夢と目覚めと
嗅いだことのない草花の香り。漆器とは違った入れ物に注がれた、見慣れない飲み物。着たことのない高価そうな黒色の衣服。室内で靴を履いているという違和感。
目に入るどれもこれもが、物心ついた頃から過ごした文化とは全く違った世界ばかりで、目が回るとはこういうことを言うのだな、と子供ながらに実感した。
床につかない足をぶらぶらと揺らしながら、黒髪の男児は初めて来た広い部屋で、落ち着かない態度を示している。
「大丈夫だよ、登笈くん。ここは君のお母さんの生まれたお家だから、きっと君に良くしてくれる」
隣に立っていた東陽人の男性は、震える登笈の手に触れて、何度も、何度も、落ち着くまでゆっくりと言葉を続けた。
だが、それでも。つい数日前までと一切異なる環境の急激な変化についていけるほど、男児は大人ではなかったのだ。
終いには泣き出しそうになる登笈を、男性がどうにかして宥めようと試みるが、一向に落ち着く気配は見えない。
やがて、遂に涙を流し始めた彼を救ったのは、閉じられていた部屋の扉をそこそこの速度で開けた、彼と同い年の女児の存在だった。
「……」
一言で表すなら、自信の塊。
背筋をぴんと伸ばした立ち姿は、彼女の幼いながらの強さを表していた。肩まで伸びた茅色の髪は柔らかそうで、ダークブラウンの瞳は長い睫毛も相まってとても凛々しい。
そんな颯爽と現れた女児は、ずかずかと部屋を進み、
「お父様が言っていたの、貴方だったのね!」
と、嬉しそうに声を上げる。子供の身体からすればそこそこに広い部屋の端から端まで届くくらいの声量で。
そして、驚いた様子の男性に、邪魔してごめんなさい、と首だけ曲げて謝罪の姿勢をとった。
「ねぇ。貴方、名前は何て言うの?」
「……と、おい。宮城、登笈」
登笈は、鼻をずずーっと啜ってから、赤く腫れた目元を擦ってそう言葉を捻り出した。
「そ、私はリアーネ。今日から貴方の姉よ。え、年齢? 貴方と同じだけど、悪い……かしら?」
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人は死ぬ寸前になると、昔のことや懐かしい思い出がフラッシュバックするというが、登笈にとってはリアーネとの記憶が正しくそれに該当していた。
最初は従姉妹、仲良くなって義理の姉、今では再会すると約束した最愛の家族の一人。そんな彼女の名前をどうやら寝ている間に口にしたらしく、感動の目覚めはとある金髪の大笑いによってかき消されてしまう。
「……そんな笑わなくても」
ついさっきから、むすーっとした表情を崩さず、恥ずかしさと苛立ちに頭を悩ませるのは、今しがたベッドの上で意識を取り戻したばかりの宮城登笈だった。
そして、頭やら腕やらに包帯が巻かれたいかにも重傷者ですといった風貌の彼の視線の反対側には、金髪碧眼の青年の姿がある。
「いや、悪ぃ悪ぃ。まさか従姉妹の名前だとは思わなくってよ」
壁にもたれかかりながら、そう言ってライア=レアンドは目覚めたばかりの親友を宥めにかかっている。が、いくら素直で純粋でもそこそこ年頃の男子であるところの登笈は、窓の外の景色を眺めてむくれたままであった。
それから何分か経ち。
「———ライア。あれ、夢じゃないよね?」
ぽつりと呟いた。
それ以外に言葉は無く、聞かれたライアも意図を求めはしない。彼もただ一言、氷のように止まった空気の中で首肯する。
ネサラの街は崩壊した。落雷ならぬ雷撃に塗れ、レベリオを名乗る集団に襲撃を受け、原型をほんの少しだけ残してあとは無に帰ったのだ。
その中で必死に挑んだ結果が今だった。ライアはローディスを、登笈はディザイアを思い浮かべて、彼ら彼女らの怒りを想起する。
「俺も、目が覚めたのは一昨日のことでな。傷は酷かったらしいが、この通りだ。お前も運び込まれた時は相当やばかったって聞いてるよ」
「……けど、治ってる」
互いに身体を見合わせて、負った傷が火傷や骨折なども含めて完治していることを再確認した。包帯なども本当はもう役目を終えているのだと。
ただの時間経過ではこうはならない。例えば骨折や切傷は修復されていくものだが、爛れた皮膚なんかは残り続けるものだろうに、それも無かったことになってしまっているようだ。
「治し方に関しては秘密だそうだ。金は要らねぇって言ってたが、ありゃ貸し一つってこったろーな」
具体的には、レアンド公爵家とステンネル公爵家に。
「……そっか。まぁ治ったんならいいや。聞いてもあんま難しい事は理解出来ないだろうし。そんなことより、ここはどこか分かる?」
高度な医療関係の話を持ち出されても、最終的にはふーんそうなんだとしか出てこない。とんでもない副作用があるとかでなければ、内容に関してはどうでもいいと、登笈はあっけらかんとそう言った。
そんな悪友の言葉に、ライアは呆れ笑いを漏らす。
「臨山都市ティファリア。竜翼山の麓の傾斜面にある町でな。地図見たら分かるが、聖王国のほぼ南端だったネサラからはかなり北上してる。聖都も近いぜ」
おそらくは自分達を救出してくれた騎士の駐在所がここだったのだろう、とライアは続けた。
「……何にしても奇跡だよ。ライアは何とかすると考えてたけど、僕は死んだと思った」
剣の柄を握りしめた感覚は、今も残っている。人と斬り合う時の心拍音も、乾燥しきった喉奥の痛みも。
意識を失う寸前、登笈は冷たい切先が首に触れたことに気付いていた。だが、そうはならなかった。死んではいなかったのだ。
だからか、登笈は今こうして生きていることにあまり現実味が感じられず、目を覚ました時に当たり前のようにライアが隣にいたことにもさして違和感を覚えなかった。
本当なら、お互いが生きて出会えただけでも天運のようなものだというのに。
「別に、俺もお前も神様のおかげで助かったわけじゃねぇだろ。
今の自分に出来ることを最大限に頑張って、生き抜いたんだ。その上で、確かに奇跡だって思えることもあるけどな」
「そうだね。……ねぇ、ライア。ルーンやレイド、スイヨがどうなってるのかは、わかる?」
ややあって、怖くて聞けずにいたことを、ようやく登笈は口にした。




