彼Side 第3章 後編「“ここ”だけなら」
水曜日の放課後。
図書室の扉を開ける。
静かな空気は、いつもと同じだ。
廊下のざわめきは遠くて、
ここだけ時間の流れがゆっくりになる。
でも――
ここに来る理由は、前とは違っていた。
本棚の間を歩く。
足は迷わない。
探す、というより、確かめにいく感覚。
同じ場所。
同じ棚。
同じ本。
――《まだ知らない君へ》
迷いなく引き抜いて、
背表紙の奥に指を差し入れる。
指先に、わずかな厚み。
……ある。
その感覚だけで、
胸の奥に張っていた何かが、すっと緩んだ。
気づかないふりをしていたけど、
たぶん俺は、
「なかったらどうしよう」
って思ってた。
机に向かって歩く。
椅子に座ると、やけに静かだ。
封筒を取り出して、
一度だけ裏表を確かめる。
開ける前に、少しだけ息を吐いた。
なんでだよ、と自分で思う。
たかが手紙だろ。
でも、
たかが、じゃない気もしていた。
封を開ける。
便箋を広げる。
目に入った最初の一文で、
思考が止まった。
『元気なふりって、疲れますよね。私も、誰かの前で元気に振る舞うことがあります。ここだけならいくらでも聞けるから、どんどん吐き出してね。』
「……」
声が出なかった。
ただ、視線だけがそこに貼りつく。
もう一度読む。
今度は、ゆっくり。
一文ずつ、
言葉の輪郭をなぞるみたいに。
――元気なふりって、疲れますよね。
喉の奥が、少しだけ詰まる。
分かる。
そう思った。
でも。
それを、こんなふうに
当たり前みたいに言われるとは思ってなかった。
俺は、別に。
弱音を吐いたつもりはなかった。
ちょっと疲れたって書いただけだ。
それだけだ。
それなのに。
――ここだけならいくらでも聞けるから。
視線が、そこに止まる。
「……なんだよ、それ」
小さく呟く。
軽い言い方のはずなのに、
妙に、真ん中にくる。
“ここだけなら”
その言葉に、
勝手に線を引かれた気がした。
学校でもない。
家でもない。
友達でもない。
この、本棚の奥だけ。
この場所だけ。
そこに、
ちゃんと“ここ”って名前をつけてくれたみたいで。
――どんどん吐き出してね。
「……そんな簡単に言うなっての」
思わず、少し笑う。
でも。
嫌じゃなかった。
押しつけでもない。
無責任でもない。
ただ、置いてある。
逃げ道みたいに。
便箋をめくる。
続きに目を通す。
『昨日は授業が長くて疲れたよね。無理せず休んでね。』
一瞬、止まる。
……これ。
ちゃんと、返してる。
俺が何気なく書いた一行を、
ちゃんと拾って、
ちゃんと返してる。
当たり前のことかもしれない。
でも。
最近、
自分の言葉が、
そのまま返ってくることって、あんまりなかった。
「……ちゃんと読んでるし」
ぽつりと漏れる。
なんか、それだけで。
変な話だけど、
少し、安心した。
『この前借りた〇〇の本、主人公の気持ちに共感したよ。あなたもきっと共感できると思うな。』
そこまで読んで、軽く息を吐く。
本の話も、ちゃんと続いてる。
俺が避けた話題。
答えなかった質問。
それでも、責めるでもなく、
自然に、また置いてある。
……なんなんだよ。
この人。
ちゃんとしてる。
でも、それだけじゃない。
ちゃんと見てる。
でも、踏み込みすぎない。
距離が、絶妙だ。
「……やりづらいな」
思わず呟く。
でもそれは、
拒絶の意味じゃなかった。
むしろ逆だ。
この距離を崩したくない、みたいな。
そんな、やりづらさ。
便箋を閉じる。
机の上に置いたまま、少しだけ天井を見た。
……どうする。
答えは、もう決まってる。
ペンを手に取る。
さっきみたいな迷いはない。
紙に向けた瞬間、
言葉が自然に浮かんだ。
『最近、ちょっとだけ忙しくて、気づいたら一日が終わってる感じがする。』
書きながら思う。
これ、誰にも言ってないな。
別に隠してたわけじゃない。
でも、
わざわざ言うことでもなかった。
『やることはちゃんとやらなきゃって思うんだけど、うまくいかない日もあってさ。』
少しだけ、ペン先が止まる。
“うまくいかない”
その言葉を見つめる。
曖昧だ。
でも、ちょうどいい。
具体的に書いたら、
たぶん、重くなる。
『でも、こうして誰かに話せる場所があると、ちょっとだけ救われる気がする。』
書き終えて、ペンを置く。
しばらく、その文字を見ていた。
……救われる、か。
大げさかもしれない。
でも、嘘ではない。
何かが解決したわけじゃない。
忙しさも、
うまくいかなさも、
きっと明日も続く。
それでも。
ほんの少しだけ、
呼吸が深くなった気がする。
「……まあ、いっか」
小さく呟く。
理由は、考えない。
考えたら、きっと理屈をつけたくなる。
これはただの暇つぶしだ、とか。
たまたまだ、とか。
でも。
それで軽くなるなら、
それでいい。
便箋を折る。
封筒に入れる。
角を揃える。
立ち上がって、本棚へ向かう。
同じ場所。
同じ本。
背表紙の奥に、そっと差し込む。
――でも。
手が、ほんの少し止まる。
前は、“あるかどうか”を確かめるためだった。
今は違う。
“続けるため”に置いている。
そこに気づきかけて、
やめた。
「……まあ、いいか」
小さく呟いて、手を離す。
本を戻す。
背表紙が、静かに棚に収まる。
本棚から離れながら、
ふと、思う。
次は、どんな顔で読むんだろうな。
会ったこともないのに、
そんなことを考えてる自分に、
少しだけ苦笑する。
図書室を出る。
廊下の音が、現実を連れてくる。
でも。
“ここだけなら”って言葉が、まだ頭のどこかに引っかかっていた。
帰り道。
空は、少しだけ赤くなっていた。
理由は分かってる。
でも、言葉にするほどでもない。
ただ――
次に何を書くか。
それを考える時間が、
少しだけ、楽しみになっていた。
気づかないふりをしながら、
俺は、そう思っていた。




