彼Side 第3章 前編「“ここ”だけなら」
水曜日の放課後。
図書室の扉を開けると、いつも通り静かな空気が流れていた。
廊下の音は遠くて、ここだけ少し切り離されたみたいに感じる。
この空気を吸うと、不思議と肩の力が抜ける。
本棚の間を歩く。
迷いはない。
もう、来る理由は決まっている。
同じ棚の前で足を止める。
手を伸ばし、本を引き抜く。
――《まだ知らない君へ》
背表紙の奥に指を入れて、封筒を取り出した。
中身を確かめる前に、ほんの少しだけ息を吐く。
……ある。
それだけで、分かる。
前よりも自然に、指先が動いた。
机に向かい、椅子に座る。
封筒を開ける音が、やけに大きく聞こえた。
便箋を取り出す。
整った文字。
揃った余白。
視線を落とす。
『返事をありがとうございます。
私もイタズラかな?って思っていたので、返事が届いて良かったです。
私は小説が好きです。日常の中の小さな出来事を丁寧に描いた物語や、少し不思議なファンタジーが特に好きです。
読んでいて落ち着くものや、ちょっとドキドキする話があると、つい夢中になってしまいます。
あなたは、どんな本が好きですか?』
ゆっくり読み終える。
「……ちゃんとしてるな」
小さく呟く。
文字だけじゃない。
言葉の選び方も、どこか柔らかくて、でも丁寧で。
ちゃんと考えて、ちゃんと向き合って書いているのが分かる。
イタズラかな?って思っていた。
そこに、少しだけ引っかかる。
……そりゃそうだよな。
俺だって、逆だったら疑う。
それでも、返事を書いてくれた。
その事実が、じわじわと胸の奥に広がる。
便箋を机に置く。
「……どんな本、か」
問いかけみたいな一文。
ペンを手に取る。
少し考える。
冒険もの。
バトルもの。
そういうのを書けば、それっぽい気もする。
無難だし、話も広げやすい。
……いや。
そんなに読んでねーな。
思った瞬間、ペンが止まる。
別に、嘘を書く必要はない。
ここは、ちゃんと書いてくれた場所だ。
だったら――
小さく息を吐く。
「……やめた」
ごまかすの。
格好つけるの。
“それっぽく”するの。
もういい。
ペン先を紙に当てる。
少し迷って――
でも、止まらなかった。
『昨日の授業は長かったんだ。休憩時間が短くて、次の授業に間に合わないかと思った。』
書いてから、少しだけ笑いそうになる。
……なんだこれ。
本の話、どこいった。
でも。
ペンはまだ動いていた。
『最近、やることが多くて少し疲れてきちゃった。でも、周りにそんな顔見せられないし……ここで聞いてもらえると元気になれるんだ。』
最後まで書いて、ようやく止まる。
静かだ。
図書室は、いつも通り。
なのに、胸の奥だけが落ち着かない。
「……いや、これ」
小さく呟く。
ちょっと書きすぎたかもしれない。
というか。
ほぼ愚痴じゃないか。
本の話、聞かれてたのに。
初めてのちゃんとしたやり取りで、これはどうなんだ。
相手、困るんじゃないか。
重いとか、思われないか。
知らない誰かに、こんなこと書くなんて。
……何やってんだ、俺。
視線を落とす。
便箋の上の文字。
さっきより、少しだけ生々しく見える。
消すか?
書き直すか?
もっと当たり障りない内容にするか?
本の話に戻せば、きっと無難に終われる。
考える。
でも。
指先で、そっと紙をなぞる。
これ、消したら。
たぶん。
また同じこと書く。
結局、ここでしか言えてない。
親にも。
友達にも。
先生にも。
妹にだって。
言えないこと。
「……まあ、いいか」
小さく呟く。
困るなら、返ってこないだけだ。
それだけの話だ。
それなら、それでいい。
便箋を折る。
なるべく丁寧に。
封筒に入れる。
立ち上がる。
同じ棚。
同じ本。
――《まだ知らない君へ》
背表紙の奥へ、封筒を差し込む。
今度は、ほんの少しだけ慎重に。
見つけやすいように。
……いや、見つけてほしいからか。
指を離す。
封筒は、静かに収まった。
……これでいい。
そう思う。
でも。
本を戻して、背を向けた瞬間。
胸の奥に、小さな引っかかり。
――どう思うんだろ。
愚痴、って思うか。
重い、って思うか。
面倒だ、って思うか。
それとも。
ほんの少しでも、分かるって思ってくれるか。
そこまで考えて、
「……めんどくせぇな」
小さく笑う。
何をそんなに気にしてるんだ。
顔も知らない相手なのに。
でも。
だからこそ、かもしれない。
図書室を出る。
廊下の音が戻ってくる。
日常の音。
役割の音。
でも。
さっきまでとは、少しだけ違う。
帰り道。
ふと、思い出す。
――小説が好き。
日常の小さな出来事。
少し不思議なファンタジー。
落ち着く話。
ドキドキする話。
……どんな本、読んでるんだろうな。
どんな顔で、ページをめくるんだろう。
気づけば、そんなことを考えている。
理由はつけない。
ただ。
来週の水曜日。
あの棚の前に立つ自分を、もう想像していた。
それが、少しだけ。
悪くないと思った。




