第6章 後編 「近づく距離」
翌週、木曜日の放課後。
私はいつも通り図書室へ向かっていた。
けれど、その“いつも通り”が、もう少しだけ違っている気がした。
教室を出るとき。
何気なく振り返った視線の先に、あの人がいた。
ほんの一瞬、目が合って、すぐに逸らした。
胸の奥に、小さな波紋が広がる。
――気づいている。
お互いに。
でも、何も言わない。
その曖昧な距離が、今は心地よくて、少しだけもどかしい。
図書室の扉を開ける。
静かな空気が、そっと迎えてくれる。
この場所に来ると、呼吸が整う気がする。
私はカウンターに荷物を置き、腕章をつけた。
それから、自然とあの本棚の方へ歩いていく。
もう迷わない。
そこにあると分かっているから。
手を伸ばす。
指先に触れる封筒。
その感触に、胸が少しだけ高鳴る。
私は席に戻り、静かに封を開いた。
『教室で話すのは、不思議な感じがします。』
最初の一文に、思わず小さく息を漏らす。
やっぱり同じだ。
『声でやり取りするよりも、少しだけ距離が近い気がして。』
その表現に、胸がきゅっと縮む。
声の方が近いはずなのに。
でも、違う。
手紙で知っている分だけ、
直接のやり取りが、急に“現実”になる。
『でも、少し怖くもありました。』
その一文に、視線が止まる。
怖い。
その気持ちが、痛いほど分かる。
壊れてしまうかもしれないから。
今まで大切にしてきた、この関係が。
『だから、あのくらいでちょうどよかったのかもしれません。』
優しく、少しだけ距離を保つ言葉。
それでも、その奥にある本音は伝わってくる。
『でも、』
その一文字で、鼓動が強くなる。
『もう少し話してみたいとも思いました。』
一瞬、呼吸を忘れた。
目が、その一文から離れない。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
それは、私が思っていたことと、同じだったから。
教室でのあの短い会話。
たった一言、二言。
それだけなのに、もっと話したいと思ってしまった。
『急がなくてもいいと思っています。』
続く言葉は、やっぱりあの人らしい。
『でも、少しずつなら。』
静かで、控えめで。
でも確かに、一歩前に進もうとしている。
最後の一行。
『あなたと、だから。』
問いかけ。
今まであまりなかった、少し踏み込んだ言葉。
私はその一文を、何度も読み返した。
手紙を閉じたあと、しばらく何もできなかった。
膝の上に置いたまま、ただ考える。
――どう思っているか。
簡単なようで、難しい問い。
でも、答えはもう、分かっていた。
私は、鞄から便箋を取り出す。
ペンを持つ。
少しだけ深呼吸をしてから、書き始めた。
『私も、同じことを考えていました。』
文字にするだけで、少しだけ緊張がほどける。
続ける。
教室でのこと。
短い会話が、思ったよりも嬉しかったこと。
でも同時に、少し怖かったこと。
全部、正直に。
でも、壊さないように。
言葉を選びながら。
『もう少しだけ、話してみたいです。』
その一文を書いたとき、胸が大きく揺れた。
それは、小さな一歩だった。
でも、確実に今までとは違う一歩。
書き終えて、ペンを置く。
指先が、少しだけ震えている。
でも、それは嫌な震えじゃない。
期待と、少しの不安。
そして、前に進んでいる実感。
手紙を封筒に入れて、本棚に戻す。
その瞬間。
ふと、背後に気配を感じた。
「……あ」
小さく声が漏れる。
振り返ると、そこにいたのは――
あの人だった。
一瞬、時間が止まる。
こんなに近くで、顔を合わせるのは初めてだった。
お互いに、少し驚いた表情。
でも、すぐにいつもの穏やかな空気に戻る。
「……来てたんだ」
彼が小さく言う。
その声は、教室で聞いたときよりも、少しだけ静かだった。
図書室の空気に溶けるような声。
「うん」
私も、小さく答える。
それ以上の言葉が出てこない。
でも、不思議と気まずくはなかった。
沈黙が、重くならない。
むしろ、心地いいくらい。
彼は一瞬だけ、本棚の方を見る。
私がさっき手紙を戻した場所。
その視線に、胸がドキッとする。
――たぶん、気づいている。
あの手紙のやり取りを含めて、すべて。
もちろん、分かっているはずなのに。
こうして現実で重なると、急に実感が強くなる。
「……」
何か言いかけて、彼は少しだけ言葉を止めた。
そして、軽く息をつく。
「また、あとで」
それだけ言って、少しだけ笑った。
その“あとで”の意味が、分かる。
図書室でのやり取り。
手紙での会話。
それを指している。
私は、小さく頷いた。
「……うん」
それだけで、十分だった。
彼が本棚の方へ歩いていくのを、私は少しだけ見送った。
直接は見ないようにしながら。
でも、視界の端で感じる。
同じ場所に向かっている。
同じものを、大切にしている。
まだ形になりきっていない、この関係を。
それだけで、胸の奥が満たされる。
図書室を出たあと。
夕暮れの廊下を歩きながら、私はふと立ち止まった。
窓の外は、やわらかなオレンジ色に染まっている。
ガラスに映る自分の顔が、少しだけ違って見えた。
少しだけ、柔らかくなっている気がする。
きっと。
この数日の変化のせいだ。
気づいて。
確信して。
そして、少しだけ踏み出した。
まだ、大きくは変わっていない。
でも、確実に何かが動いている。
教室と図書室。
二つの場所で重なり始めた関係。
それはきっと、
もう前と同じままではいられない。
でも、それでいいと思った。
むしろ――
この先が、少しだけ楽しみだった。




