彼Side 第1章 前編「待っていないふり」
水曜日の放課後。
図書室は静かだった。
廊下のざわめきは遠い。
ここだけ少し切り離されたみたいだ。
本棚の間を歩く。
小さく、息を吐いた。
……少し疲れていた。
別に、用があるわけじゃない。
来なくても、いいはずの場所だ。
それでも、なんとなく足が向いた。
ただ――帰る前に、ちょっと寄るか。
そのくらいの気分だった。
家に帰れば、妹が宿題を教えて欲しいと待っている。
やることは、いくらでもある。
……なのに。
気づけば、本棚の奥へ進んでいた。
目に入る背表紙をぼんやり眺めながら歩いていると、足が止まる。
……ここ、だったな。
手を伸ばして、一冊の本を引き抜く。
――《まだ知らない君へ》
ほんの一瞬だけ、呼吸が浅くなる。
視線を落とす。
背表紙の奥。
白い封筒は、そのままそこにあった。
入れたときと、同じ場所に。
形も、変わらない。
誰かに触れられた様子は、ない。
……そりゃそうか。
こんな場所、普通気づかない。
分かっていたはずなのに。
ほんの少しだけ、肩が落ちた。
小さく息を吐いて、本を元の場所に戻す。
――まあ、そんなもんか。
心の中でそう呟いて、本棚から離れた。
次の水曜日。
来るつもりはなかったのに、
気づけばまた図書室に来ていた。
教室を出て、そのまま帰るはずだったのに。
……何やってるんだ、俺。
別に、確認しなくてもいい。
なくなってるはずもない。
それでも、足は止まらなかった。
同じ棚の前に立つ。
本を引き抜く。
白い封筒は、いつも通りそこにあった。
変わったところは、どこにもない。
……分かってた。
ほんの一瞬だけ、指先が封筒の角に触れる。
それから、すぐに本を戻した。
「……だよな」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
その声は、静かな空気に溶けていった。
それからも、水曜日になると、なんとなく図書室に足を運んだ。
来る理由なんて、特にない。
……来ない理由も、ないだけだ。
だから来てるだけだ。
同じように本を手に取って、
同じ場所を確かめる。
白い封筒は、いつもそこにあった。
誰にも見つけられた様子もなく、
ただ静かに挟まれている。
何度か触れているうちに、角がほんの少しだけ擦れていた。
よく見ないと分からないくらいの変化。
それ以外は、何も変わっていない。
時間だけが、過ぎていく。
それを確かめるみたいに、同じことを繰り返していた。
最初は封筒をちゃんと確かめていたのに、
いつの間にか、軽く目をやるだけで終わることも増えていた。
期待していないふりをするほうが、楽だった。
ある水曜日。
その日は、図書室に行かなかった。
行こうと思えば、行けたはずなのに。
気づけば、そのまま帰っていた。
別に、忘れてたわけじゃない。
ただ――まあ、いいか、と思っただけだ。
家に帰ると、妹が「遅い」と文句を言いながらも笑った。
いつも通りの光景。
ちゃんとした日常。
それで、いいはずなのに。
夜、布団に入って目を閉じたとき。
ふと、あの本が浮かんだ。
……なんだよ、それ。
自分で思って、少しだけ苦笑する。
でも、それもすぐに消えた。
次の水曜日。
図書室の扉の前で、ほんの一瞬だけ足が止まる。
入る意味なんて、もうほとんどないはずだ。
分かっている。
分かってるけど――
「……これで最後にするか」
小さく呟いて、扉を開けた。
静かな空気が流れ込んでくる。
いつもと同じ光景。
同じ棚の前に立つ。
同じように、本を引き抜く。
白い封筒は、そのままそこにあった。
ほんの少しだけ擦れた角も、そのまま。
それを見て、しばらく動けなかった。
――やっぱりな。
そう思う。
思うけど。
指先が、封筒の端に触れる。
このまま抜き取ってしまえばいい。
最初から何もなかったことにできる。
別に、誰にも知られていない。
恥をかくこともない。
ただ、なかったことにするだけだ。
それなのに。
指先に、ほんのわずかも力が入らない。
……少し、期待してたのかもしれない。
ここでだけは。
“誰でもいい”じゃない誰かと
繋がれるかもしれない。
そんな都合のいいこと。
……自分で、笑える。
でも。
「……もう一回だけ」
ほとんど聞こえない声で呟く。
次の水曜日まで。
それで終わりにすればいい。
そう決めて、指を離した。
封筒は、また静かに背表紙の奥へ収まる。
本を戻す。
今度こそ、本当に最後だ。
そう思いながら、本棚に背を向けた。
水曜日の放課後。
結局、また図書室に来ていた。
これで最後にすると決めたのに、
気づけば同じ棚の前に立っている。
《まだ知らない君へ》。
本を引き抜く。
背表紙の奥。
白い封筒は、いつも通りそこにあった。
角は、少しだけ擦れている。
……分かってた。
小さく息を吐く。
そして。
封筒を抜き取った。
机に向かう。
椅子を引く音が小さく響く。
封筒をゆっくり開き、ルーズリーフを取り出す。
何度も読んだはずの文字を、もう一度なぞる。
『はじめまして。
この本を読んでいる人へ。
いきなりこんな手紙が入っていて、すみません。
ちょっとだけ、誰かと話してみたくなりました。
もし迷惑でなければ、手紙をやり取りしませんか。
本の感想とか、 今日あったこととか、なんでも大丈夫です。
返事をもらえたら、嬉しいです。』
……。
しばらく黙って見つめる。
……悪くない。
でも――
「……これじゃ、困るよな」
小さく呟いた。
どうすればいいのか、ちゃんと書いていない。
“迷惑でなければ”なんて言われたら、 迷う。
返事が来なくても、 仕方ない。
そう思うと、不思議と落ち着いた。
誰のせいでもない。
足りなかったのは、きっと自分のほうだ。
鞄から、白い便箋を取り出す。
少しだけ深呼吸をする。
今度は、 読む人が迷わないように。
安心して、返せるように。
ペンを走らせる。
『はじめまして。
この本を読もうとしているあなたへ――
もしよければ、私と文通しませんか?
書く内容は読んだ本の感想や、
日常で楽しかったこと、嬉しかったこと、
悩み……何でも構いません。
同封した返信用紙に書いて、
また本に挟んで返してください。』
書き終えて、手を止める。
さっきより、少しだけ呼吸が整っていた。
ルーズリーフを折る。
少し迷ってから、鞄の奥にしまう。
代わりに、便箋を封筒に入れる。
返信用の便箋を、数枚。
封筒の角に触れる。
擦れた跡は、そのままだ。
それを新しいものに替えようとは、思わなかった。
封はしない。
最初と同じように、軽く折るだけ。
立ち上がる。
《まだ知らない君へ》を引き抜き、
背表紙の奥へ、そっと差し込む。
前と同じ封筒。
でも、中身だけが少し違う。
手を離す。
胸の奥が、静かになる。
期待は、しない。
ただ。
今度は、ちゃんと届く形にした。
それだけで、十分だった。




