彼Side 第5章 後編「止まっていた時間」
リュックの中に、封筒が二通。
白い紙。見慣れた文字。
「……あとで、でいいか」
そう言いながらも、視線は何度もそこに戻る。
教室は、いつも通り騒がしい。
久しぶりに戻ったせいか、やることは思ったより多い。
提出物。未提出の課題。
ペンを動かしながら、一つずつ片づけていく。
「これ出したら、ここに名前な」
「ああ」
差し出されたプリントに名前を書く。
自分の名前。
その横に、記名。
……特に意識せず、いつも通り書く。
そのまま次の紙へ。
「……」
手が、ほんの一瞬だけ止まる。
――いつもなら無意識に書く名前の横が、なぜか妙に重く感じた。
理由は分からない。
ただ、何かが引っかかった気がした。
「どうした?」
「いや……なんでもない」
短く返して、再びペンを動かす。
授業が終わり、昼が近づくにつれて、周りの空気が少しずつ緩んでいく。
戻ってきた、という感覚。
「久しぶりじゃん」
「大丈夫だったのか?」
次々と声がかかる。
「まぁな」
適当に返しながらも、完全には流せない自分がいる。
――戻ってきた。
その実感が、じわじわと積み重なっていく。
昼休み。
弁当を片手に、教室を出る。
「どこ行くんだよ」
「ちょっと」
曖昧に返して、階段へ向かう。
――教室の中では読めない。
本人がいるかもしれない。
それに、周りに見られてからかわれるのも、正直、面倒だ。
足は自然と人気の少ない踊り場へ向かう。
少しだけ静けさが落ちる場所。
「……ここでいいか」
リュックを下ろす。
中から、封筒を取り出す。
二通。白い紙。見慣れた文字。
少しだけ息を整えて、一通目を手に取る。
封を開ける。
便箋を取り出す。
目を落とす。
『今週は、忙しかったのかな。無理していないといいなって思ってます。』
「……」
視線が止まる。
続く言葉も、同じように穏やかだった。
無理をしないでほしい、という距離。
押しつけではなく、ただ気にかけている感じ。
読み終えて、もう一通に手を伸ばす。
封を開ける。
目を通す。
『最近、忙しいのかな。』
その先を読み進める。
言葉は同じように続いていく。
そして――
最後まで読み終えたあと。
少しだけ、息が止まる。
『ここで話せた時間、私にとっては思っていたよりずっと大きなものでした。』
「……」
静かに、封筒をリュックの上に置く。
ここで止まっても構わない、という温度だった。
責めるでもなく、引き止めるでもなく。
ただ、受け止めた上で、距離を置いている。
「……違うだろ」
小さく呟く。
返事を出さなかったこと。
間が空いたこと。
そのすべてが、ここに繋がっている。
終わることを、受け入れられるほど軽い時間じゃなかった。
「……ちゃんと返さねぇと」
ぽつりと呟く。
封筒を握る手に、少しだけ力が入る。
――止まっていた時間は、もう終わっている。
続けるかどうかは、自分次第だ。
病院の予約があるため、月曜日と火曜日は図書室に来ることができなかった。
そして水曜日。
ようやく、ここに来ることができた。
放課後。
図書室の扉を開けると、いつもの静けさが迎える。
人の気配は少ない。
本棚の前へ向かう。
あの場所。
本を一冊引き出す。
中から、封筒が落ちてくる。
「……あるな」
小さく呟く。
机に座り、封を開ける。
便箋を取り出す。
目を落とす。
『少し、』
『間が空いてしまいましたね。』
指先が、ほんの少しだけ止まる。
『あなたは、元気になりましたか。』
その一文で、視線が一瞬だけ固定される。
体調を気にする言葉。
その間の空白を、きちんと認識した上での問いかけ。
こちらが来ていなかった時間を、なかったことにしていない。
「……」
便箋を持つ手に、力は入らない。
ただ、静かに読み進める。
余計な言葉は少ない。
けれど、その分まっすぐ届いてくる。
読み終えて、しばらく何も言わない。
封筒を机の上に戻す。
視線を落としたまま、少しだけ考える。
間が空いた。
そのことを、相手はちゃんと受け止めている。
そして、それを責めてはいない。
ただ、確認している。
「元気になりましたか」
その一言だけで十分だった。
「……そりゃ、書くしかないだろ」
小さく息をつき、ペンを握り直す。
気持ちは、すでに固まっている。
封筒を脇に置く。
便箋を一枚取り出す。
深呼吸をひとつ。
少しだけ間を置いてから、書き始める。
空白があったことも。
その間、自分がどうしていたかも。
すべてを細かく書く必要はない。
ただ――
ここに戻ってきたことだけは、きちんと伝えるつもりだった。
ペンが、静かに紙の上を走り出す。
文字が少しずつ積み重なり、
止まっていた時間の続きを紡いでいく感覚だった。




