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図書室の文通相手は…  作者: しゅり
彼Side
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彼Side プロローグ「静かな居場所」

水曜日の放課後。


図書室は、いつも人が少ない。


この静けさが好きで、

俺は毎週ここに来ている。


本を借りるため、というわけじゃない。


ただ少しだけ、

何も求められない場所にいたい。


さっきまで廊下に満ちていた話し声も、

扉を閉めた瞬間、遠くなる。


笑い声。


呼び止める声。


「ちょっといい?」という気軽な一言。


ここに入れば、それらは全部、外の世界の音になる。


本棚の間に入ったところで、

ようやく息を吐いた。


――疲れた。


声には出さない。


出すほどのことじゃないと思っている。


今日も、いつも通りだった。


朝のホームルームで、

先生に名前を呼ばれる。


「ちょっといいか」


その時点で、だいたい察する。


放課後の打ち合わせ。

クラスのまとめ役。

行事の進行確認。


断る理由もなく、自然に引き受ける。


「助かるよ」


そう言われて、

「いえ」と軽く笑う。


教室に戻れば、

「やっぱお前だよな」

「頼りになるな」

そんな言葉が飛んでくる。


悪い気はしない。


期待に応えられるなら、それでいい。


空気を読んで、

誰が今何を考えているかを察して、

少しだけ先回りして動く。


揉めそうな空気があれば、

さりげなく話題を変える。


誰かが困っていれば、

気づかれないくらいの距離で手を貸す。


そうしていれば、

大体のことはうまくいく。


うまくいっている、はずだ。


家に帰れば、妹が待っている。


今日は宿題を教える約束をしていた。


玄関を開けると、

ぱたぱたと足音がして、

「おかえり」と声が弾む。


リビングのテーブルに教科書を広げて、

分からないところを一緒に解く。


「わかった!」と笑う顔を見ると、

少しだけ肩の力が抜ける。


親は帰りが遅い。


俺を信頼して、任せてくれている。


妹はよく懐いていて、

ゲームを一緒にやれば無邪気に笑う。


それも、嫌じゃない。


ちゃんとやれている。


ちゃんとしているはずだ。


――なのに。


今日は少しだけ、全部が重かった。


理由は、分からない。


特別嫌なことがあったわけでもない。


叱られたわけでも、

失敗したわけでもない。


それなのに、

胸の奥に小さな引っかかりがある。


“俺だから”頼られているのか。


それとも。


同じように空気を読めるやつなら、

誰でもよかったのか。


俺じゃなくても、

困らなかったんじゃないか。


……考えすぎだ。


そう思う。


思うけど、

一度浮かんだ疑問は、簡単には消えない。


図書室の奥は、ひんやりしている。


古い本の匂い。

紙の乾いた匂い。


その空気の中に立っていると、

役割も肩書きも、

少しずつ薄れていく気がする。


いつもなら、ここで落ち着いて帰る。


静かな時間を少しだけ挟んで、

何もなかった顔をして、家に戻る。


でも今日は。


なぜか、このまま帰るのが

ほんの少しだけ、嫌だった。


本棚の間をゆっくり歩く。


指先で背表紙をなぞる。


ざらついた紙の感触。


少し色あせたタイトル。


その中で、ふと目に止まった一冊。


――《まだ知らない君へ》


その文字を見た瞬間、

時間がゆっくりになった。


まだ知らない君へ。


知らない、誰か。


立場も、役割も、

俺を知っている人間関係もない。


ただの、誰か。


その響きが、

胸の奥の引っかかりに触れた。


肩の力が、ふっと抜ける。


自分でも気づかないうちに

入り込んでいた緊張が、ゆるむ。


ここでなら。


ここでだけなら。


少しくらい、

弱いままの自分を出してもいいんじゃないか。


鞄を机に置く。


中からA5のルーズリーフを一枚取り出す。


端が少しざらついている。


今日、配られたばかりの白い封筒もある。


それを見つめたまま、

しばらく動けない。


――何やってるんだ、俺。


文通なんて、考えたこともなかった。


誰かと繋がりたい、なんて。


そんなこと、思ったことはなかった。


俺は一人でやれている。


誰かに弱さを見せなくても、

困らない。


……困らない、はずだ。


それでも。


どこかに、少しだけ吐き出したかった。


「頼りになる」じゃない言葉を。


「大丈夫」じゃない気持ちを。


ペンを持つ。


紙の上で、先が止まる。


やめるなら、今だ。


封筒を鞄に戻せば、何も始まらない。


誰にも知られない。


少しだけ迷って、

それでも、ペン先を落とす。


『はじめまして。


この本を読んでいる人へ。


いきなりこんな手紙が入っていて、すみません。


ちょっとだけ、誰かと話してみたくなりました。


もし迷惑でなければ、手紙をやり取りしませんか。


本の感想とか、今日あったこととか、なんでも大丈夫です。


返事をもらえたら、嬉しいです。』


書き終えて、手が止まる。


思っていたより、素直な言葉だった。


取り繕った文章じゃない。


少しだけ、不格好だ。


それが、妙に落ち着かない。


文通がしたかったわけじゃない。


ただ、ここでだけは、

“役割”じゃない誰かでいたかった。


ルーズリーフを折り、封筒に入れる。


封は、軽く折るだけ。


完全に閉じないのは、

どこかでまだ、逃げ道を残しているからかもしれない。


立ち上がる。


図書室には、もう誰もいない。


時計の針の音だけが、やけに響く。


足音をできるだけ立てないように、

本棚の奥へ向かう。


手にしているのは――


《まだ知らない君へ》。


ページの間ではなく、

背表紙の奥へ。


一度、差し込んで。


やっぱりやめようかと、指が止まる。


馬鹿みたいだ。


誰も返さなかったらどうする。


笑われたらどうする。


でも。


もう一度、奥へ押し込む。


すぐには気づかれないくらい、

ほんの少しだけ差し込む。


これで、終わり。


……のはずなのに。


手を離したあとも、

なぜか、その場から動けなかった。


見つけてくれる人は、いるんだろうか。


返事は、来るんだろうか。


……いや。


来ないかもしれない。


誰にも気づかれず、

そのまま埋もれて終わるかもしれない。


分からない。


分からないけど。


もし。


ここでだけでも。


“誰でもいい”じゃない誰かと

繋がれたなら。


役割でも、期待でもなく。


ただ、俺として。


そんなことを考えている自分に、

少しだけ驚く。


俺は静かに本棚から離れた。


振り返らない。


でも。


あの背表紙の奥にある、

小さな白い封筒。


それが、

いつか誰かの手に触れるかもしれないと思うと――


胸の奥に。


ほんのわずかな、余白が生まれた。


重さじゃない。


不安でもない。


まだ名前のつかない感情。


それが、

この日いちばん軽い気持ちだった。

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