけど、やっぱり仕方がない。
手を伸ばす。
指先が本の背に触れる。
軽く引き抜くと、紙の擦れる音が小さく鳴る。
背表紙の奥に指を差し込む。
止まる。
「……あるよな」
自分に言い聞かせるように呟く。
そのまま指先を奥へ伸ばす。
紙の感触。封筒の端。
ゆっくりと引き抜く。
白い封筒。
見慣れた形。
見慣れた――文字。
「……あった」
肩の力が少し抜ける。
消えているかもしれない、そんな最悪の想像も、どこかにあったからだ。
机に向かう。
椅子を引き、座る。
封筒を手の中で軽く持ち直す。
指先に伝わる重み。
前と同じか。
いや――少しだけ、軽い気がした。
気のせいかもしれない。
でもその“気のせい”が、やけに引っかかる。
封を開ける。
便箋を取り出す。
折り目を広げ、視線を落とす。
『少し、間が空いてしまいましたね。』
そこで一度止まる。
ページをめくり、次の行へ。
『あなたは、元気になりましたか』
それだけだった。
「……」
ページを裏返す。何もない。
もう一度、最初からゆっくり読む。
一文字ずつ確認するように。
『少し、間が空いてしまいましたね。』
『あなたは、元気になりましたか』
……終わり。
「……短くね?」
前は、もう少し言葉があった。
回りくどくはないけれど、余白があって、柔らかさがあった。
それが――今はない。
必要なことだけ、置かれている。
それ以上でも、それ以下でもない。
指先で便箋の端をなぞる。
紙の感触。文字も、変わらない。
丸みのある丁寧な書き方。
でも――
「……なんか、違う」
小さく呟く。
違うのは形でも文字でもない。
距離だ。
前は、もう少し近かった。
直接じゃなくても、踏み込んでくる感じがあった。
でも今は――触れさせない。
一定の距離を保ったまま、近づこうとしない印象。
「……」
もう一度読む。
事実として認識する。
『少し、間が空いてしまいましたね。』
『あなたは、元気になりましたか』
普通の問いかけ。
心配しているとも取れるし、確認しているだけとも取れる。
――ただ、それだけ。
「……遠いな」
軽い、という言葉が合っているのか分からない。
でも確実に、何かが減っている。
頭の中で考えが繋がる。
もし……これが。
――終わらせるための形だとしたら。
あり得る。
あの人ならやる。
無理に続けず、相手に負担をかけない。
そういうタイプだ。
「……はあ」
小さく息を吐く。
冗談じゃない。
ここまで来て、それはないだろう。
何回ここに来たと思ってる。
何回書いたと思ってる。
何回読んだと思ってる。
視線を落とす。便箋。
短い文章。
これで終わるには、あっさりしすぎている。
「……いや」
小さく首を振る。
勝手に決めつけるな。
まだ分からない。
ただ短いだけかもしれない。
忙しかっただけかもしれない。
たまたまこうなっただけかもしれない。
でも……違和感は消えない。
胸の奥がざわつく。
今までにない感覚。
不安。焦り。
――終わるかもしれない、という現実。
しばらく何もできない。
時間だけがゆっくり過ぎていく。
図書室は静かなまま。
誰も来ない。音もない。
「……終わる?」
ぽつりと声が出る。
自分の声が、少し遠くに感じた。
あり得る。十分に。
自然に途切れて、気づいたら来なくなる。
それで終わる。
でも、それでいいのか?
少しずつ、形になっていく。
「……いや」
首を振る。
それは、違う。
終わるのは――嫌だ。
理由は分からない。
でもはっきりしている。
「……終わらせたくねぇ」
あの文字。あの書き方。
少し遠回りな言い方。
――あれがもう来なくなるのは、無理だろう。
終わるのが嫌なんじゃない。
――終わらせたくない。自分の意思で。
視線が便箋から外れる。
机の上。ペン。白い紙。
ゆっくり手を伸ばす。
ペンを取る。
指先に少しだけ力が入る。
どう書くか、何を書くか。正直分からない。
でも――
「……繋ぐしかねぇだろ」
終わるくらいなら、何でもいい。
繋がっていられるなら、それでいい。
ペン先を紙に当てる。
一瞬止まる。
でも、そのまま動かす。




