旅立ちの朝とトランクケース
小鳥が芝生の上で鳴いていた。
本日は晴天である。自然と外に出て行きたくなるほどに、太陽の光が眩しい朝だった。
眩い日光が射し込む窓の内側では、一人の少年が慌ただしく動き回っている。
衣服やら日記帳やら筆記用具やらをベッドの上にかき集めては、茶色のトランクケースの中に詰め込んで、その散らかりっぷりを同じくらいの歳の少女に叱られていた。
「———服は畳んであるんだし、他は多少ぐちゃっとしててもいいんじゃないかなと思うんだけどな」
「駄目よっ、そうやって適当にしていると、綺麗に整頓したい時もそう出来なくなるの。それにこの入れ方だとどちらにしてもぐちゃぐちゃになるわ。もっと持った時のことを考えなきゃ。あと、入学書類は持ったの? あれ忘れたら寮にも入れないんだから確認はしっかりね。」
「……………じ、じゃあ僕は着替えてくるから、リアに任せるね」
「だ———っ、せめて見て覚えなさいよッッ!!」
「あだぁ!?」
横腹直撃キックが登笈を襲う。
左半身を走る鈍い痛みにのたうち回る従兄弟の姿を見て、少女———リアーネは、ふんっ、と鼻を鳴らした。
今日は、登笈が西のスリージ聖王国へ出発する日だった。
学習院に入学が決まり、入寮の準備なども済み、いよいよ現地へ向かうという門出のめでたき日だ。
三月、枇杷の国では弥生と呼ぶこの季節は、新しい生活が始まる時期である。
なので、登笈は来月から晴れて学習院の生徒となるわけだ。
因みにリアーネも当然、来月から王立学院に通い始めるのだが、彼女の方は学生寮までの移動にそこまで時間がかからないので、他の家族同様に見送り役となっている。
入寮といっても、準備するものはそう多くない。着替えと金銭、それから着替えを少々持っていくだけだ。後は趣味である。大概のものは向こうに着いてから揃えた方が荷物にならなくて済むのだし。
「それにしても、登笈はあっちへこっちへ忙しいわね」
ふと漏らしたリアーネの言葉に、登笈は疑問詞を浮かべて首を傾ける。
「だって、枇杷の国ってところから、アテリア王国に来て、今度はスリージ聖王国でしょう?」
「あ、そういうことか。まぁそう言われると……確かに」
むむむ、と唸りながら登笈は首肯する。
理由が理由といえど、この歳でこれだけ国と国を移動するのはあまり無い経験だろう。大陸地図で考えると、右端から左端へ向かっているようなものだ。
そうして苦笑いをしていると、荷物を詰めながら、リアーネがぽしょりと呟いた。
「……羨ましいわ。私には多分、出来ないことだもの」
言われて、気付く。
リアーネはステンネル家の実子で、立場で言うと当主であるシュクルの後継となるべき存在だ。その行動には家名がそのまま乗っかっており、最終的な到達点も決まっている。
おそらく、あの日の晩に国内の王立学院と即答したのも、ステンネル公爵家長女ということを前提としていたためだろう。
大貴族の金銭的助力を受けながらも自由に動き回れる登笈と違って、彼女はこれまでもこれからも家名に縛られ続ける。立ち振る舞いにおいても、言葉遣いにおいても、交友関係においても、勉学においても、リアーネはリアーネ=ステンネルとして恥ずかしくないよう努めなければならないのだ。
こんな小さな背中で。
「………」
だからというわけではないが、登笈はそんな重圧を背負う彼女の頭をぽんと撫でた。茅色の髪は手入れされていて柔らかく、改めて彼女が女性であることを実感する。
急な感覚にリアーネはバッと振り返るが、従兄弟兼弟の優しい顔を見て、柔和な笑みを浮かべる。
「何するのよ。髪型が崩れるでしょ?」
「うん、ごめん」
言われて、パッと手を離す。
どうやら荷詰が終わったらしい。そこそこ詰め込まれたトランクが閉じられ、金具がぱちんと音を立てて留められる。
はい、と手渡されたそれを受け取って、登笈はその重みに何度か頷いた。
今から始まる生活が詰まっているような、不思議な重さだった。ずっしりと詰まっているが、片手で軽々と持ち上げられる。それから、これを手渡してくれた大事な従姉妹———いや、姉との暫しの別れも。
「……帰ってくるよ」
おそらく、彼女はこう思っているのではないかと、勝手ながら考えた。
このまま登笈が他国に行き、そしてまたどこか遠くへ行って、もう帰ってこないのではないか。
年月で言えば、二年とそこら。今までの人生の六分の一だ。そう思えばかなり短いが、それだけの時間をこのステンネル公爵家で過ごした。
これからの人生の方が余程長いし濃いのだろう。実際、学習院を卒業する頃の自分がどう考えているかなんて分からないし、保証も出来ない。けれど。
「終わったらここに帰ってくる。まぁリアに彼氏とか出来てたら僕の居場所は無いかもしんないけど、帰ってくる。手紙も書く。だから、今までありがとう」
父は帰って来ず、母は行方不明。一人取り残された自分を育ててくれて、学校にまで通わせてくれて、こうして愛情を貰った。時間は短いが、それを帳消しにするだけの恩義がここにはある。
何より、うちの姉は口調の割に寂しがり屋のようだから。
「………当たり前よっ」
その言葉を皮切りに、登笈は部屋を出た。
手入れされた廊下は本日も美しく保たれている。換気中らしく、あちこちの窓は開いていて、心地の良い風が髪の毛を撫で上げる。
「坊っちゃま、出発のお時間ですか?」
歩いていると、モップがけ途中のミエスに声をかけられる。
おそらく一日ぐらいサボってもバレないくらい綺麗なのだが、その仕事に妥協は無い。単に命じられたからか、それとも自分の意識の問題か。どちらにせよ、生半可では出来ない仕事だ。
思うに、別邸でそこまで広くないにしたって、メイドはもう一人か二人必要なのではないだろうか。まぁ、ミエス本人が楽しそうに料理を作ったり、リアーネと仲良くしていたりするので、彼女的にはこれで良いのかもしれないが。
「うん、行ってくるよ。元気でね、ミエスさん」
そう言って、軽く頭を下げる。すると、彼女はふふっと声を出して笑い、
「坊っちゃまは、もう少し主人らしく堂々と振舞ってくださいませ。お帰りになった際には、期待しておりますね?」
と、そのまま深々と腰を折る。
「———どうかご無事で。行ってらっしゃいませ、”登笈様”」
ミエスの頭頂部を見ながら、なんと返すべきか悩んだ。
主人らしく、堂々と。その言葉がなければ、お世話になりましたとか、色々とすみませんとか、そういった自信のないことを言っていただろう。だが、すんでのところで登笈はそれをぐっと堪えた。
感謝を示すことと、下手に出ることは全く違う行為だ。彼女は傍若無人に振る舞えと言っているわけではない。まぁ、要するに自信をつけろということだろう。
———これで一旦、この屋敷とはお別れだな。
名残惜しさを感じつつも、新たな生活に胸を躍らせて、登笈は外に一歩踏み出した。
振り返ると、二階の窓からリアーネがぶんぶんと手を振っている。彼女にもう数年は会えないのかと思うと、無性に寂しくなってきて、気付けばトランクケースを置いてこちらも思い切り手を振ってしまっていた。
「……さぁ、頑張ろう」




