第8章 後編 「静かな時間」
二月に入ると、学校は徐々に卒業前の静けさに包まれていった。
三年生は自由登校が基本になり、図書室に来る生徒も限られるようになった。
貸し出し業務もなくなり、私は図書室で静かに自分の時間を持つことができる。
それでも、前ほど彼に会える機会は減ってしまった。
朝、いつものように教室の扉を開ける。
静かな空間。
机や椅子の配置、見慣れた景色。
すべてが落ち着くはずなのに、どこかぽっかりと穴が開いたような気持ちになる。
彼の姿が見えない。
図書室に移動して静かに過ごしていると、
〔もしかしたら来てくれるかもしれない〕
そんな思いが胸の奥でそわそわと揺れる。
手紙の便箋をそっと取り出す。
これまで書いたやり取りを思い出しながら、ページをめくる。
あの日の初詣。
交わした笑顔。
手にしたお守り。
並んで歩けたことの嬉しさ。
母に「優しい人」と伝えたときの気持ち。
小さな思い出が、指先を通して胸の奥に広がっていく。
そんな日が数日続いた後、自由登校の日。
図書室の静けさは変わらない。
ふと時計を見るたびに心がざわつく。
〔今日は彼が来るかもしれない〕
そんな淡い期待が消えることはない。
けれど、彼の姿はなく。
私は一人で本棚の間を歩きながら、少し寂しさを感じていた。
「…彼は、今頃何してるんだろう」
思わず、小さくつぶやく。
受験生として、志望校に向けて必死に勉強しているのだろうか。
自分は大学の合格通知を手にしたけれど、彼はどうなのだろうか――。
進学先も違う。
このまま会えなくなってしまうのではないかという不安が、胸をよぎる。
手紙を確認して家に帰る日々が続く。
たまに見つけた便箋に返事を書きながら、どうしても迷いが残る。
今まで通り文通を続けるだけでいいのか。
それとも、自分の気持ちを伝えて関係を一歩進めるべきなのか。
ページをめくる指先が止まる。
手紙の言葉が、頭の中でぐるぐると回り続ける。
彼との距離は、手紙を通じて心地よく縮まっていた。
だが、会えない日々が続くにつれて、次第にその安心感だけでは満たされなくなる自分に気づく。
手紙だけでは、もう足りなくなっていた。
目の前で声を聞き、笑顔を交わすことが、どこか恋しくなっていた。
「このまま、何もなかったことになるのはイヤだ」
心の奥で強く思う。
進学して離れたとしても、この関係を壊したくない。
これまで交わしてきた手紙の時間。
初詣で並んだ距離。
互いを思いやる感覚。
そのすべてが消えてしまうなんて、考えられなかった。
卒業前、最後の登校日が近づく。
彼とやり取りしたすべての手紙を読み返す。
文字から伝わる彼の声。
言葉の端々にある思いやり。
少しの不安や迷い。
それらを感じるたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
〔やっぱり、ちゃんと伝えたい〕
その思いにたどり着くまでに、何度も心の中で言葉を繰り返した。
どう切り出せばいいのか。
迷惑にならないだろうか。
それでも――伝えなければ、きっと後悔する。
そんな思考が頭の中を駆け巡る。
一枚一枚丁寧に折りたたみ、缶の蓋を閉じる。
深呼吸をひとつ。
手に握ったペンが、わずかに震えていた。
窓の外には、夕暮れの光が柔らかく差し込んでいる。
誰もいない部屋の静寂の中で、自分の心の高鳴りだけが響いていた。
進学で距離ができても、この気持ちだけは隠したくない。
手紙で交わしてきた言葉の続きとして、次は直接伝える番だ。
〔……伝えたい。でも、迷惑だと思われないだろうか〕
指先で便箋を握り締める。
その中で、決意が少しずつ形を持ちはじめていた。
会えない日々は寂しかった。
けれど、その分だけ言葉の重みが増したようにも感じる。
手紙の一文一文が、以前よりもはっきりと心に残っていた。
窓の外を見ると、夕陽が街並みを赤く染めている。
曇っていた気持ちは少し軽くなり、胸の奥にはこれからの勇気が満ちていた。
手紙に込めた思いも、初詣の日のあたたかさも。
すべてが、私の背中をそっと押してくれる。
進路は別々になる。
それでも、この関係を守りたい。
そして次は、ちゃんと自分の言葉で伝えたい。
その決意だけが、胸の奥に静かに残っていた。




