彼Side 第2章 前編「不器用な返事」
水曜日の放課後。
目の前には、あの白い封筒がある。
ほんの少しだけ、位置がずれていたやつ。
さっきまで、触るかどうか迷っていたそれ。
「……」
小さく息を吐く。
ここまで来て、開けないのも意味が分からない。
自分で入れたくせに、
今さら何をためらってるんだか。
終わらせるなら、さっさと抜き取ればいい。
そう思って来たはずなのに。
なのに、
胸の奥が、落ち着かない。
「……いや」
小さく呟いて、手を伸ばす。
指先が、封筒に触れる。
紙の感触。
少しざらついた表面。
何度も触れてきたはずなのに、
今は妙に意識に残る。
ゆっくりと引き抜いた。
軽い。
……でも。
ほんのわずかに、重さが違う気がした。
気のせいかもしれない。
でも、そう片付けるには、指先の感覚が違った。
時間が、ほんの一瞬だけ伸びた気がした。
図書室の静けさが、急に遠くなる。
窓の外で誰かが笑っているはずなのに、
その音も届かない。
自分の呼吸だけがやけに大きくて、
指先の感覚だけが、妙に鮮明だった。
紙一枚分の違いのはずなのに。
それが、こんなにも重く感じるなんて。
「……は?」
思わず声が出る。
封筒を持ち直す。
指でそっと押さえると、
中に、もう一枚分の厚みがある。
自分が入れたときには、なかったはずの感触。
心臓が、急にうるさくなる。
どくん、と一度大きく鳴る。
落ち着け、って思うのに、
全然落ち着かない。
「……マジで?」
喉の奥が乾く。
封筒の口から、便箋が見える。
自分のじゃない紙。
白い。
きちんと折られた、それ。
それを見た瞬間、
頭の中が一瞬だけ真っ白になった。
――来てる。
遅れて、言葉が浮かぶ。
いや、見れば分かる。
分かるけど。
それを“現実”として受け止めるまで、
少し時間がかかった。
「……来たのかよ」
ぽつりと呟く。
なんだその反応、って自分でも思う。
もっとこう、
驚くとか、喜ぶとか、あるだろ普通。
でも出てきたのは、それだった。
しばらく、そのまま動けなかった。
封筒を持ったまま、立ち尽くす。
図書室は静かで、
誰もいない。
窓から入る光が、本棚を照らしている。
いつもと同じ空間。
なのに、
自分のいる場所だけ、少しだけ現実味が薄い。
開ければいいのに。
中を見れば、それで全部分かるのに。
なのに、
すぐには開けられなかった。
……なんでだよ。
自分で思う。
怖いわけじゃない。
いや。
たぶん、少しはある。
“何もなかったら”じゃない。
それはもう、違うって分かってる。
そうじゃなくて。
本当に“誰か”がいたら。
あの白い封筒を見つけて、
悩んで、
それでも返事を書いてくれた“誰か”。
それを受け取るのが、少しだけ怖かった。
期待してなかったわけじゃない。
でも、本気で期待してたとも言えない。
どこかで、
どうせ何も起きないって思ってた。
そのほうが楽だった。
終わらせるのも簡単だった。
でも今は――
終わらせられない。
「……いや」
小さく息を吐く。
ここまで来て逃げるのは、さすがにダサい。
軽く頭をかいてから、
封筒を開いた。
紙が擦れる、小さな音。
その音が、やけに大きく聞こえる。
中から便箋を取り出す。
整った文字。
きちんと揃えられた折り目。
角もまっすぐで、
無駄な線がひとつもない。
それを見た瞬間、なんとなく思う。
――ちゃんとしてる人だな。
まだ何も分からないのに。
でも、そういう感じがした。
便箋を開く。
指先が、少し震える。
視線を落とす。
そこに書かれていたのは――
『はじめまして。
火曜日にこの手紙を見つけました。
お返事するか悩んで、少し遅くなりましたが、
私でよければ――
これからよろしくお願いします。』
読み終わるまで、
ほとんど息をしていなかった気がする。
短い。
すごく短いのに。
妙に、重い。
「……」
喉が、ひどく乾いていることに気づく。
図書室は静かなままなのに、
自分の鼓動だけがやけに響いている。
火曜日。
ちゃんと日にちまで書いてある。
その日、自分は何をしていた。
たぶん、普通に授業を受けて、
いつも通りつまらなそうな顔をしていたはずだ。
でもそのどこかの時間で、
この人は、あの封筒を見つけた。
手に取って、
開けて、
読んで。
そして――悩んだ。
知らない相手に返事を書くなんて、
簡単なことじゃない。
それでも、書いてくれた。
その事実が、じわじわと胸に染みてくる。
悩んで、って。
少し遅くなりました、って。
……ちゃんと考えてくれたんだ。
ただの気まぐれじゃない。
ただの暇つぶしじゃない。
そう思った瞬間、
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「……マジか」
今度は、ちゃんと実感がついてきた。
返事、来てる。
本当に。
あの封筒に、誰かが書いて入れた。
それが、今、自分の手の中にある。
便箋を閉じる。
もう一回、開く。
同じ文章。
なのに、
さっきよりも、言葉がはっきり届く。
“私でよければ”。
なんだよそれ。
遠慮みたいで、
でも少しだけ勇気を出したような言い方。
強くもないし、
弱すぎもしない。
たった一行なのに、
そこにその人の性格が滲んでいる気がした。
見たこともないくせに、
なんとなく、想像してしまう。
きっと、ちゃんとした人なんだろうな、って。
こっちが言い出したくせに。
先に勇気を出されてどうする。
「……どうするか」
ぽつりと呟く。
どうするも何もない。
答えなんて、最初から決まってる。
むしろ――
早く返さないと、って思った。
何度も見に来て、
何もなかった水曜日。
肩を落として、本を戻して。
期待してないふりをして帰った日。
あれを、相手にもさせるのは違う気がした。
少なくとも、
もう“ひとり”じゃないなら。
「……書くか」
小さく呟く。
今度は、迷いがなかった。
机の方へ歩き出す。
足取りが、少しだけ軽い。
さっきまでと同じ図書室なのに、
空気の温度が、ほんの少し違って感じる。
席に座る。
便箋をもう一度見下ろす。
知らない誰か。
でも、確かにここにいる。
俺は、ゆっくりとペンを取り出した。
次に書く言葉を、
初めてちゃんと考えながら。




